春にさよなら 最終話


 ──静かに眼を開けると、青葉の茂った桜の木をナツは見上げていた。

 また、記憶の中に逃げ込んでしまった事が理解できる。ナツの手はずっと小さく、見上げる桜はどこまでも高い。


『おーい、ナツ』


 後ろから聞こえるどこまでも優しい声が耳を擽る。振り向くと半袖姿のハルがゆっくりとこちらに歩いてくる。


(ああ、これは……)


 ナツはいつの出来事だったかを思い出した。もう狂細胞ガルに喰われて消えたと思っていたが、まだ存外、記憶の屑はのこっているようだ。ナツには幼い自分の声も聞こえている。これも、僅かに覚えているということか。


『ハルにぃ、桜の木ってどうして春にしか咲かないんだろう。一年中咲いてたらいいのに』

『そうだね、一年中咲いてたら確かに綺麗な景色をずっと観てられるだろうね。けど』

『けど?』

『春にしか咲かないからきっと綺麗に感じるだと思うよ。見飽きちゃうだろう』

『そうかなあ?』

『そうだよ、春に咲くから桜はいいんだ』

『ハルにぃの季節だからいいってこと?』

『ハハハ、確かに僕の名前にハルはあるなぁ。考えもしなかったよ』

『ふーん、ぼくは気にしちゃうけどなぁ。うらやましいて思っちゃう』

『何言ってんだよ。ナツの季節もいい事いっぱいだぞ。この桜の青葉だってとても綺麗だし、何より僕たちの大好きなスイカが美味しいのが夏って季節だ』

『本当だね、僕の季節も楽しいこといっぱいだっ!』


 二人は楽しく笑いあうと暑い日差しの青空を眺めた。


『来月から本格的に夏が始まるんだなぁ。春にさよならだ。ナツ、今年は海とか、行けたらいいね』

『うん、そうだね。ねぇ、ハルにぃ』


 ナツは見上げすぎて疲れた首をハルの方に向けて、元気の無い声で呟いた。


『僕たちの病気。手術したら本当に治るのかな?』

『治るさ、園長先生だって言ってただろ? みんなも手術して元気になって、新しいお家に行ってるんだよって』

『でも、あのお医者さん先生たち、凄く怖かった』

『お医者さんなんてみんな怖いもんさ。そうだナツ、元気になったら海に行こうよ。花火をするんだ』

『本当! 夏休みの怪獣映画も映画館で観に行ける! あとあと、テレビの中じゃない本物のプロレスも!』

『行けるよ。なんだってできるようになる! ほら、ナツの季節は楽しいことでいっぱいだろ?』

『うん、ハルにぃの季節も楽しいよ。来年は一緒にここでお花見しようよ。元気になったみんな呼んでさ!』


 ハルの励ましにナツの心は明るく叫んでいた。この世には楽しいことばかりが待っていると純粋に信じられた。


『ようし、たまにはナツの季節に身長を測ってみようか』


 ハルは元気の出たナツに微笑んで、ズボンのポケットから使い慣れた彫刻刀を取り出した。それを見たナツは両手を合わせてハルにあるお願いをする。


『ハルにぃ、たまにはぼくにも測らせてよ。自分の身長だけでいいから、お願いしますッ』

『大丈夫かなぁナツに刃物なんて』

『大丈夫、ちゃんと気をつけるから!』

『ハハハ、冗談。ほらナツ、自分の測ってごらん。僕が手を当てた所を削るんだよ』

『うん!』


 ハルから手渡された彫刻刀を大事な宝物を貰ったように眼を輝かせて見つめながら、真っ直ぐと前を向いてハルに身長を測って貰うと初めて自分で身長を彫るというワクワクとした心を弾ませて、ハルが手を示す桜の幹に彫刻刀をあてがった。







「──……あぁ」


 ナツはゆっくりと目を開けると、白銀の手が彫刻刀を握るような仕種をしている事に気づいた。意識はしていなかったが、視界が少しだけぼやけて見えた。それが、涙と気づくのに時間は掛からなかった。


「泣くなんて機能はもう喰われちまったと思っていたがな」


 ナツはもう一度眼を閉じ、涙を止めると何も無い空間に力を込めた。


 二人で刻んだあの桜もハルも、灰と化し天上に舞い上がっている。無と帰した空間に刻まれる想いはもう存在しない。そうは思っても過去と決別するこの儀式だけはやらねばならぬと、ナツは真一文字に消えた桜に己の身長を刻んだ。


「……行くか」


 決意を込めて後ろを振り向くと、敷地外に停めたはずの今の相棒オートバイがすぐ側にいた。新たなライダーグローブを身に付け黒のヘルメットを被る瞬間には、既に人の顔をしたナツに戻っていた。だが、その眼に宿る怒りの炎は変わらず燃え上がり続けている。


「待っていろ、外道共ッ」


 一陣の復讐者の風が空中の灰を巻き上げて、走り去って行った。





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春にさよなら もりくぼの小隊 @rasu-toru

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