第79話 愛らしくふにゃふにゃなクマちゃん

 クマちゃんは網に手を掛け、肉球の付いたもこもこのお手々にキュッと力を入れながら考えていた。

 ――肉球がしびれる。

 もう、だめかもしれない。体が全然持ち上げられない。

 リオがかすれた声で何かを言っている気がするが、良く聞こえなかった。

 多分『クマちゃん上手だよ!』と言ってくれたのだろう。

 クマちゃんは網を登るのも上手だが、今は少し調子が悪いのだ。

 せっかく褒めてくれたのに、このままでは上まで行けないかもしれない。

 ――肉球がかゆい。

 網で擦れてしまったのだろうか。

 チクチクする気がする。


「……クマちゃ……」


 苦しくてまた、声が漏れた。 


「クマちゃん一旦下りたほうがいいと思うんだけど」


 リオがまた何か言っている。

 きっと『クマちゃんいい感じだよ!』と言っているのだろう。

 今クマちゃんはあまりいい感じではないのだが、リオの目には格好いいクマちゃんが映っているのかもしれない。

 

 

 ヘルメットクマちゃんの体を持ち上げているリオは、猫の手のようにキュッと丸く握られた可愛すぎるお手々をじっと見つめた。

 しかし(いや、いま手が可愛いとか考えてる場合じゃねーし)と、視線をルーク達へ移す。

 ルークが切れ長の目をクマちゃんに向けたまま、軽く頷く。

 降ろしていいということだろう。

 もこもこを網から離そうとしたリオが、生暖かいクマちゃんの体を自分の方へ引き寄せようとすると、ツン、と手に軽い抵抗を感じた。

 ――クマちゃんが網に爪を引っ掛けている。

 カーテンにぶら下がる猫のようだ。


「クマちゃんごめん! 爪痛かった?」


 リオは片腕でもこもこの体を抱くと、右手を伸ばし、先の丸いクマちゃんの爪を簡単に網から外した。

 もこもこの抱き方を変え、顔が良く見えるようにすると、つぶらな可愛い瞳が少しだけうるうるしているように見える。

 クマちゃんが肉球をペロペロしているということは、もしかして痛いのだろうか。

 リオの目にはクマちゃんが負傷するほど何かをしていたようには見えなかった。

 しかし、この赤ちゃんクマ――もとい、赤ちゃんクマちゃんにとっては、細い縄で作られた只の網ですら、まるで鋭い刃であるかのように危険な物に変わってしまうのかもしれない――。

 

「リーダークマちゃんの牛乳ある?」


 もこもこを抱いたまま網から降りたリオが、クマちゃんを見守っていたルーク達へ近付いた。

 すでに用意していたらしいルークが、


「ああ」


と、抑揚の少ない低く色気のある声で一言返す。

 そして、クマちゃんによだれかけをさっと着け、リオからもこもこを受け取り、瓶を少しずつ傾けながらもこもこに牛乳を飲ませている。


 チャッチャッ、チャッチャッと、猫が水を飲むときの音をさせ、黄色いヘルメットを被り薄い水色のよだれかけをしたクマちゃんが、網との戦いで負った怪我を癒す。


 もこもこに激甘なルークは、可愛いもこもこが網を登れなかったのはヘルメットが重いせいかもしれないと考えた。

 ――因みに、クマちゃんがあの網を登れないのは腕力と運動神経が無いせいである。たとえもこもこが全装備を外し、素っ裸になったとしてもあの網を登ることは出来ない。

 激甘ルークがクマちゃんのヘルメットを外そうとすると、いつもなら彼に従順なもこもこが、スッとピンク色の肉球を見せる。


 このままで結構です、という意味だ。


 頭が少し重かったとしても、格好いい装備を外すのは嫌らしい。


「そのクマがアレを登れないのはそれが原因ではないと思うが。――まぁいい。私が軽くしてやろう」


 黙って幼いもこもこの奮闘を眺めていたゴリラちゃんが、もこもこしていない手をスッと上げた。


 ――クマちゃんが被っている黄色いヘルメットがキラリと光る。

 

 ルークの腕の中で何かに驚いたようすのクマちゃんが、ピンク色の肉球が付いたもこもこの両手を、サッともふもふの口元に当てた。

 どうやら、本当に軽くなったようだ。

 

「うわ……ゴリラちゃん魔法使ってるし。しかもクマちゃんみたいに人間の魔法と違うやつでしょそれ……」


 手を翳しただけで、対象物の重さを変えたゴリラちゃんにリオが嫌そうな声を出す。

 ゴリラちゃんの中に入っているモノが何かわからないのが嫌なリオは、彼が不思議な力を使える、という事も嫌らしい。

 同じぬいぐるみのような生き物でも、クマちゃんはしっとり生暖かく、猫のような口でご飯を食べ、つぶらな瞳は時に涙を流し、小さな黒い鼻も常に湿っている。

 少し変わっているが、赤ちゃんクマちゃんは見た目も中身も非常に可愛い生き物だ。

 しかし、ゴリラちゃんは元々、ただのぬいぐるみだった。

 そして、中に何かが入った今でも、動いてはいるが生暖かくもないし、口も、鼻も、目もぬいぐるみの時と変わらない。

 リオからすればゴリラちゃんは、可愛いもこもこクマちゃんとは違う、何か別のモノなのである。

 差別をしているわけではない。

 リオは、怪談や不気味な話が苦手なのだ。


「そうだね。でもゴリラちゃんの中に居るのは人間ではないのだから、人間が使えない力を使うほうが自然なのではない?」


 顔をしかめているリオにチラと視線をやり、腕を組んでいるウィルが透き通った声で彼に言う。

 今ウィルが『人間ではない』と言った瞬間、リオはさらに目を細め嫌そうな顔になったが、彼だってゴリラちゃんの中に入ったのが人間ではないことくらい判っているだろう。

 癒しの力でも感じれば、リオも安心するのかもしれないが、残念ながらゴリラちゃんから癒しの力は感じない。

 感じないだけで、人間とは違う力で癒すのだろうか。

 ゴリラちゃんに視線を向けてみるが、彼が強い力を持っているということと、悪い者ではないということくらいしかウィルには判らなかった。

  

「白いのとも違う魔法だろう。……魔法ですらないのかもしれんが」


 クライヴは杖を持っているわけでもないゴリラちゃんに視線をやり、誰に言うともなく呟くと、いつものように可愛いクマちゃん観察に戻る。

 彼は、ゴリラちゃんの中身が悪い者でなければそれでいいと思っていた。

 幼く愛らしい、純粋で心優しき生き物であるクマちゃんが幸せであるなら、他のことは大した問題ではない。――ついでに、リオがしょぼくれた顔をしなくなったことで、心配しなければならないことも減った。


 ――吹雪のように冷たい男に見えるクライヴは、その見た目と違い、案外仲間思いである。



 ――こうして、クマちゃんの特訓は、網を少しも登ることなく、次の場所へと移った。 

 

「――今日は、力を使わないものの方がいいだろうね」


 可愛いクマちゃんの限界を悟ったウィルが、視線をもこもこに合わせず静かに告げた。 

 愛らしいもこもこがどの言葉に反応するか分からない。

 強くなりたいらしいクマちゃんは、おそらく『弱い』『力が無い』などという言葉に敏感だ。

『今日は』を強調し、負傷したのだから、という意味だと思ってもらおう。


「あー。じゃああの水の上のやつでいいんじゃね?」


 ゴリラちゃんを抱えたリオが視線を向けたのは、湖の上にぷかぷか浮かぶ、木で作られた足場を移動するものである。

 円形や四角、長方形の板はただの板ではなく魔道具だろう。クルクル回る場所やトンネルがあるようだ。

 幅も広く、水に沈まない魔道具であれば大人が一緒に乗っても問題ない。


 幼く愛らしい声が聞こえる。


「クマちゃん……クマちゃん……」


 肉球をペロペロしながら『クマちゃん……回っちゃう……』と言っている。

 クマちゃんは回ってしまうらしい。


 軽くなったヘルメットを被ったクマちゃんがルークの腕を、ピンク色の肉球でキュムッと押した。

 ――一人で行く気のようだ。


 ルークは大事なもこもこを少し抱きしめ、頬をくすぐった。

 それは『ひとりじゃ危ねぇだろ』という問いかけだ。

 しかし、もこもこの愛らしいつぶらな瞳には『クマちゃん頑張る』という強い意志が宿っている。

 頑張りたいらしいクマちゃんをもう一度優しく撫でたルークは、湖に浮かぶそれへと近付き、大事なもこもこをそっと、最初の板の上に乗せた。

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