【夏】

17、夏の宮へ



 六月も半ばに入った。夏季、二十四節気にじゅうしせっきは芒種【ぼうしゅ】、七十二候しちじゅうにこう末候まっこう・梅子黄【うめのみきばむ】の初日である。


 すずめ玄鳥至つばめきたるの隣の席で巻物を広げ、顔を近づけて真剣に地上を観察して――否、寝ている。気づくが早いか、玄鳥至は雀の椅子の脚をガツンと蹴った。


「はへ!」


 雀は椅子から飛び上がり、ハチドリもびっくりの高速まばたきで辺りを見回した。


「目を開きながら眠るというのは、方々で役に立つ特技だろうな」

「す、すみません……」

「そういえば、前はメモを取る手を動かしながら船をこいでいたな。器用なものだ」

「所かまわず爆睡できることが自慢でして……」

「褒めてはいない」


 雀は叱られた子犬のようにキューンと首をすくめた。


「まあまあ、つばきよぅ」


 不穏な空気を感じ取ったおおとりが大股に近寄ってきて、雀の肩をがっしり抱く。


「お前さん、任期が来てからほとんどこいつの相手をしてやれてないだろう。終えてからだってもうふた月も経つのに、お前さんときたら、日がな一日天地視書てんちししょを睨みっぱなしだ。ツバメたちの子育てまっただ中なのはわかるけどよ、そんなに見張らなくたっていいんじゃねえの。あと視力落ちるぞ」

「そうだよ、つばき」


 虹始こうしが自分の席から口だけ出す。


「ボク、雀くんはずいぶん我慢強いと思ったよ。つばきの邪魔をしないよう、文句ひとつ言わないしさ。もうさ、自主勉のしすぎで暦全部すらすら言えちゃうんじゃないの、九九みたいにさ。このままじゃ夏季の案内をしないまま秋季に入っちゃうよ。そうなるくらいなら、ボクが君の代わりをしてあげたいと思うんだけど」

「いらん世話だ」


 玄鳥至は指で巻物をすりすりさする。すりすりすりすり。


「今年は夏に入ってもあまり気温が上がらないから、ツバメたちがつらそうだ。餌の豊富な場所を風で教えてやってはいるが、あとはあいつらの生命力を信じるほかない。この見守ることしかできない苦悩、親心……お前にわかるか? 最近は寝床に入ってもツバメたちが気になって眠れないし、やっと眠れても夢に出てきて……悪夢を……ツバメが共食いする悪夢を見て飛び起きるんだ。ならばいっそ寝ないほうがいいかと深夜に天地視書を開けば、ツバメたちはすやすや眠っていて……その寝顔がまたかわいくて……眺めていたらいつの間にか朝が来て……」


「ワーカホリックだよ、それ。息抜きしなよ」


 面倒くさくなったらしい虹始はひらひらと手を振り、「パス」と言って鴻に投げた。「オレもパス」鴻も雀の肩を叩いて自席に戻る。

 ボールのように扱われてむっとしている玄鳥至を「まあまあ」となだめ、しっかりパスを繋いだ雀は思い切ってシュートした。


「つばきさん、おれ、そろそろ夏の宮に行きたいです。この三ヶ月、春季の方としかまともに話せていないでしょ。つばきさんのお仕事のお手伝いはすごく勉強になっているけど、でもたまに見かける他宮の方々にちゃんとご挨拶できていないのが気がかりで……。っていうか、正直気まずい」


 雀の黒い瞳を玄鳥至は黙って見返す。初日にあれだけ人見知りを発揮していたのに慣れたものだ。玄鳥至は天地視書に手をかざし、名残惜しく思いつつもツバメの映像を消し去った。


「言っておくが、俺ははじめから夏季はこの時期を狙っていたんだ。今日の午後は夏の宮へ行こうと考えていた」


 同僚二人からは「ほんとうかなあー」という失礼な声。ここで一人書類に向かっていた清明せいめいがふふふと笑った。


「今の時期に行けば、きっと面白いものが見られるよ、雀くん」


 雀はきょとんとしたが、同僚二人は「なるほどー」と声を合わせた。




 春の宮と夏の宮を繋ぐ入り口は、一面を蔦に覆われてもとの色の見えぬ石壁に簡素な木製扉が埋め込まれた、どこか洋風なものである。前に立つと、半開きの隙間から生ぬるい風がしきりに手招きした。


「今日は良さそうだ」

「なんですって?」


 季節は夏が好きだと言う雀がわくわくしながら聞き返した。


「天気が良さそうだ、と言ったんだ。夏の宮は梅雨と決めればしっかり雨を降らせるし、快晴ならカンカン照りにするんだよ。その日の天気は夏さまの朝の目覚めのテンションによって決まる。うちは春さまがああいうお方だから、年中ほかほかしているだろ」


 春の宮は、下界が春季のあいだは下界と同じ動きをし、他季になるとその季節のいちばんのどかな頃に落ち着いて、天候の良し悪しはあれども概ね過ごしやすいようになっている。それに対し夏の宮は、その辺が日によってコロコロ変わる。熱い日差しがギラギラ眩しい日もあれば、大いに雨に打たれ、気温の高低差から着る物に頭を悩ませる。すべては主である夏のその日の機嫌次第であった。


「四季の皆さんの個性が表れるんですね。秋と冬にも特徴がある?」

「もちろんある。春夏秋冬を平等にしているのは秋さまだろうな」

「冬は? あ、ずっと猛吹雪とか?」

「あそこは……冬さまが独特なお方だから。まあ、楽しみにしとけ。今は夏だ」


 門を押せば空気の境目の重たい抵抗を受けた。ぐっと力を込めて開ききると、うだるような暑さとむせ返るほどの緑の香りが大歓迎の突風となって体当たりしてきた。


 左右を門と同じ蔦の壁が圧迫し、もし巨岩が転がって来たらただ追われるしかないような一本道がどこまでも伸びている――が、追われても問題はないと保証しよう。なぜならこの通路にはいくつかの抜け道と隠し扉が存在する。夏の宮の遊び心だ。


「また迷路ですか……。酔わなきゃいいけど」


 雀は仲良くなった土脉つちのしょう草木くさきのもとへ頻繁に通い、立春りっしゅんの夕食会にもよく顔を出していたが、障子の迷路に今でも目を回しているらしい。


「そんなことにはならないさ。夏の宮を訪れる者に求められるのは、驚きを楽しむ心だ」


 空は高く、雲ひとつない晴天だった。今日の春の宮はほうきで掃いたようなすじ雲が広がる晴れであったが、門の上空を境目にして、ヘラを使って削り取られたかのようにすぱっと天気が切り変わっている。近くで黄蝶が二匹、上下を入れ替えながら昇っていった。


 なるべく日陰を狙いながら、ねっとりとした暑さの中を汗だくになって歩く。玄鳥至は藍鼠あいねずの浴衣を、雀は苗色なえいろの甚平をゆったり着ていたが、それでも暑いものは暑かった。


「やっと夏の宮だ」


 と、太陽のにおいに浮き立つ心を抑えきれずに雀が言った。


「春の宮に他宮の人が来た時、おれ、ほんとうに気まずかったんですからね。新人が挨拶しに来ないって、印象最悪じゃないですか。でも誰かさんはツバメに夢中だし、おれにも『ツバメから目を離すな』とか言うし」

「任期だったんだからしょうがないだろ」

「はいはい、任期ね。つばきさんはツバメが大好きですもんねー」


 雀は慣れた相手には冗談も生意気も言うようになった。良いことだが、ときどきかわいくない。


 右に折れたり左に折れたりしながらしばらく進むと、左側に年季の入った木製扉が見つかった。

 錆びた鉄の輪が垂れ下がっているがそれには触れず、手でぐっと扉を押す。ギイギイ軋ませて開ききると、燦々と日の光を浴びて輝く黄色いたてがみの花々がいっせいにこちらを振り向いた。


 茶色い顔という顔が訪れた客を凝視する。夏曰くこれも歓待のひとつだそうだが、どう見たってホラーである。こんなことで涼を得たくない。

 玄鳥至の背に塞がれて怪奇現象の瞬間を目撃せずに済んだ雀は、見渡す限りに広がる満開のひまわり畑に歓声を上げた。


「すごいや! でもひまわりの時期には早すぎませんか? 今は六月ですよ」

「ここでは本来の時季など関係ない。夏さまは熱血漢で振り幅が激しく、それは夏季への愛の表れでもある」


 どうやら今日はそうとう機嫌が良いらしい。ならばいっそうこの宮の主には気をつけねばなるまい――そう思った矢先である。



「つばきさん、なんだかすごい頭の方がいます……」


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