第二話【起業戦略】
高架橋の近くで目を覚ました。酔っ払いたちと並んで目覚める朝は電車の金属音と相まって最悪に等しかった。だが賭けには勝ったらしい。目の前には十本の水のペットボトルが置かれていた。俺はいそいそとお供え物のペットボトルをレジ袋に詰めていると目の前の人影に気づく。
「あ、おはよう七瀬」
「おはようじゃない、心配したぞ」
いつの間にかGPSタグを着けられていたらしい。
「世界を救った英雄が無様なものだな」
「金がないんだよ。東京でサバイバルしているんだ、わかるだろう?」
「なら金銀財宝を売ればいい。五十万円くらいなら足はつかないぞ」
その手段は最後に取っておきたかった。亜空間収納にある金銀は総量一トンを超えている。だからといってコイツに頼るのはまずい。これは最後の保険だ。
俺は立ち上がると七瀬の横に並んだ。
「なにか用事があるんだろう」
「ああ。お前の面倒を見るために来たが本題は別だ」
「養ってくれるのか」
「それは恋愛協定に反する。お前が独り立ちできるように会議を開くことにした」
聞き慣れた三つの条項を、七瀬は指を折って確認する。
「一、金は貸さない。二、泊まっても仕事は押しつけない。三、嘘をつかせない。——守れるな?」
「守る」
堂々とした即答。
「場所は図書館。十三時。今日決められなかったら金を売れ。逃げるなら、もう関わらない」
言い方は冷たいのに、目はやさしい。
俺はうなずき、ポケットのレシートに一行足す。決められなかったら売る。
逃げ道を、先に明るくしておく。
「条件もある」七瀬が続ける。
「三千円、今日中に作れ。現金で。魔法を使ってもいい」
七瀬は高架下のゴミ置き場を顎で示す。
「ゴミを売るのもありだ。下着は盗むなよ」
「盗むか、第一売れないだろう」
口に出してみると、思ったより声が掠れた。
七瀬は肩をすくめるだけで、目は俺の靴の結び目を見ている。
「十三時に図書館だ。忘れるなよ」
それだけ言って、行きかけて、振り向かないまま付け足した。
「……水を一本くれ。それと場所はメールするから確認しろよ」
「はいはい」
一本だけ抜いて渡す。受け取った手の甲に、日焼けの線。
七瀬が去る。足音が高架の腹に吸い込まれて、静かになった。
風。レジ袋が鳴る。
スマホには残高一万二千円。何度見ても桁は増えない。
息を吸って、吐く。今日は三千円。それから図書館。
高架下の張り紙を見て回る。
「古紙・段ボール 午前回収」
「ベビーカー譲ります」
「臨時スタッフ募集(手渡し)」
最後のに指が止まった。電話番号の下に、小さく「二時間 三千円」。
場所は商店街の中ほど。今から——間に合う。
公衆電話はもうない。スマホでかける。
ワンコールで出た声は、眠そうで慌てていた。
「すぐ来れる?」
「行きます」
受話器を切るみたいに通話を切って走らないで歩く。走ると目立つ。会議に間に合っても余計な苦労をかけてしまう。今日はそういう日じゃない。
店先に段ボールの山。魚屋の氷の匂い、八百屋の葉の匂い、古い紙の甘い匂い。
店主はタオルで額を押さえながら、段取りを早口で言う。
「倉庫の棚を上げ直す。落ちると危ないから、ゆっくりでいい。二時間で三千円」
「了解です」
手のひらに紙の粉がつく。
棚板は思ったより重い。重いだけなら筋肉は裏切らない。
でも、指先だけ、少しだけ。
滑り止めのように、空気の密度を一滴だけ重くする。見た目は何も変わらない。俺だけが、落ち着く。棚板は暴れない。
店主が「助かる」と小さく言う。俺は「はい」とだけ返す。
汗が首筋を伝う。時間は進む。
十分の休憩。紙コップの麦茶。静か。扇風機の回る音。
息を整える。呼吸を数える。五まで。そこからまた仕事に戻る。
終わったのは、店の時計で十二時十五分。
手渡しの三千円。お札は一枚、硬貨が二百。
受け取って、頭を下げる。
店主が言う。
「また頼む。逃げない奴なら、また頼む」
「逃げませんよ」
言ってみて、喉が少し熱くなる。
外に出る。陽は真上に近い。
手のひらの汗で千円札が柔らかい。財布に入れる前に一度、まっすぐに伸ばす。
呼吸。ひとつ、ふたつ。
姫宮からメッセージ。
〈十三時、図書館。水飲んでから来て〉
〈走らないで、歩いてね〉
了解は返さない。ポケットの水を一口だけ飲む。
図書館の方向へ。
商店街のアーケードの影は、思ったより長い。
途中、倒れかけた空き缶箱を起こす。紐が足りないから、自分の靴紐を半分だけほどいて結ぶ。片足が緩くなって、歩幅が少し変わる。間ができる。
呼吸が揃う。
横断歩道。赤。
止まって、掌を見つめる。紙の粉。小さな傷。
この手で、今日は三千円。
青になる。歩き出す。
図書館。自動ドアの風。冷たい。
時計は十二時四十二分。
受付で小声の「こんにちは」を返して、階段を上がる。
会議室の前に七瀬。腕を組んで、壁にもたれている。
俺を見る。視線が靴の結び目を一瞬だけ撫でて、何も言わない。
手の中の三千円を、そのまま差し出す。
「できた」
「うん」
七瀬は数えない。ポケットに入れない。
ただ、うなずく。
それから、扉に手をかける。
「——じゃあ、決めようか」
息をひとつ。
中に入る。
冷房の音が、遠い海みたいに聞こえた。
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