第103話 クマちゃんと危険な展望デッキ

 俯き、自身の体内で暴れるもこもこ酒を魔力に変換しようとしていた金髪の男。

 男は顔を上げ、


「――あれ、俺のクマちゃんが居ない……」


とかすれた声で呟いた。

 彼はそのままふらりと立ち上がり、うつろな瞳で東屋の外を見る。

 焦点のずれている男の目に、愛らしいもこもこの丸い後頭部が見えた。薄い水色の赤ちゃん帽をすっぽりと被ったもこもこは、彼が作ったピンク色の靴を履き、ゆっくりと展望台の柵の方へ歩いている。


「俺のクマちゃん……」


 

 何も知らないもこもこは、お仕事中のマスターとルークに、素敵な夜のお飲み物を届けることだけを考えていた。


 一生懸命トレイを運ぶ、健気なクマちゃん。

 純真なもこもこは自分の身に危険が迫っていることなど気付いていなかった。


 クマちゃんが東屋から十歩ほど進んだ、その時。


「俺のクマちゃん……どこいくの?」


 もこもこ酒でイカれた変質者が、クマちゃんの大事な赤ちゃん帽に手をかけた。

 

  

 背後から赤ちゃん帽を掴まれた幼いもこもこは、驚きのあまり『クマちゃん!』と叫ぶことさえ出来なかった。

 恐怖に震えるクマちゃんの頭に浮かぶいくつかの言葉。


 森、危険、クマ、死んだふり――。

  

 目を閉じ、全身の力を抜いたクマちゃん。

 真横に倒しても中身の零れないグラスは何故か落ちず、宙に浮いていた――。


      

 変質者の男は生暖かくぐんにゃりしたもこもこを抱き上げ、赤ちゃん帽を剝ぎ取った。


「俺のクマちゃん……めっちゃもこもこしてる……もこもこ」


『もこもこもこもこ』口走る変質者は興奮のせいか声がかすれ、危険なものを飲んだように、息が荒い。

 変質者の男はぐんにゃり生暖かいクマちゃんの、もこもこした丸い頭に顔を近付け――。


 まふっ――と嚙んだ。


「クマちゃん!」


 周囲に幼く愛らしいクマ的な悲鳴が響く。

 


 もこもこした頭に獣のような熱い吐息を感じたクマちゃんは思い出す。

 恐ろしい犬に頭を嚙まれ、誘拐された時のことを。

 きっともうすぐ、頭を銜えられたままどこかへ連れていかれるのだ。

 クマちゃんは、大好きな彼や仲間達と離れ離れになってしまうのだろうか。



 誘拐されてしまうかもしれないもこもこの口から漏れる、幼く愛らしい、


「クマちゃ……」 


という、あの人を呼ぶ声。

 閉じた目から零れる、キラリとした雫。

 

 その時――コツ、という軽い音と共に、クマちゃんの頭を銜える変質者が消えた。


「泣かせんなっつってんだろ」


 低く色気のある声が聞こえ、もこもこが目を開けると、大好きなひとの顔が見えた。

 銀色の髪と黒い服の、世界一格好いい彼は、あの時と同じように、誘拐されてしまいそうなクマちゃんを助けてくれたらしい。

 感動で胸がいっぱいのクマちゃんは、ルークの腕の中でポロポロと涙を零し、肉球が付いた両手をもこもこの口元に当て、


「……クマちゃ、クマちゃ……」


と幼く愛らしい声で彼を呼ぶ。

 もこもこの、自分を呼ぶ声を聞いたルークが、微かに目を細める。


「痛ぇのか」


 過保護で心配性な彼はもこもこの返事も聞かず、あの時と同じようにクマちゃんの頭に回復薬をかけた。

 変質者はもこもこを痛めつける趣味は無かったらしく、まふっとされただけの頭は傷ひとつなく無事だったが、彼の優しさが嬉しいクマちゃんはふんふんとしながら濡れた鼻を彼の長い指にくっつけ、感謝をつたえる。

 優しく涙を拭われ、頭や頬を撫でられ、どろどろに甘やかされたクマちゃんが「クマちゃ、クマちゃ」と赤ちゃんクマちゃんのような声を出し、ルークにくっついていた頃。


「おや。どうして床に金髪が転がっているのだろう」


 シャラシャラという涼し気な音と、優しい響きの声が聞こえた。


「――空から襲撃があったか」


 南国の青い鳥のような男と共に戻って来たクライヴが、もこもこを甘やかしているルークに冷たく鋭い声で尋ねる。


「酒だ」


 もこもこに指を銜えられたまま、ルークが低く色気のある声で答えた。

 彼は、床に転がるリオが酒にやられたことを察していた。

 もこもこが酔っ払いに襲われている間も無事だったグラスから、強いアルコールの匂いを感じたからだ。

 ――因みにそのグラスは今、トレイに載ったまま宙に浮いている。怪しい〝お兄さん〟の用意したグラスとトレイは、クマちゃんのお手伝いが失敗しないよう細工されているらしい。

 ルークは仲間の酒の強さなど気にしたことは無いが、もこもこが運んでいたグラスの中身が原因なのは推測できた。


「普通の酒では倒れないはずだが」


 氷のような男は床に転がっている金髪に、本に挟まった菓子のかけらを見るような目を向け、冷たい声で呟いた。


 

 大好きなルークの安全な腕の中で彼の素敵な指をくわえているクマちゃんは、床に誰かが倒れていることに気が付いた。

 大変だ。

 床に金色の髪の誰かが倒れている。

 金色なのだから、あれはリオだろう。

 クマちゃんと同じく、変質者に頭を嚙まれたに違いない。

 急いでルークの腕を肉球でキュムッと押し、床へ降ろしてもらう。

 可哀相なリオのもとへ近付くと、彼の口元が動き、何かを呟いている。


「……ず飲みた……」


 クマちゃんの高性能な耳が、かすれて聞こえにくい、苦しみに満ちた声を拾った。

 重傷者は、飲み物を欲しているらしい。

 そしてクマちゃんはハッと気が付く。

 ――クマちゃんは、飲み物を運んでいる途中だったのだ。

 お仕事を頑張っているルークとマスターのための飲み物だったが、今は重傷者の救助を優先しなければ。

 辺りを見回すクマちゃんのすぐ側には、湯気の立つそれがあった――。

 


 リオはひどい頭の痛みと、喉の渇きで目が覚めた。

 痛い。まるで最強の男にコツンとやられた時のようだ。

 自分は何故、床に倒れているのだろう。――いや、そんなことはどうでもいい。喉が渇いた。水が飲みたい。


「誰か……冷たい水飲みたいんだけど……」

  

 リオが倒れたまま呟くと、少しして、誰かがそっと彼の手に、硬い――グラスのような物をふれさせた。

 温かい。全く冷たくないが、今はとても喉が渇いている。


 彼は無理やり体を起こし、「ありがと……」とかすれた声で呟くと、一気にそれを口に含み、ゴフッと吐き出した。


 何故か喉を焼くような熱さと甘さを感じ、むせるリオ。

 気の毒に思ったらしい誰かが、もう一度、そっと彼の手に温かいグラスをふれさせた。


 彼はむせながら「……あ、りが、と……」とかすれた声で呟くと、一気にそれを口に含み、再びブファッと吐き出した。


 涙を流し咳き込むリオを心配する誰かが、そっと、彼の手をさする。


 ――肉球が付いたその手は、白くてもこもこしていた。


 自分にグラスを渡していた犯人――犯クマに気付いたリオが、それを見て叫ぶ。

 

「いや俺がむせてんのクマちゃんのヤベー酒のせいだから!」

 

  

 心優しいもこもこに介抱され、何故かボロボロになっていくリオを見ていた南国の鳥のような男が、


「リオ。クマちゃんは君を心配しているのだから、ひどいことを言ってはいけないよ」


と涼やかな声で叱る。

 まだもこもこ酒を飲んでいないウィルは、癒しの力を持つクマちゃんが作る飲み物で金髪がボロボロになったなど思いもしない。


「…………」


 リオは『この酒まじでヤベーんだって!』と言うことも出来ず、犯クマの肉球にさすられている己の手を見つめ、黙っている。

 ――クマちゃんは優しい。

 先程リオが言ったひどい言葉など聞こえていないかのように、ずっと優しく、肉球で彼の手をさすってくれている。

 リオはごめんという代わりに「クマちゃんありがと……」と言った。


 ――リオは気付かない。クマちゃんの耳にはリオの言った『ヤベー酒』という言葉など入っていない。あのクマの耳には、リオの言葉は半分しか入らないのだ。


 クマの兵隊さんから杖を取り上げたらしいマスターが、ポコポコと足を殴る木製のおもちゃたちを器用に避けて歩き、ルーク達のもとへやってきた。

 

「何やってんだ、お前らは……」


 床に置かれたグラスと何故か零れている茶色い液体を見たマスターが面倒そうに言い、額に手を当てこめかみを揉む。

 しかし、彼はすぐにグラスが二つあることと、側にあるトレイに気が付いた。


「もしかして、白いのが作ってくれたのか?」


 優しく甘やかすような声で尋ねたマスターが、床から健気なクマちゃんを抱き上げ、もこもこした頭を撫で、頭の後ろにぶら下がっていた帽子を直す。

 彼は、もこもこした顔の周りをレースで縁どられたクマちゃんを見て「可愛いな」と笑い、頬をくすぐるように撫でながら、


「俺にも、お前が作った飲み物を貰えるか?」


と渋い声で優しく尋ねた。

 

 足元から、もこもこを奪われた男の寂しげな呟きが聞こえた。


「俺の肉球……」と。

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