第96話 クマちゃんの可愛い魔法

「何それ」


 リオが目を細め、警戒した声を出す。

 猫のような肉球。

 愛らしいそれと、その上のプクッとしたものへ、視線が引き寄せられる。

 ――可愛い。

 ふわふわした真っ白な毛、愛らしいピンク色。


 ――そしてその上の、白い、ハート型の何か。


 何故か分からないが、目が離せない。

 ルークの腕の中、もちゃもちゃと口を動かしているお行儀の悪いクマちゃんが、そのハートがのった肉球を、スッとリオへ差し出してきた。  


 それはクマちゃんのどうぞ、のポーズだ。

 

「……俺にくれんの?」


 もこもこから『どうぞ』されてしまったリオが、意外と静かに椅子から立ち上がる。

 微妙に届かない位置で『どうぞ』するもこもこ。

 彼は一歩進み、肉球の上のそれへ手を伸ばした。


 ――リオの手が、ハートにふれる。


「何かぷにってする……」無表情で呟き、不思議な感触のそれを壊さないように指先で摘まんだ。

 ――貰ったのだから一応礼を言おう。

 リオは視線をクマちゃんの顔へ移し、『ありがとークマちゃん』の『あ』が出る前に、動きを止めた。


 ――大変だ。


 クマちゃんが、輝きを放っている。

 毛はほわほわと煌めき、黒いつぶらな瞳はいつもよりも大きく、つやつやきらきらしている。


 ――瞳に星がまたたいているのかもしれない。


 黒い小さな湿った鼻は、いつもよりも光沢がある気がする。


 ――湿り気が増しているのだろうか。


 そして何故か、両頬の毛が、ポワッと薄いピンク色だ。

 女性が化粧をしているときのように丸く色付き、非常に愛らしい。

 いつも可愛らしいクマちゃんが、世界一可愛らしくなってしまった。


 リオの口から、勝手に言葉が漏れる。


「クマちゃんすげー可愛い」


 もこもこを見つめたまま、急にクマちゃんを褒めだした様子のおかしいリオ。

 頬杖をつき彼らを眺めていたウィルが、リオに握りしめられているハートへ、スッと視線を動かした。

 金髪の様子はおかしいが、癒しのもこもこが使う魔法に害は無い。

 南国の青い鳥のような男ウィルが、クマちゃんに夢中なリオへ声を掛ける。


「確かにクマちゃんはとても愛らしいけれど、少し君らしくないね」


 そして彼はすぐに、


「……クマちゃん、僕にもその可愛い魔法をかけてみて欲しいのだけれど」


ともこもこへお願いした。


 お願いを聞いてくれた優しいもこもこのもとへ近付き、ぷにっとしたハートを貰ったウィルは、


「ありがとうクマちゃん。真っ白で愛らしくて、まるで君みたいだね」


もこもこを口説くように礼を言い、小さなマグカップでチャッチャッと温かい牛乳を飲んでいるクマちゃんと目を合わせた。


 いつも穏やかに微笑んでいるウィルから、笑みが消える。


 ルークがクマちゃんの為に傾けていた小さなマグカップを置く動作も、もこもこと見つめ合うウィルの目には入らなかった。


 ――いつも可愛いクマちゃんが、さらに愛らしくなっている。


 こんなに可愛い生き物は、世界中探しても、他に存在しないだろう。

 生後三か月の子猫よりも可愛い。


「こんなに愛らしくなってしまったら、誘拐されてしまうかもしれないね……」


 首を傾げ目を細めたウィルに合わせ、耳元の装飾品が揺れる。


 静かに響いた怖い言葉。

 聞いてしまった愛らしい――傾国のクマちゃんが、つぶらな瞳を悲し気に潤ませ、両手の肉球でもこもこの口元をサッと隠した。

 世を乱すほど愛らしさを極めたもこもこは、恐怖に震えている。


「させるわけねぇだろ」


 最強の男ルークが、色気のある低い声で当然のことのように告げた。

 彼の腕の中からもこもこを奪える者は居ない。

 ルークは長い指で、もこもこの口元を覆っていたもこもこの両手を退かし、トン、と湿った小さな鼻にふれた。

 見えない誘拐犯に怯えていた傾国のクマちゃんが、安心した様子でその指をくわえる。


「……いやちょっと待って。この魔法。何かおかしくない? 魅了の効果とかついてる?」


 震える手を無理やり動かし、強い意志でぷにっとしたハートをテーブルへ置いたリオが、気を抜くと握りたくなる素敵な感触のそれから少し離れ、かすれた声で尋ねた。


「幼いクマがそのような邪悪な魔法を使うわけがないだろう。――ただ愛らしさが増すだけだ。手を離せば効果も消える」


 それまで黙っていたお兄さんが、もこもこの容疑を晴らすため口を開いた。

 見るだけで魔法の効果が解るらしいお兄さんは「不快ならふれなければ良い」と言う。


「いや、別に不快ってわけじゃ……つーかこれ、何のための魔法? 愛らしさが増すって」


 お兄さんに尋ねたリオは、彼を見つめるつぶらな瞳に気が付き、すぐにテーブルの上のぷにっとしたハートを手に取った。

 あの目に見られると『クマちゃんの、いらない?』と悲し気に聞かれている気分になる。


 ハートを握った瞬間にまた「やべークマちゃん可愛い」と口が勝手に動いた。

 だが怪しいからと捨てれば、もこもこが悲しむ。

 魔法のせいで再びクマちゃんが世界一愛らしくなってしまったが、害はないらしい。

 ――胸のあたりが何故か苦しい。

 本当にこれは邪悪な魔法ではないのだろうか。


 いつもならば素直にクマちゃんを称賛するクライヴは、苦悩していた。

 あのぷくっとしたハートが欲しい。

 しかし普段から愛らしすぎるもこもこが更に愛らしく見えてしまう魔法など、迂闊に受け取れば――死ぬかもしれない。


 戦闘で命を落とすのならば仕方がないと思える。

 自分も相手の命を奪っているからだ。

 だが愛らしいもこもこの可愛い魔法を受け取って死ぬのはどうだろうか。

 心優しき幼いもこもこは、ハートで死んだクライヴを見て驚き、深く傷つくだろう。

 ――死ぬわけにはいかない。今は気配を消しておいたほうがいい。

 

 クマちゃんの魔法が気になったらしいルークが、もこもこの肉球を長い指で優しくさわった。

 

 

 ルークの腕の中に居たクマちゃんは、彼が自身の素敵な肉球をふにっとしているのを感じてハッとした。

 ――ルークもクマちゃんの〝クマちゃんかわいいねの魔法〟が欲しいのだろうか。


 クマちゃんはもともと可愛いが、お出かけの時などはもう少しおしゃれをしたいと思う。

 そんなときに便利なのがこちらの魔法だ。

 自分で髪を梳かしたり、服を着替えたりするのは難しい。

 しかしこの魔法なら、いつでもどこでも簡単に可愛くなれてしまう。


 クマちゃんは、うむ、と深く頷いた。


 天才的なクマちゃんは、ついに究極の美の魔法を手にいれたのだ。

 クマちゃんは、ルークの手に、そっとハートをのせた。

「リーダーの反応めっちゃ気になる」風のささやきが聞こえる。

 風も『クマちゃんかわいいね』と言っているのだろう。


 胸がどきどきする。


 ルークはあまり話さないから、クマちゃんに『可愛い』と言ってくれないかもしれない。


 彼はクマちゃんを抱き直し、お互いの顔が良く見えるようにした。


 一人と一匹が見つめ合う。


 いつも無表情な彼が、切れ長の綺麗な目を細め、口を開いた。


「いつもとかわんねぇ」


 クマちゃんの魔法はルークには効かなかったようだ。

 悲しいが、仕方がない。


「えぇ……いつもより可愛くなってない? 何か違ったりしない?」


 何故か悔しそうなリオが食い下がる。

 リオは反応の少ない彼の表情が変わるのを期待していたようだ。


「いつも可愛いだろ」


 少し落ち込んでいたクマちゃんのもこもこした耳に、ルークの低くて格好いい声が聞こえた。



「うわ、何それ。……リーダーそういうの外では言わない方がいいと思う」


 色気のありすぎる声で凄いことを言うルークを見たリオが、鳥肌の立った腕をさすっている。

 彼は苦い薬を嫌がる子供のような表情で「何かぞわっとしたんだけど」と呟いた。

 リオの話を聞いていないウィルが、独り言のように呟く。


「うーん。――確かに、そうかもしれないね。クマちゃんはいつも愛らしいのだから、いつもよりも可愛いという言葉は適切ではないのかも」


 ルークの言葉に納得してしまったらしいウィルは、ぷにっとしたハートを片手でぷにぷにと弄び、長いまつ毛を伏せて考え込んだ。


 

 クマちゃんがお友達のゴリラちゃんとお兄さんへハートをプレゼントしていた時、店のドアがチリンと音を立てた。

 そこから入って来た冒険者が、


「あのー、ルークさん。クマの兵隊のおもちゃってここに居たりします? 俺の杖持ってどっか行ったみたいなんですけど」


と声を掛けてきた。

 クマの兵隊さんに杖を盗まれたらしい間抜けな魔法使いへ視線を流したルークが、


「――後で届ける」


声と表情を変えず、『めんどくせぇ』と思っていそうな雰囲気で答えた。

 実際に彼は面倒だと思っていた。

 だが腕の中の可愛いクマちゃんが作ったクマの兵隊さんが盗んだのなら、探さないわけにもいかない。

 

「君は訓練が必要かもしれないね。僕で良ければ手伝うよ」


 冒険者が武器を盗まれるとはどういうことか。

 ウィルは穏やかな顔のまま――笑っていない目で魔法使いの男を見た。

 南国の鳥の優し気なさえずりは、その実全く優しくない。


 こうして彼らは、マスターへの報告をさらに後に回し、窃盗犯であるクマの兵隊さんを探すこととなった。 

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