第104話 Bar もこもこ

 床に置かれたグラスや零れた液体を片付け、東屋に戻った五人と一匹とお兄さん。

 もこもこを抱いたマスターともこもこを抱いていないルークが同じベンチに座り、酔っ払いリオと素面なウィル、瞳を閉じているお兄さん、いつも通りのクライヴ、がそれぞれ分かれて座った。


「……ここは風が強いから、温めてくれたのか? ……お前は優しいな……ただ――冷やしたらもっと、美味いかもしれんな。いや、今でも凄く美味いぞ? ……それから、これは……あー、もしかすると……薄めて飲んだら、もっと美味くなるんじゃねぇか? ……いや、このままでも十分美味いとは思うが」


 クマちゃんの注いでくれた、ホットもこもこ酒を一口飲んだマスターは、膝の上で自分を見上げる愛らしすぎるもこもこをたくさん撫で、優しく微笑みながら言葉を紡いだ。

 愛おしい存在を傷つけたくはない。しかし、このやや危険な酒を他の人間が飲んだら――と想像した彼は、何も言わずにいたほうがもこもこを傷つけることになるかもしれないと考え、出来る限り柔らかい表現で想いを伝えた。


 ――『薄めないと飲めない』と。


 最初に言った〝冷たくすること〟よりも重要なのは、〝薄めること〟だ。

 飲んだ瞬間体を渦巻く何かは、何らかの効果があるような気がするが、このままではそれが判る前に倒れる人間が続出するだろう。


 チョコレート味の飴を液体で飲んだような、それが物凄く強い酒だったような、体が不調を訴えるような、逆に段々調子がよくなりそうな、不思議な何か。

 マスターは、彼の膝の上に座り、両手の肉球を合わせ頷いている素直で愛らしいもこもこに「でも、凄く美味いぞ。ありがとうな」と言い、くすぐりながら甘やかす。


「えぇ……マスター何で大丈夫なの……」


 かすれた声の囁きに返事をするものはいなかった。

 しかし彼は、口では文句を言っているが、マスターが酒でどうにかなるとも思っていなかった。

 何故ならマスターは、酒場のマスターだからだ。


 ――彼の視線の先にいるのは酒場のマスターではなく〝冒険者ギルドのマスター〟なのだが、リオが認識を改めることはないだろう。


 両手の肉球を合わせていたクマちゃんがもこもこした口を動かし、幼く愛らしい声で「クマちゃん、クマちゃん」と言う。

『クマちゃん、氷ちゃん』と。

 どうやらクマちゃんは氷が欲しいらしい。

 氷と言えばクライヴである。

 それに気付いたらしいもこもこが、隣のベンチに座るクライヴへ片方の肉球を差し出す。


 氷のような男は、酷く冷たい表情でピンク色の愛らしいそれを見つめ、声を出さずに呟いた。


 ――『肉球……』と。


 表情はとんでもなく険しいが、それは彼が悲しみをこらえる顔だった。先程、自身の部屋の中で愛らしいもこもことそっくりな立体映像から告げられた『すき』と言う言葉と、それを告げたもこもこがスゥッと消えてしまった時の胸を痛みを思い出したせいだ。


「何あのやばい顔。肉球に恨みでもあんの?」と誰かのかすれた声が響くなか、クライヴが肉球をじっと見つめていると、そこから見覚えのあるプクッとした白いハートが出てきた。

 愛らしいもこもこのもこもこした口から幼く愛らしい「クマちゃん、クマちゃん」という声が聞こえる。

 今度は『ハートちゃん、氷ちゃん』と言っているようだ。


 このハートをあげるので氷を下さい――という意味らしい。


「えぇ……それクマちゃんが渡したいだけじゃん」


 ハートの押し売り業者もこもこの企みを見抜いたリオが、クマちゃんへ肯定的でないかすれた声をかけた。

 しかし、やや冷たい態度の彼はそう言ったあと、「クマちゃんそれ俺にもちょーだい」と押し売り業者クマちゃんへ予約を入れる。

『リオちゃん可愛い』と言われたいからではない。

 肉球のようなぷにぷにの手触りが恋しくなったのだ。


 最愛のクマちゃんからのお願いを断れない、もこもこと肉球に弱すぎるクライヴは、目を伏せ、黒い革の手袋に包まれた手で服の胸元を強く掴み「――わかった」と覚悟を決める。

 席を立ち、取引材料のハートを差し出しているもこもこからそれを受け取った彼は、交渉成立の握手を肉球とサッと交わすと、逃げるようにもとの場所へ戻り、目の前のガラス製の容器――いつの間にか用意されていた、氷を入れるためのもの――へ、砕いたような形状のそれを、ザッと入れた。



 ルークとお兄さんにアレとアレが必要ですと伝えたクマちゃんは、現在、テーブルの上に乗り、赤ちゃんのような格好のまま黒いサングラスをかけ、両手の肉球でシェーカーを持っている。



「何その格好。その銀色のってまさか酒場のやつじゃないよね」


 見覚えのある、グラスを二つ合わせたような、銀色で縦長の容器を見たリオが、恰好をつけているもこもこに尋ねた。

 バーテンダークマちゃんは答えを返さず、二つの銀色の片方へ、お玉でもこもこ酒を注いでいる。零れた部分は闇色の球体がどこかへ消し去った。

 もこもこ酒の入ったシェーカーへ牛乳を注ぐ、バーテンダークマちゃん。


 ――もこもこしたバーテンダーはシェーカーに顔を突っ込み、匂いを嗅いでいる。


「クマちゃん顔入れすぎ」


 容器にもこもこした鼻先を嵌めたまま動かないバーテンダーを注意するリオ。

 吞気な南国の鳥が「愛らしいね」と言い、もこもこを褒めることに余念がない魔王のような男が「ああ」と返している。

 バーテンダーは何かに納得したように頷き、最後に専用のスコップで氷を入れると、もう一つの容器を逆さに持ち、蓋をするようにスッと被せた。


「クマちゃんまさかそれ振ろうとか思ってないよね」


 バーテンダークマちゃんの肉球の動きに不安を覚えたリオが声に警戒を滲ませ尋ねるが、答えは返って来ない。

 テーブルの上のもこもこしたバーテンダーが、両手の肉球でシェーカーを持つ。

 ――もこもこの手は短い。人間が使うシェーカーを無理やり持つクマちゃんは、持つ、というより、抱き着いているようだ。

 リオは『それ絶対無理なやつ』と言おうとしたが、もこもこ愛護団体からの殺気と、降ってきた氷のせいで黙るしかない。

 

 シェーカーを渾身の力で振ろうとした、力を入れすぎて震えているバーテンダークマちゃんの肉球をすり抜けたシェーカーが重みで倒れ――る前に闇色の球体がそれを回収する。

 それは、もこもこの肉球には戻されず、何故かマスターのところへ届けられた。


「……何で俺なんだ」


 眉間に皺を寄せ片目を顰め、嫌そうな顔をしたマスターが、面倒そうに立ち上がる。

 彼はシェーカーの上の部分をトンと斜めに嵌め、上下の容器を指先で支えるように持ち、胸の前あたりで器用に手首を使って大きく平行に動かし――続けて二段に振った。


「めっちゃマスターっぽい」

 

 リオが納得したように言う。

 ウィルも「さすがはマスターだね」と感心し、ルークも「そうだな」と適当に相槌を打つ。

 ハートを握りしめたクライヴは、もこもこの後頭部を鋭く見つめたまま動かない。


 酒場のマスターではなく冒険者ギルドのマスターである彼は、当然普段も仕事ばかりで酒など作らない。

 しかし、何故か皆、マスターならカクテルも作れるだろうと思っているのだ。

 頼まれると『何でお前らは俺に酒を作らせたがるんだ……』と文句は言うが、意外と優しいマスターは、面倒そうな態度で極稀に酒を作る。

 グレーの髪を雑に後ろへ流し、同じ色の顎髭を生やす、黒いズボンに白いシャツ、黒いベストという格好のマスター。身体能力の高い、元冒険者の彼は、シェーカーを振る姿が様になりすぎていた。

 そうして、周囲の期待に応え過ぎたマスターは『やっぱり――』と言われ、期待通りだった彼を見た酒場の人間は満足した。

 ――さすが、酒場のマスターだ、と。


 シェーカーをピタリと止めたマスターは、重なるそれを横から軽く叩き、被せている容器を外す。

 彼は隙間のある蓋のような、変わった形状の何かを銀色のそれに載せ、指で器用に押さえながら、用意されていたグラスに酒を注いだ。

 カクテルグラスに少量ずつ注いだそれは、三人分あるらしい。クマちゃんがたくさん入れたせいだろう。

 リオは満足した様子で再び「めっちゃマスターっぽい」と言う。

 ――バーテンダークマちゃんが一心不乱に肉球を舐めている。自分で格好良くシェーカーを振りたかったのかもしれない。


「え、普通に美味いんだけど」


 勝手にマスターの前からグラスを取ったリオが、早速味を確かめ、かすれた声で驚いたように言った。

 そして「あーでもちょっと体だるいかも」と首をひねっている。

 薄めたもこもこ酒なら大丈夫だと思ったらしい。

 それを聞いたウィルが「僕も貰おうかな」と言い、「リオ、一つ取ってもらえる?」と隣に座る金髪に頼んだ。

 グラスから近い位置に座っていたクライヴは、マスターが注いだクマちゃんのお酒を飲み、冷たい声で「――素晴らしい」と言い、頷いている。


「クマちゃんはお酒を作るのも上手だね。とても美味しいよ」


 むしゃくしゃした猫のように肉球を齧っているクマちゃんを、ウィルが優しい声で褒める。

 サングラスで顔の隠れているクマちゃんの表情はわからないが、スッと口元から肉球が離れたところを見ると、ウィルがもこもこを心から褒めたことが分かったようだ。

  

「うーん。これは……」


 もこもこ酒を牛乳で割ったカクテルを味わっていたウィルが、グラスを見つめ考えるように呟く。

 口に入れた瞬間、普段飲む酒よりも強いと気付いた彼は、飲んだものを少しずつ魔力に変換させた。

 ――すると足の先や体の一部に、痺れるような、不思議な感覚を覚えた。

 ウィルは、もしかすると今までその部分には魔力が通っていなかったのではないかと漠然と考え――自分がこうなるのであれば、他の人間は、と隣を見た。

 自分はもともと魔力量が多く、扱いにも慣れているため大きな影響はなかったが、魔力の扱いが上手くない人間であれば、あの酒を一気に魔力へ変えようとして、体のあちこちに異変が起こり、大変なことに――たとえば酩酊したように――なることもあるのではないだろうか。


「――もしかして、魔力の循環を助けるものなのではない?」


 カクテルから視線を上げ、マスターを見たウィルが、透き通った声で彼に尋ねた。

 失礼なリオがクマちゃんが作ってくれたお酒を『ヤベー酒』と呼んでいたのは、理由があったようだ。

 おそらく彼は薄めていないもこもこ酒をグラスに並々と注ぎ、それを一気に飲んだ上、乱暴な魔力変換を行ったのだろう。

 ――彼の頭は無事だろうか。 

 今の所元気そうだ。もしかしたら、もこもこ酒が全身に回り、回路が安定したのかもしれない。


「あー、そういうことか。――これは、もっと薄めれば治療にも使えそうだな。冒険者に飲ませれば、魔力操作の訓練にもなる。……もしかすると、上級魔法を使える奴が増えるかもしれん」


 元々クマちゃんのお酒に何らかの効果を感じていたマスターは、組んでいた腕を片方外し顎髭をさわりながら、納得したようにウィルへ答えた。

 立ち上がった彼は腕を伸ばし、テーブルの上のもこもこを撫でると「凄いもんを作ったな。お前のおかげで色々な人間が助かるはずだ」と感謝を伝える。

 喜んだもこもこはふんふんと鼻を鳴らし、ぴとっと濡れたそれを彼の指にくっつけていた。


 赤ちゃん帽とよだれかけ、リオの作った布の靴、サングラスを装備したバーテンダークマちゃんは、もこもこした口を動かし、幼く愛らしい声で、


「クマちゃん、クマちゃん」


と言った。

『クマちゃんも、カシャカシャ』と。

 ――やはりクマちゃんもシェーカーを振りたいらしい。


 バーテンダークマちゃんの前におもちゃのような小さな、蓋つきのシェーカーが用意された。これなら落としても零れないだろう。

 お兄さんが闇色の球体でどこかから持ってきたようだ。


「……あやしい。クマちゃん専用っぽい。お兄さんクマちゃん用に色々作らせてるでしょ」


 リオは目を細めお兄さんを見つめるが、当然答えは返ってこない。


「とても愛らしいし、格好いいと思うよ」


 フッと優し気に笑ったウィルがもこもこを褒めると、ルークが「ああ」と色気のある低い声で相槌を打ち、もこもこしたバーテンダーが頷いている。

 もこもこは肉球を使い、キュ、とゆっくり蓋をあけ、先程と同じようにお玉でもこもこ酒を注ぎ、牛乳と氷を順番に入れた。

 ――零れているものは闇色の球体が消し去った。途中で「クマちゃんめっちゃ零れてんだけど」とかすれた声で言った誰かは、もこもこ愛護団体から厳重注意を受けた。


 もこもこしたバーテンダーが肉球でシェーカーを挟み、胸の前で上下に、シャカ、シャカ、と振っている。


「クマちゃん遅くね?」とかすれた声で言った誰かは、もこもこ愛護団体からの制裁を受け、静かになった。

 

 素晴らしい技術でもこもこカクテルを完成させたバーテンダークマちゃんが、蓋の上部の注ぎ口を開け、用意されたグラスに注ぐ。

 ――闇色の球体がすかさず零れたものを消去する。


 長い脚を組み座っていたルークがしなやかな動作で立ち上がり、テーブルの上のもこもこを抱き上げる。

 彼はクマちゃんが一生懸命作っていたカクテルが自分のためのものだと解っていたらしい。

 クマちゃんを片手で抱いたまま、筋肉質でスラッとした長い腕を伸ばしグラスを掴んだ彼は、一気にそれを呷る。

 ルークはテーブルへそれを戻すと、低く色気のある声で、


「うめぇな」


と言い、腕の中の愛らしいもこもこからサングラスを外し、くすぐるように頬を撫でた。 

 大好きなルークに褒められたクマちゃんが、湿った鼻をふんふんと鳴らし、嬉しそうに彼の大きな手を肉球で掴まえ、くわえていると、南国の鳥のような男が優しい声で囀る。


「僕も、クマちゃんの作ったカクテルが飲みたいのだけれど」


 先程もこもこ愛護団体から厳重注意と制裁を受け黙っていたリオも「え、じゃあ俺も」とかすれた声で便乗した。

 氷のような男は声には出さなかったが、目を細め恐ろしい表情でもこもこを見ている。――彼も、もこもこカクテルが飲みたいようだ。

 ルークの腕の中、深く頷いた心優しいバーテンダークマちゃんは、幼く愛らしい声で「クマちゃん、クマちゃん」と言う。

『クマちゃん、おいしいの』と。

 

 皆のために美味しいカクテルを作ってくれるらしいバーテンダークマちゃん。

 素敵な夜の展望デッキには、もこもこしたバーテンダーがピンク色の肉球で、シャカ、シャカ、とシェーカーを振る、聴く者を幸せにする優しい音が響いていた。 

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