アイに染められた足跡
ばらばら、ばらばら。ぱらぱら、ぱらぱら。
じくざく、じくざく。ちくたく、ちくたく。
色褪せ淀み柄が歪んで雑然する。
合わない。
合わせられない。
繋がらない。
繋げられない。
……………………………………一人だから?
母の微笑みが好きだった。
薄い微笑みも、それ以上を欲するほどに。でも今思えば、あたしの思っていた、求めていた意味は違ったのだと分かる。
単なる憐れみ、蔑み。
いづれ零した母の言葉と今を照らし合わせれば明確に分かってしまったのだ。
『あなたはあの人を繋ぎ止めるだけの……あの人が居なくなったときの…道具なのに……ね。可哀想。かわいそう。とってもかわいいわたしとあの人の娘。大好き。だいすき』
或いは諦め。
引き返せなく、取り返しようがない永遠の罪の証との直面に母は笑うしかなかったのだ。母自身の愚かさもあたしの不遇も全てに笑うしかできなくなったのだ。
それでも小さなあたしが分かるわけでもなく、あたしは生きていた。
今それを思ったのにも理由があった。
眼の前で繰り広げられる可笑しくて夢みたいな光景だ。
悪夢とも言える、未知とも言えるその光景は、あたしにはどうしようもなかった。
いつも通りに学校に行き少しだけ寄り道をしてそれ以外はまっすぐに家に帰った。
それからだ。
月曜、この日決まって母は居なかったから“父親らしい人”、つまりは父に構ってもらおうと考えながら鼻歌交じりに帰っていた。
父は基本的に口は出さない、ただ見守ってくれる。
それでも最近はそれが安心というものだと言う確信が、半信半疑から近づいていて、立証するのにも胸は少しだけ早くなっていた。
「ただいま」と笑顔で扉を開ける。
反応はない。
いつもどおりでも少し違った。
静かなはずの家は、とても賑やかだった。
そして知らない人が父親らしい人と話していた。
リビングからで、そっと顔をのぞかせると、知らない人は母だと分かった。でも母では無いようにあたしには見えた。
あたしの知る母はこんな地から這いずり唸るような低く怖い怒号をださないし、薄い微笑みで醜く歪み泣きじゃくる幼稚さなんて見せない。
みっともなく父に縋りつき泣き叫ぶ姿なんて、見たことがないのだ。
「やめてよぉぉ!愛させてよぉぉぉ!離れないでぇ………っ!」
必死に決死にしがみつく母とは対照に、父は落ち着いていた。
母を突き放すわけでもなく、そばに置くわけでもなく棒立ちに淡々とした声で現実を、悪夢を、植え付けていた。
「俺は、どうしようもない人間だ。
人を愛せないのに人は寄ってくる。
嫌味じゃないのにいちゃもんをつけられて、ただ生きてるだけなのに。器用だと言われても不器用なんだ。
人を愛せない、興味が持てない。
でもやらないと何かと言われる。
やっても何かと言われる。だったらやったほうが結果は残るからやる。俺はそうして生きて、お前に会った。
俺と同じくらいに、どうしようもない人間に。
俺もお前も人間以下かもしれない。クズってやつかな?」
茶化したように、もしくは開き直ったように乾いた笑いをこぼす。
まるで別れを告げるみたいだ。ドラマで見た悲しい場面。あたしも胸が酷く傷んできた。
「俺は誰も愛せない癖に受けいれる。
何も無いのが無性に嫌だったから………せめて、結果を…記憶をなんでもいいから残して何かを感じたかった。でも無理だった。お前も同じだ」
「……め、……て…」
母の声にもならない悲痛な静かな叫びに益々胸が傷んだ。
心がズンズンと重くなっていく。
「でも、見つけたんだ。改心した。適当に無作為に欲しがるのはもうやめる。出来たんだーーーーーー本当に愛している人を」
父はここで初めて微笑んだ。
あたしでもなく、母でもない。
ここにいない誰かに、心の底から幸福を叫ぶようにな微笑みに思えた。
母は当然のように絶望した顔つきへと変貌する。醜くひしゃげた表情は更に混沌をもたらし、もっと分からない顔になった。
「あの人のお陰で俺は……」
父がその顔のまま続けようとした言葉に母は過敏に叫んだ。
「辞めて!言わないで!!!……っ、そ、そう、よ…約束は!?あたし、約束、したでしょ…ほら、浮気も、放任もしていいから…あなたの子を頂戴って……ねっ!?お金もあたしが全部、出すからって……っ、守った!あたしは守った!それであなたが逃げで放棄するなら……許さ」
許さない。
母はそう言いたかったのだろう。
それでも呑み込んで顔をさらに白くした。
「そう、よ、あの子は!ふたばはどうするの!?
あの子を捨てるって言うの!……ますますあなたくずになるわよ。それでもその……あな、たが、本当にあい、してる……人に知られたら絶縁させるかもね!!!……そうよ、そんなあなたを愛してあげるのがあたしなの!すて、き……よね!そう、よね!愛させてくれるあなたがくずでもなんでもないって、こんなあたしに愛させてくれるあなたを愛してるって…………そう、よ、愛してるの。あなたのこと、愛してるの。だからお願い。まだ、愛させーー」
その先を母同様に遮ったのはもちろん父だった。
情緒不安定に呂律が回ったり回らなかったり、瞳孔を開いては閉じ、涙を流しては怒り、あたしは唖然とするしかなかった。
あそこまで母をおかしくしたのはあたしなのか。
それとも父なのか、それとも母自身なのか。
分からない。
分からないから、動けない。
知らない。
知らない。
こんな感情は、痛みは、知らない。
「ごめん。ちゃんと払わせた分のお金も返す。あの子、二羽も君が良ければ俺、俺達が育てる。責任を持って、だ。君が育てるってなら俺達も支援をする。だから大丈夫だ。君の心の責任は取れないかもしれない。でも俺ができる範囲ならいくらでも償う。俺の罪、だから………」
「…………っ、………ぁ………」
母の目が遠くなるのを感じた。
次の瞬間、母の意識があたしに向いた。
今、気づいたのだろう。
あたしを映す瞳は翡翠、淀みに歪みを産んだ翡翠。
あたしを映して震わせる。
静かに、氾濫する直前の洪水のように、夜明け前の暗闇のように。母を狂わせる何かが暴発する瞬間でもあった。
母は腰が抜けたあたしに鬼気迫る勢いに声を荒らげ、掠めて叫び呟いた。
「ーーーっ愛させてよ!お願い、あなた、なら!!ふたば、愛させてよぉ………………ッ、いや、あなたはあの人を喰い、止めるための脅迫材……でも、もう意味、ない………っ!!!!!!いら、ない…………?愛させてくれない、あたしの罪……っ!あたしの劣化品、あたし達の忌み子なんてっ……っ!!!!いらない!!!!」
なにか言わなければ、と思った。
それでも声は出ない。
その感情を知る前にあたしは声を出すことすら許されない、重い重い母のなにかに殺されようとしている。首にはか細く頼もしく見えた真っ白な手が絡みついていた。
痙攣する。
でも体も、目も顔も白を向いていく。
手も震える。でもきっとこれは関係ないのだ。あたしがその感情を知ってしまったから。分かってしまったから。これは恐怖だった。あたしかま母に初めて抱いた感情だった。
「やめろ!!!!!」
熱いものが伝うはずなのに、酷く
父が止めてくれた。
父親らしい人、あの人がだ。
母とあたしを引き剥がし、あたしを背にした。
その時の背中を大きく感じたのは確かだった。
その時の父の肩は震えていた。
こんなに大きな背中を持つ人でさえ恐怖する母を狂わせるナニカは。
愛は、あたしに恐怖と未知を植え付けた。
それから父はそのまま、あたしに言った。
「大、丈夫だから。もう寝ようよ二羽ちゃん」
ぎこちなく震えた声で、父親らしい人は、父は言う。
まだ、日も暮れていないのに早すぎる。けれど頷きともいえず、あたしは俯き立ち上がった。
あたしは母に何かを言いたかった。
言わなければと思った。
だけど言葉が出せるはずがなかった。
息も切れて、恐怖を植え付けられたのもある。
それ以上に体が言うことを聞かなかった。
今はただ、何も聞こえず、考えず、何もしないのが幼いあたしの精一杯だった。
◆
次の日、朝。
珍しく母も父も揃っていた。
あたしを待っていたのか、リビングの扉を開ければ目が合った。母も落ち着いておりホッとした。そうして油断したのも束の間、張り詰めたような空気が走った。
「二羽、父さんと母さん離婚することになった。一生離れ離れになるってことで、ばらばらになるんだ」
その間母の顔は見れなかった。
見れたとしてもきっと見えない。
靄がかかったみたいに母が分からないから。
あの嬉しかった薄い微笑みも、撫でられた手のぬくもりも、触れた言葉、視線、行動全てが偽物に思えてしまった。
だって。
だって。
要は母はだれでも良かったのだ。
愛させてくれるのならば、誰でも。
愛さなければと言う使命感だけで、生きる本能のように賢明に愛そうとし続ける人、愛に狂わされた人なのだ。
誰でも良い、父でもあたしでも、誰にも構わず、収まりようのない増え続けるばかりの愛の行き場を探し続けているだけなのだ。
母が欲しいのは愛で、
きっとあたしが欲しかったのも愛だ。
それは確かだけれど認識が違った。
母は誰でも、あたしは母の愛が欲しかったのだ。
それだけなのに、こんなにも違う。
絵本で読んで、見て、愛にはいろんな形があると聞いた。
でも結局本質的なところでは同じだとも知った。
だったらあたしが求めた愛も、
母が求めた愛も同じ。
そう思えば全て無駄に思えた。
母がお金も体も時間も売ってまで手に入れた愛ですら、父は見放すというのだ。
どんなに努力を、死力も誠意も尽くしても、一方的ならば伝わらない。
暖簾に腕押しだ。
それはあたしと母も同じだ。
お互いがお互いに認識して求め合わなければ食い違う。事実それが昨日、母はあたしを脅迫材といい、父は罪の証とも言った。
それは母と父、どちらか両方かは分からなかったけれどあたしなんてその程度でしかなかった。
母に捨てられるしかない、父に憐れまれるしかない。その程度。
母にも愛してもらえらない。
脅迫材としての価値すらもない。
父への愛に負ける代替品にもなれない。
母の愛に答えられない。
あたしは愛してもらう価値すらもないのかもしれない。
そう思えてくればもう遅い。
母に愛されたかった。
でも不可能だった。
母の愛に相応しない、むしろ用済みとなれば余計に、気づいてしまった重さに潰されそうになる。
抱いてしまった恐怖は簡単には消えない、そういうものだった。
「二羽ちゃん、選んで欲しい。父さんか、母さんか。一緒に暮らしていく方………どっちについてくる?」
だからそういう選択を迫られたときにあたしは。
父を、選んだ。
初めて面と向き合って話をした。
目も合わせて、名前も呼ばれた。
不安げに母の視線をそらし俯くあたしに、不器用に微笑んだ。
母にずっとされてきたことだった。
けど決め手は、母に首を絞められた時に助けてくれたから。
あのときの母は、愛は、未知のものでとても恐ろしく感じた。
胸の重みがまして、線が引かれていくのがわかって。
母にも、そんな自分自身にも失望した。
求めて期待して、そんなものに。
何かをぱらぱらと落としてしまっている、そんな気がした。
だから。
自然と父の手を取ってしまうことは必然だったのかもしれない。
この時の選択。
あたしは選んだつもりでも、選べてはいなかった。
あたしはーーー結局母を見捨て、父をも見限ってしまったのだから。
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