第5話 温泉旅館
いつもの通り操が運転する車に乗る琥珀。今日は、予約していた温泉旅館に宿泊する日である。
「温泉楽しみだな。琥珀君」
「うん。デスクワークも結構、体にガタが来るからね。温泉で体を癒したいよ」
肉体労働とは違った意味でデスクワークも体に疲労が溜まる。長時間のデスクワークは健康に悪影響を及ぼすし、定期的なストレッチが推奨されるが、それでもストレッチを忘れたりして体が凝り固まってしまうのがクリエイターという生き物である。
琥珀は操に師事をしていて、キッチリ休息を入れるように教えられていた。睡眠も大事だし適度な休憩を入れるように口を酸っぱくして言われていたのだ。実際のところ、適度な休息はクリエイターの寿命を延ばすのだ。物理的な意味でも。
温泉旅館の駐車場に辿り着いたので、2人は協力して手荷物を下した。重いものを琥珀が持って、操は琥珀が持ちきれなかった荷物を持ちチェックインをした。部屋に辿り着いたら、荷物を部屋に置いて備え付けのソファに座る琥珀。
「中々広い部屋だね」
「ああ。それなりに高い宿泊費を払った甲斐があったな。疲れを癒すための旅行で、逆に疲れが溜まるような貧相な部屋に泊まったら意味がないし」
琥珀の師匠が操であるように、操にも師匠的な立ち位置の人間はいる。その師匠の師匠の師匠と大元を辿っていくと、そこに行きつくのは休憩の重要性を説いている人物に当たる。その偉大な始祖とも呼べる人は、クリエイターにしては怠け癖が強くて、好きな時に起きて、好きな時に怠けて、好きな時に寝て、収入が途絶えない程度に仕事をする生活を送っている。
そんな考えが弟子の弟子の弟子にも浸透して、過労させないスケジュール管理を実現させているのだ。だが、その過労を避けるスケジュールのせいで、琥珀は休息の時間を削ることができずに未だに免許を取りに行くまとまった時間が取れないでいる。
「もう温泉は解放されているようだな。私は温泉に入るけど、琥珀君はどうする?」
「まあ、一緒に行ったところで一緒に入れるわけでもないし、俺はこの部屋で留守番しているよ」
「わかった」
操は、温泉へと向かった。女湯の暖簾をくぐると、そこには男性が目にすることはできないありがたい光景が広がっている。女性の操にとっては、別に貴重でも何でもない光景の中、脱衣をして温泉へと向かった。
体を洗い、温泉へと浸かる操。人がポツポツといるもののそんなに混んでいる時間帯ではないが故にゆったりとできる。
温泉に浸かっていると筋張った肩の筋肉が解れていく。10代の頃には全然感じなかった肩になにか老廃物が溜まってそうな凝りが少しずつ溶ける感覚と共に頭をボーっとさせる程の気持ち良さを与える。
20代を過ぎたから徐々に感じていた衰え。どんな疲れも翌日には吹っ飛んでいた10代とは違う蓄積されていく疲労感。それが20代後半となった今ではより強く感じられる。こうして、温泉に浸かって気持ちよくなってしまうのは、日頃の疲れが取れにくくなっている証拠。それは、自分の体が歳を重ねる毎に無理が効かなくなっているということである。
まだ20代でこの状態だと、30歳を過ぎたらどうなってしまうのかと想像するだけで恐ろしい。だが、その一方で恋人である琥珀はまだまだ20代が始まったばかり。年齢差があることは最初から知っていたものの、自分の体の衰えを感じる年齢になっても、まだ若い琥珀に対して負い目のような感情を抱いてしまう。
琥珀も「最近疲れが取れにくくなってるんだよねー」とは、言っている。確かに琥珀は同年代と比べて忙しくてデスクワークが中心だから、そういう疲れが取れにくくなるという感覚はあってもおかしくない。でも、琥珀よりも長くこの業界にいる操としては30手前になったら、こんなもんじゃないぞと声を大にして言いたかった。
ただ、それを言うと操よりも年齢が上で業界歴も長い先人たちに「俺の方が」って、謎のマウントを取られそうな気がするので、あえて温かく見守るのだ。そして、琥珀が20代前半の疲労の蓄積具合がまだマシだったと気づいた時に「これが歳を重ねる代償だ。私が通って来た道だ」と言ってやりたい気持ちになった。
操は体勢を低くして肩を湯に浸からせて首を上げた。気持ちいい体勢を維持したまま、改めて年齢を感じる。自分はもう結婚していてもおかしくない年齢なんだと。この衰えはそういうことなんだと。
恋人が自分と同等以上の年齢だったのならば、結婚に対するプレッシャーはいくらでもかけられる。なんだったら、こちらから逆にプロポーズしてやるくらいの男気を見せてやってもいいくらいである。しかし、琥珀はまだ仕事の楽しさを覚えたばかりの年代。家庭に縛り付けるには少し若い。操は、自分の都合で結婚しろと圧をかけられる性格ではない。
それに、告白も成り行きとは言え、操が先に気持ちを告白した形となっている。プロポーズはせめて琥珀の方からして欲しい。そう思う乙女心もある。
それでも、操は1つの区切りとなる30歳までには結婚したいと漠然と思っているのも事実だった。
◇
部屋でのんびりとテレビを見ている琥珀。そこに浴衣姿で体を火照らせた操が戻って来た。
「琥珀君。私は上がったぞ」
「おー。操さん。なんか浴衣姿だと……違和感があるね」
「なにが違和感だ。彼氏なら、そこは可愛いって言え」
冗談めかして琥珀の話術をダメなところを指摘する操。琥珀は少し考える素振りを見せる。
「うーん。まあ、可愛い……?」
「なんで疑問形なんだよ」
「いや、なんというか。最初に思った感想が可愛いって言うより素敵だなって感想が出ちゃったから」
「んな! 何を言ってるんだ! キミってやつは……! ほら、今度は私が留守番をしているから温泉に入ってきな」
操は更に体を火照らせる。無自覚な琥珀は操を怒らせてしまったかと内心思いながらも恐る恐る温泉に向かったのだった。
部屋に取り残された操は机に頬杖をついて先程の琥珀の言葉を脳内で何度も
「素敵かー……」
嬉しいと言えば嬉しい言葉だ。操は低身長故に周囲から可愛い系のキャラとして扱われて育ってきた。それは年上や同世代だけでなく、年下にすら可愛い先輩として扱われて、操としてはそれは一種の上から目線のように感じられて嫌な想いをすることもあった。
操が琥珀を好きになった理由としては、琥珀は操の体が小さくても1人の対等な人間として尊敬してくれたことだった。自分の実力を過小評価せずに正当な扱いをしてくれる。だから、操としては本来ならば「可愛い」より「素敵」と言われる方が嬉しいはずだった。
「でも……琥珀君に限っては可愛いって言われる方が嬉しいのはなんでだろう」
琥珀は滅多なことでは操を可愛いとは言わない。あんまり可愛いと言われ過ぎるのも操は嫌になってしまう。操が求める適切な可愛いよりも気持ち少なめの丁度良い塩梅。それを琥珀は無自覚にやっているのだ。相性としてはこれ以上に良好な相手はいない。
◇
温泉で疲れを癒した琥珀。湯から湯へハシゴをしようとすると、サウナがあるのに気づいた。サウナの入口には張り紙があり、琥珀はそれを読んでみた。
『お客様へのお願い
サウナの長時間のご利用は大変危険です。
お互いの同意があってもサウナバトルは控えるようにご協力お願いします。
サウナバトルをする時は、専門の医師の立ち合いの下行うようにしましょう。』
琥珀が高校生の頃から思っていた疑問が再燃した。「サウナバトルってなんだよ」その答えはサウナバトルをした者にしかわからない。
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