クズ勇者の生存戦略

犬山テツヤ

一章

第一話【生存危機】

 ガラスのドアがひらく。冷たい風と見慣れた白い天井。

 五年ぶりの日本は——思ったより音がうるさい。車輪の音、人の呼吸、呼び出し放送。俺の耳はまだ、森と焚き火のリズムのままだ。


 最初にぶつかってきたのは七瀬だった。いつも通り、ためらいがない。胸ぐらを掴む距離で止まって、俺の額を小突いて、それから、唇を一度。

「遅い」

 言葉は短いのに、ずっと待っていた時間が滲む。


 姫宮は一歩遅れて追いつき、手袋を外した。指先が頬に触れる。

「おかえり」

 祈りみたいな口づけだった。あの世界で、何百回も死にかけた夜を思い出す。


 シノは柱の陰から現れて、周囲を素早く見回す。

「ここ、死角」

 笑って、猫みたいに素早く口づける。紙の封を切るみたいに軽い。

「これで生存確認OK」


 結は走ってきて、俺の胸に飛び込んだ。汗と潮の匂い。

「帰ってきた!」

 勢いでぶつかって、笑って、頬に触れてから、ためらいなく唇を重ねる。太陽みたいにまっすぐだ。


 最後に、ヒールの音が近づく。ゆっくり、真っ直ぐ、迷わない。

 彼女——篠宮カグヤは、空港の灯りを味方にする女だ。

「検疫クリア。おめでとう」

 口づけは冷たく始まって、熱で終わる。離れると、赤い跡が少しだけ残った。


 沈黙。

 俺たち五人の周りに、薄い膜ができる。


「空港でこれはないだろ」七瀬が低く言う。

「騒ぎになったら、私が消す」シノが肩をすくめる。

「消すんじゃなくて、片づける、でしょ」姫宮が小声で正す。

 結は俺の袖を引っぱった。「あとでラーメン行こ」

 カグヤは眉を少しだけ上げて、目だけ笑った。「誰の隣で?」


 火花。

 俺は両手を上げて、吸って、吐いた。

「本命は——いつか選ぶ。必ず」

 最低の約束だと自分でもわかってる。でも、嘘はつけなかった。


 四人はそれぞれのやり方で頷き、ひとまず解散になった。

 俺は一人で、到着ロビーの椅子に腰をおろす。ガラスの向こうで、曇り空が低い。

 先に帰ってきた彼女たちはうまくやっていたらしい。生きているだけでも一安心だった。生活があるなら俺は遠慮せずにヒモになれそうだ。


 次の三日で、俺は家を転々とする。

 七瀬の床。姫宮のワンルーム。シノのソファ。結の二段ベッドの下。

 どこも温かいけど、俺の居場所じゃない。


 七瀬の部屋は、工具とヘルメットの匂いがした。

「明日は早いの」

「起こすよ」

「要らない。自分で起きる」

 短い会話が、妙に刺さる。七瀬はいつも、言葉を節約する。現場では、それが正義だから。


 姫宮のキッチンは綺麗だった。棚に並ぶマグの色が揃っている。

「役所の紙、用意しておいたから」

「ありがとう」

「ううん。戻ってくるの、知ってた」

 そう言って笑う顔の近くで、俺は言葉を飲み込む。戻ってきたのは俺だけじゃないのに、俺だけが、何も始められていない。


 シノの部屋は静かで、壁に小さな赤い点が光っていた。

「何それ」

「気にしないで。夜は出歩かないで。近所の犬がうるさい」

「犬?」

「比喩」

 シノは、いつも肝心なことを言わない。だから好きだし、だから怖い。


 結のリビングは、朝がやたら早い。

「市場、行くよ」

「俺、寝てない」

「寝ないで生きてきたでしょ」

 そう言って、台車を押しつけられた。段ボールの端が指に食い込む。廊下の灯りがまだオレンジ色だ。


 四人とも、それぞれの明日を持っている。

 俺だけが、昨日の延長線にいる。


 夜、コンビニの袋から出した冷たい飯を食べて、スマホを開く。

 数字。12,000 円。

 一度閉じて、もう一度開いても、同じ。

 笑う。

 声は出ないけど、笑うしかない。


 寝転がると、天井の白さがやけに明るい。

 目を閉じる。目の裏に、今週の人たちが現れる。


 七瀬の掌。固い。

 姫宮の指。あたたかい。

 シノの目。暗い場所でも光る。

 結の声。大きい。

 カグヤの唇。よく冷えて、最後に熱い。


 五年。

 向こうで五年、こっちでは二年。

 俺は、たぶん、もう若くない。

 十九歳は若いはずなのに、俺の中の何かは、年を取りまくっている。


 布を取り出す。胸ポケットにずっと入っている、薄い布。

 向こうで地図を描いて、計画を書いて、血で汚して、洗って、また畳んだ布。

 机の上に広げて、ボールペンを置く。


 書く。

 消すのは簡単。消した先が困る。

 動かす。動かした先を決める。

 見えるようにする。俺が見えるようにする。


 言葉にすると、ちょっと格好をつけすぎだ。

 でも、こうでもしないと、動けない。


 ポケットが震える。

 七瀬〈明日、外。歩くぞ〉

 姫宮〈昼、空いてる? 紙の出し方教えるよ〉

 シノ〈倉庫、借りた。鍵渡す。ここで生活する〉

 結〈海を見にいこう〉

 四件。

 息を吐く。

 画面を閉じる。


 もう一つ、通知。

 カグヤ〈来週、話す場所を用意する。君が何をするのか、私じゃなくて街に話して〉


 街。

 そうだ。相手は、誰かの好意でも、昔の約束でもない。

 腹を空かせた街だ。

 油の匂いと、雨上がりの埃を吸って、今夜も眠らない街。


 起き上がる。靴紐を結ぶ。

 外に出る。

 夏の夜は、湿気が重い。髪の中に、空気が入り込む。

 角を曲がって、ゴミ置き場を見にいく。曜日じゃないのに、袋がいくつか出ている。破れて、中身が覗いている。

 発泡スチロール、ペットボトル、いつかの新聞。

 指先が、勝手に動きそうになる。


 ダメだ。

 やらない。

 ここじゃない。


 俺はしゃがんで、袋を結び直す。指に食い込む赤い跡。

 誰も見ていない。

 それでも、やる。

 やって、立ち上がる。


 空を見上げる。雲が低い。飛行機の音が遠くに流れる。

 俺は、まだ何者でもない。

 でも、手はある。

 目は、見える。

 数えることは、できる。


 布に、もう一行。


 ポケットにしまう。ゆっくり歩く。

 曲がり角で、自販機の明かりに足元が白くなる。

 内ポケットの奥に、小さく触れる。

 空っぽの部屋みたいな感触。そこに、俺だけが持っている鍵がある。

 開けない。

 今夜は開けない。

 開けないで眠る練習を、今日から始める。


 帰ると、カグヤの部屋は薄暗い。

 ソファに倒れ込む。

 天井の白さが、少しだけまぶしい。

 目を閉じる。

 眠る前、唇の感触を順番に思い出す。

 火花は、花火より早く消える。けれど、焼け跡は長く残る。


 今夜は、黙って減る金のことだけ覚えて、眠る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る