14、穀雨(その4)――暦の歴史



 そこからは穀雨こくうの宣言どおり、自由時間となった。

 哀れ雀は苗に気に入られ――「初々しくてとってもかわいいの!」――二階で苗と二人きりの時間を余儀なくされた。穀雨とあしはそれぞれ自分の席に戻っている。


 玄鳥至つばめきたるは牡丹の席の一角でたいして興味もないファッション雑誌を見るともなしに眺めていたが、あみぐるみのページでめくる手を止めた。


「牡丹、このページだが、端が折れているな」

「んー? ああ、その雑誌、昔誰かに貸したのよ。桐花きりかあたりじゃないかしら。あの子はやけに女らしさってやつに固執してるし」

雀始巣すずめはじめてすくうという可能性はないか?」

「憶えてないなあ……。でも憶えてないってことがその証拠かもね。急にどうしたの?」

「いや」


 玄鳥至は鳥のあみぐるみの写真を手で隠した。「亡霊が、な」


「ふうん? ……もう新しい子が来たからいいじゃない」

「そうなんだが、どうも腑に落ちない」

「深く考えないほうがいいわよ。だってアタシたち、そういうふうにつくられてる、、、、、、でしょ」


 牡丹は軽く言って、棚から化粧箱を抱えて下ろした。蓋を開ければ色とりどりのネイルボトルがぎっしり敷き詰められている。まったく減っていない物もあれば、あと少しで空になりそうな物もある。なくなれば同じ色が買い足されるのだろうか。


「牡丹、君は過去に雀始巣の他に消えていった者がいると思うか? 俺たちが忘れてしまっただけで……」


 牡丹はちょっと手を彷徨わせ、透明なネイルボトルを取り出した。


「いてもおかしくはないわね」

「いるぞ」


 いつの間にそばに来たのか、穀雨が答えた。


「暦はある時を境に増減した。少し調べればわかる」

「詳しくお聞かせ願えますか」


 思わず立ち上がりかけた玄鳥至の手首を牡丹が掴み、指を広げる。何をするのかと思いきや、勝手に玄鳥至の爪を磨き始めた。

 それはそのまま放っておいて、玄鳥至は穀雨の言葉を待った。穀雨は腰丈の本棚に寄りかかり、軽く足を組んだ。


「そもそも暦とは、古代中国で生まれたものだ。それを江戸時代に生きた渋川春海しぶかわはるみという天文暦学者が改訂した。中国と日本とでは気候が異なるからな。……そこからさらに明治時代に改変され、今に至るというわけだ。そのあいだにどれだけの同胞が消え、増えたのか――。いつだったか、下界の図書館で偶然記述を見つけたのだ。まったく覚えのない名前ばかりだった。俺はそいつらのことを綺麗さっぱり忘れてしまったということだな」


 穀雨は少し口もとを笑みの形にゆるめて問うた。


「つばき、お前もはじめは春分にいたようだが、憶えているか」

「俺が春分に……? いえ、まったく」


 そんな記憶は一ミリもない。


「そうだろう。その頃の同胞の多くが今はもういない。俺たちはそれらすべてを忘れ、こうして支障なく仕事をこなす。そういうふうにつくられて、、、、、いる。暦とは時代に合わせて変わるものだ」


 玄鳥至は黙ってうなずいた。


「雀始巣の件は、それとは少し違う気がしますけど」


 と、口を挟んだのは玄鳥至の爪に熱心に何かしている牡丹である。


「神々のご意向なのではございませんか。その現れとして、あの宴で亥神いのかみさまが――」

「ならばなおさら、我々にはどうすることもできん」


 たしかに神々のお考えなのだろう。だがそうだとして、これまでに消えた暦とまったく同じ役割を担った者はいるのだろうか。それでは消えた意味がないではないか。


「できたわ」


 牡丹がうつむけていた顔を上げる。「どう、気に入った?」


 両手を目の前にかざしてみると、爪がニス塗りされたみたいにつやつやになっていた。


「すごいな」


 牡丹はにっこりして広げた道具を片付け始めた。今使ったものは空になったようで、箱に戻されることはなかった。


「ああ、ちょうど鐘が鳴るな」


 穀雨がそう言うと終業のチャイムが鳴った。日本人なら皆聞き慣れているであろうあの鐘である。


「言われたとおりに動かなければ。つばき、雀を連れてこい。清明の部屋へ行くぞ」


 これはもうサプライズを隠す努力を放棄したな、と玄鳥至は思った。



 すっかりほったらかしにしていた雀を迎えに行くと、雀は口を真一文字に結び、全身から不機嫌を立ち上らせていた。その膝には苗の頭があり、小さな手足を床に投げ出してスピスピ寝息を立てている。

 玄鳥至は苗の席から黒いネズミのぬいぐるみを取ってくると、悪かったという思いを込めて、苗の団子にクリティカルヒットさせた。


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