第3話 ノイッシュ・フェルナス

「いまから三十六時間前、東の大聖堂が正体不明の武装集団に襲撃され、『宝珠』が奪われた」


 ざわり、と音がするほどの緊張が男に走ったのをエレナは感じた。それがどういうことなのか、自分が放った一言には、聞くものが聞けば十分すぎる衝撃があるはずだった。


「武装集団の目的は」

「まだ分かっていない。声明も出ていない」

「『宝珠』を奪っておいてか?」


 エレナは頷き、手にした短剣ダガーを腰の鞘に納めながら続けた。


「そう。ただ、武装集団の首魁が何者であるのかは調べがついた」

「誰だ」

「フィン」


 エレナは短く、武装集団の首魁と目される男の名を口にした。


「フィン・マドラス」

「マドラス……あのか」

「ええ。元冥風騎士団所属。わたしたちと同じ。そして、わたしとあなたの部下だった」

「あの貴族の坊やには、冥風騎士団所属としての技術は教えた。それだけだ。あの坊やに、それほど大それたことをする気概はない」


 男はフィン・マドラスについての感想を述べた。その感想は、やはりエレナが抱いた感想と同じもので、事件の内容から察する首魁としての印象とは程遠い人物だった。

 しかし、武装集団の首魁がフィンであることは間違いなかった。誰であろう、エレナ自身が調べ上げた情報なのだ。疑いようもなかった。

 そして、フィンが凶行に走ったその背景も、エレナは調べ上げていた。その内容まで聞けば、頷く他ない内容であった。


「昨年のこと、覚えてる? 王宮であった事件」

「王族が数人暗殺された事件か」

「ええ。、多くの死傷者が出たわ。でも、あれは本当の目的に達していなかった」


 それが、今回の武装集団の事件に通じていた。


「あの事件の本当の狙いは、スタジム王子だった。王族が襲われた事件の前に、王宮内で惨殺された侍女の遺体が見つかっていた。なのに、犯人は分からず、捜査もされなかった」

「……スタジムだな。あの色魔が」


 放蕩者として知られる第一王子スタジムは、これまでも多くの女性を、その権力を背景に囲ってきていた。王宮の奥には王の側室が集められた宮殿が存在するが、いまではそこを増築して王子が手にした女性を住まわせている。

 ただ、単に色狂いであればまだよかった。この王子の問題はそれだけではなく、囲えなかった、囲うことに失敗した女性を、衝動的に痛めつけることがあったのだ。そしてそれが周知の事実でありながら、誰も止めることをしてこなかった。

 当然、侍女の遺体が見つかった時も、誰もが王子と侍女の関係を疑った。だが、疑い、またか、と陰口が幾つが飛び交っただけだった。


「その侍女が、フィンの交際相手だった」

「ならスタジムの首を差し出すしかないな。守る価値もない、安いものだ」

「フィンが単独で動いている内なら、それでもよかった。王族を暗殺して回った、あの時点なら」


 一年後、再び現れたフィンは、大聖堂を襲撃し、『宝珠』を手にできるだけの武装集団を従えていた。


「……『宝珠』の強奪ということは、考えられる目的はふたつ」


 闇の中で男が低く呟いた。


「『宝珠』を交渉材料にして、王子の命を求める。もしくは……」

「『宝珠』を揃えて、この世界そのものを破壊する」


『宝珠』とは、ルクセンダル王国に伝わる、王国の人々が使う魔法の、源となる力が宿っているものとされている。起源は人の世ができあがった頃にまで遡り、創世の神より人間に授けられたもの、とされている。

 ルクセンダルに伝わる神話と、それを奉ずる国教、天風神教会により護られた『宝珠』は三つ存在する。ひとつは国土の東に位置する天風神教会大聖堂に、もうひとつは国土の西に位置する天風神教会大聖堂に。そしてもうひとつが、ルクセンダル王宮に安置されていた。


 三つの『宝珠』がひとつになる時、その強大な力が世界を滅ぼす。


 ルクセンダルに生まれ、育ち、生きているものならば、誰もが知る禁忌である。

 実際のところ、それが真実であるか否かは誰も気にしてはいなかった。もし仮に三つの『宝珠』をひとつにできる人間がいるとすれば、ルクセンダル王家か天風神教会の教皇だけで、それ以外の人間には目にすることすら叶わなかったからだ。


「……お伽噺だ」

「そう、わたしもそう思っていた」


 男はエレナに先読みされた自分の推理を鼻で嗤って否定したが、エレナはそうは思っていなかった。


「『宝珠』の神話に信憑性はなく、確かめる術もない。だから、三つの『宝珠』がひとつに合わされた時の話にも信憑性はない。わたしもそう思っていた」


 エレナは自分が見て、体験した出来事を男に告げた。


「王国の東部で、魔法の力が失われている。わたしも魔法を使うことができなかった」


 三十六時間前に起こった『宝珠』強奪以降、王国東部では魔法の力を行使できなくなっていた。調査のために現地入りしたエレナも、それは体験済みで、生まれてから当たり前に目にし、自身も魔道士として行使してきたものが、何一つできなくなるという体験は、混乱以外の何物でもなかった。

 エレナが考えたように、魔法の行使ができなくなった東部地域は、全域で混乱に陥っていた。個人で使用できる魔法はもちろん、魔法の力によって稼働していた王国の社会的基盤施設インフラも停止し、水や食料の確保すら困難な状況になっていた。


「『宝珠』が大聖堂から動かされたことで、魔法の行使ができなくなった……なるほど」

「因果関係を調べる時間はない。だからいまは起こった事実を受け入れるしかない」


 事実を事実として受け取った時、神話に語られる伝説は、実際の脅威となった。

 神話の通り『宝珠』が魔法の力の源であるのだとすれば、それが動かされたことによって、東部地域で魔法が使えなくなった、と言える。

 ならば、三つの『宝珠』がひとつになる時、その強大な力が世界を滅ぼすという伝承もまた、それが如何なる結末なのかはわからずとも、決して無視のできないものとなった。護る側に立つものとして。


「それが人質を取られてなお、お前が王家に尽くす理由か」

「わたしも冥風の一員だった。を許すつもりはない。王国に、王家に尽くすつもりなんて、いまさらない。それでも、世界が滅べば、護りたいものも護れない」


 わたしは、あなたとは違うから。

 全てを護ってみせた、そしていまなお、護り続けている、あなたとは。

 エレナは奥歯を噛みしめながら、その言葉を飲み込んだ。

 静寂が、二人の間にあった。

 静かな夜だった。外へ出れば、空に雲はなく、無数の星がいまも降り注ぐように近いはずだ。

 自分の無力さを思い知らされた日の空気と同じ、嫌になるほどの穏やかさがあった。あの日の自分とは違う、あの日から進むことができているはずなのだ、と言い聞かせても、膝は震え、息を呑む。


「……いいだろう。王宮へ行こう」


 あの日と同じ、拒絶が叩き付けられるのではないかと、震えた身体から力が抜けた。

 だが、次の瞬間だった。まだ気を緩めてはいけないことに気付いたのは。

 複数の気配が闇の中に発した。一、ニ、三。よく訓練されているが、まだある一定の領域には達しきれていない三つの気配が突然、男の背後に殺到した。


「よせ!」


 管理官たる自分がここにいることに気付かなかったのか、東からこのあばら家に踏み込んだ三人の部下は、息を潜めて必殺の瞬間を狙っていたのだ。

 だが、それができるのは、相手が彼らより劣っている時だ。

 彼ら以上の、王国の汚れ役を担ってきた『闇の騎士』たる超一流の暗殺者である男には、敵わない。エレナが叫んだのは、男の身を案じたのではない。部下の命を案じたのだった。

 やはり、男は気配を察知していた。恐らく襲い掛かかる瞬間を伺っていた先刻から。それ故に、対処は速かった。

 その場で高く跳躍した男は、背後から伸びた刃をそのひと飛びで交わし切った。そして、室内の天井に張り付くと、素早く両手を三人に向かって伸ばした。

 ぐしゃり、と水分の多い音がして、三人の部下が全く同じように床に倒れた。男が伸ばした手を振るうと、その手から伸びた尖った分銅付きの鋼糸が生き物のようにうねり、分銅に付いた三人の血を撒き散らしながら男の手に戻った。

 飛散した部下の血が、エレナの頬に紋様を描いた。生温かい感覚を得ながら、エレナは一言も発することなく男の挙動を見ていた。


「但し、騙し討ちはなしだ」


 天井から着地した男が、エレナに歩み寄り言った。

 近くに来て、改めて男の姿を目にする。緩く波打つ銀色の髪に、鳶色の瞳の美丈夫。やや痩せぎすではあるが、引き締まった印象を与える顔は、かつて王国の暗部として汚れ役を担った騎士団、冥風騎士団の長であった頃から変わらない。変わったのは重ねた年齢と、騎士団長であった頃には必要だった貴族としての清潔さで、逃亡生活に清潔さは不要とばかりに伸ばされた無精髭が、男に獣同然の野性味を与えていた。


「ええ。わかったわ……ノイッシュ」


 騎士団の長として、そして彼個人の異名として、『冥風ナイトウインド』と呼ばれる暗殺者、ノイッシュ・フェルナス。

 そして、かつては添い遂げるはずだった相手。

 エレナはひとまず、彼の協力を得た。

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