flowering disorder

早山カコ

flowering disorder


 その年の冬は、とりわけ厳しかった。寒さがずるずると長引いた。あらゆる水面が分厚く凍り、空気は青を含んだ鈍色で、霜に封じ込められた街はじっと息を潜めていた。何もかもが冬の刃に負けぬよう、頑なに、黙り込んでいた。

 場末の宿屋にあの少女がやって来たのは、そんな長い厳冬のことだった。


 みぞれ混じりのひどい冷風がだしぬけに店内に吹き込み、カウンターに腰を据えた宿屋の女将は顰めっ面を上げた。こがね色の灯りに満たされた店内が一瞬、寒さに翳る。開いた木造のドアはすぐにバタンと強い音で閉まり、風は遮られた。客が一人、中へ入ってきた。

 つかつかとカウンターへ歩み寄って来たその客は、華奢な少女だった。トランク一つを提げて、濡れたコートのフードを煩わしげに外すと綺麗に波打つ鳶色の髪がこぼれ、白い肌に意志の強そうな大きな瞳が露わになった。やけに不機嫌そうな彼女は、女将の眼前で口を開いた。

「部屋ある?」

「あるがね」

「この天気いつまで続くかしら」

 二人は同時に窓の方を見やった。日はほとんど落ち、雨風は勢いを増している。じき吹雪になりそうだ。

「ふた晩は荒れるんでないか」この辺りでは偏屈者として知られる女将はフンと高圧的に鼻を鳴らした。

「じゃあ二泊」

「前払いだよ」

「いくら?」

 金額を告げると、少女は迷いなく紙幣と硬貨をカウンターに置いた。ほぼ叩き付けるような置き方だった。女将はいやな若者が来たもんだという気持ちを隠そうともせず、鼻に皺を寄せて少女に部屋の鍵を渡した。少女は「どうも」とだけ素っ気なく言うと、奥の階段の方へと足早に去って行った。女将は少女の姿が消えると、ほとんど白くなった髪を掻き上げて手元の新聞に目を落とした。

 ──が、

「えっなにっ、ふやぁぁ⁉」

 階段の方から響いてきたのは、ひどく情けない少女の悲鳴。それにちゃりちゃりと鳴る鈴の音と、低くふてぶてしい猫の鳴き声だった。状況を察した女将は新聞から顔も上げず、

「こら、グズ毛玉!」

 と怒鳴った。

「ちょっと、この子ここの飼い猫⁉ ど、どっから出てきたのよ!」

 少女が壁越しに叫ぶ。ちゃりちゃりと鈴付き猫の動き回る音がする。女将は大きく溜め息をついて、少女の質問を無視した。

 やがて少女が諦めて階段を上っていく足音がした。入れ違うようにカウンターの足元に、ぼてぼてとした足どりで鈴付き猫がやって来た。

 女将は動き回る毛玉を一瞥した。その猫の毛並みは洗っても洗っても埃にまみれているかのような冴えない茶色で、中途半端に長い毛は梳かしてもすぐぼさぼさに絡まるし、顔はぎゅうと潰したメレンゲ菓子のようでどう見ても不細工だ。おまけに鳴き声も可愛くない。こいつは妙な所に身を潜めては、宿の客にいきなり飛びかかるという奇癖がある。

 女将はもう一度溜め息をついた。雪粒が窓に激しく叩き付けた。


     ◇


 二泊すると言った少女だったが、彼女が曲者であることはひと晩目にしてもう判った。

 この場末のつつましい宿屋は、旅人に向けてひらかれた場所というよりは、女将の昔馴染みのどうしようもない流浪の者どもを、安値で半ば定住させてやっているような所だった。未回収のツケは数知れず、昼過ぎに客室を起き出しては賭博で大負けして戻って来るろくでなしたちを蹴り飛ばすのが女将の日課である。もっとも、女将が老いて脚を悪くしてからは、文字通りに蹴り飛ばすことはなくなった。

 そんな馴染みの宿泊客の男の一人が、ひと晩目の夕食の時間、食堂で少女にたいそう下卑た絡み方をした。彼女の容貌がとても可憐で人目を惹くものだから、無謀にも口説こうとしたのだ。

 すると一瞬で激昂した少女は、なんと卓上のナイフを掴んで男に組み付こうとしたのである──ナイフがまともな刃の付いていないテーブルナイフで、殺傷力が低かったのは幸いだった。

 少女は近くに居た別の客らに取り押さえられ、絡んできた男に危害を加える事態にはならなかったが、襲われかけた男は青ざめて震えていた。なにせ怒りで我を忘れた少女が、止める客を振り解こうとしながら何度も「殺してやる」と叫んでいたのだから。

 女将も仲裁に入り、絡んだ男がそもそも悪いということでその場は一応落ち着いたが、当然誰も少女に近付かなくなった。少女は怒りが収まると、人が変わったかのように冷静に過ごしていた。


 吹雪は、女将が予想したふた晩より長引いた。外は絶えず雪煙で、通りの向かいの店すら視認できないありさまが続いた。宿に閉じ込められた少女は一泊ごとに追加料金を払っていたが、五日目の昼、彼女は頭を下げた。

「ごめんなさい。手持ちのお金がなくなってしまったの」

「お前さん、どうせ流れ者の戦災孤児だろう。そんな子供からふんだくるほど意地汚い商売はしてないよ」

 女将はぶっきらぼうに言ったが、少女は「そうだけど、でも」と口篭ったきり、申し訳なさそうにカウンターの前から動かなかった。

 女将はそんな少女を面倒だと思いつつ、後ろの棚の物を取ろうとして腰を上げた。だが脚が悪いので、上方の段になかなか手が届かない。すると、

「取るわ。どれ?」

 華奢な腕が隣から伸びてきた。気付けば少女がカウンターの中へ入って来ていた。

「こら、邪魔だ。構うな」

「いいから。手伝わせて」

「余計なお世話だ!」

 女将が怒鳴ると、少女はキッと眉を吊り上げた。

「あのね、あなたはここの女将さんで、わたしはあなたに見逃してもらってる文無しの小娘でしょ! せめて顎で使うくらいしてくれなくちゃ、こっちが申し訳なくっておかしくなるわ!」

 女将はしばし、少女の重たげな睫毛の下の眼と睨み合っていたが、ついに「左の瓶を取っとくれ」と吐き捨てて椅子に戻った。

「はい」

 少女は目的の瓶をカウンターにそっと置いた。

「あんた、名前は」

 女将が尋ねると、少女は不意に目を細めた。

「──言う必要がある?」

 妙に色香の強い笑い方だった。気に食わず、女将は目を逸らした。


 結局吹雪は七日止まず、名乗らない少女はその間、女将の手伝いを続けた。やっと晴れた八日目、女将はもう代金はいいと言ったが、荷物を纏めた少女は「ちゃんと稼いで払いに来るわ」と聞かなかった。彼女は最後に、足元にすり寄る茶色の毛玉猫を「あなたも、じゃあね」と撫でて出て行った。

 宣言通り、少女は律儀にその週のうちに代金を支払いに来た。


     ◇


 更に数週間後、彼女はまたやって来た。

「もう三月なのにまだ吹雪くのね。おかげで鉄道も止まるし」

 ドアから響いた聞きおぼえのある声に、女将は顰めっ面を上げた。

「住む場所がうまく見つからないの。また泊めてくれない?」

 鳶色の巻き髪の少女は微笑んだ。


 つい先日、近くの賭博場に大規模な摘発が入り、常連客の数人が情けなくもお縄になった。この寒さでは新顔の客も来はしないし、実のところ女将の仕事はかなり楽になっていた。

 しかし、今回は代金も足りているというのに、少女は進んで女将を手伝った。女将も内心絆され、好きにさせた。

 ストーブの前で二人で洗濯物を畳みつつ、少女は毛玉を撫でる。

「よしよし。ねぇこの子、いつから飼ってるの?」

「飼ってない、居座りやがったんだ。いやにあんたに懐くね」

「ふふ。でも首輪、鈴付きで可愛いわ。女将さんが選んだんでしょ」

 女将は答えない。毛玉は可愛げのない声で、だが嬉しそうに鳴いた。


 滞在二週間が経った頃、夕刻、少女が顔や手に痣を作って戻ってきた。濁った陰鬱な目をして、よく見ればブラウスのレースの端々がほつれ、髪も乱れていた。

 少女が何も言わず部屋へ戻ろうとするので、女将は考えるより先に「待ちな」と声を掛けていた。

 少女は重く陰った瞳で振り返った。

「茶でも飲んでけ」


「クズ野郎から逃げてきたの」

 食堂で砂糖入りの紅茶を飲んで、痣だらけの少女の第一声はそれだった。

「わたし、三つ隣の街に居たの。金物問屋の息子と付き合ってた」

 残り少ないティーカップの水面を見下ろしながら、語る彼女は淡々としていた。表情が抜け落ち、さながら良質の人形のように見えた。

「そいつ、段々わたしに暴力を振るうようになった。近しい女にだけ乱暴になる奴よ。こっちは別れるって言ったのにしつこく追いかけてくるから、何もかも嫌になって、もう引っ越して縁切ってやるって街を飛び出したの。そしたら大して遠くに行かないうちに天気が荒れて足止め喰らった」

 ──それがあの酷いみぞれの宵、少女がこの宿屋に転がり込んできたいきさつだった。少女は無表情を崩し、自嘲的に笑む。

「一体どこから聞きつけたのかしらね。あの男が会いたがってるって昨日人づてに知らされて、もう二度と痛い思いさせないからって言われて、それで」

「それでノコノコ会いに行くやつがあるか。お前さんも馬鹿だ」

 少女は両手で顔を覆い、ぐしゃりと背を丸めた。繊細な指の隙間から、くぐもった声が漏れた。

「そうよ。一瞬でもまだ好きとか思ったわたしが、わたしがいちばんクズなのよ」

 静寂が下りた。女将は黙って自分の紅茶を飲み干した。やがて少女はゆっくりと、顔を覆った両手を外した。

 俯いたまま、少女はぽつりと尋ねた。

「女将さんは、旦那さんとか居たの?」

 女将は上を向いてフンと鼻を鳴らした。

「旦那はヤワな奴だった。戦争で行方不明になってそれきりさ」

「寂しくないの」

「寂しがってるヒマなんぞあるか」

「……恋愛で幸せになるなんて、無理なのかな」

 女将は少女をちらりと窺った。微かに震える声はあまりに脆く、手の付けようがないほど青臭く、可愛らしかった。

「あんたは運命の恋人にでも出逢いたいのかい」

「……期待したら、叶わなかった時につらくなるでしょ」

「ばかだね。そりゃ期待してますって言ってるのと同じだ」

 少女は膝の上で、スカートの生地を強く強く握り込んだ。

「運命なんて言葉はきらい。そんなものはこの世に無いわ」

 華奢な両肩が震えていた。

 またしばらく沈黙があった。

 女将はテーブルに両手をついてよっこらしょと立ち上がり、エプロンのポケットに忍ばせていた軟膏薬のケースを少女の前にポンと出した。

「塗っとけ。傷の治りが早くなる」

 少女は少し戸惑ったように顔を上げた。女将が食堂を出て行こうとすると、少女は空になった二人分のカップを持ち、軟膏のケースも取って女将の隣に追いついた。

「女将さん。お茶、ご馳走さま」

「食器は奥の流しに漬けとけ。薬はやる」

「いいの? ……色々ありがとう」

 女将は少女を横目で睨んだ。

「あんた、名前は」

 少女は目をぱちくりと瞬くと、ふっと痣のある口の端を上げた。

「……言う必要がある?」

 それはまだ弱々しい笑みだったが、少しだけいつもの小憎らしさが戻ってきていた。


     ◇


 四月がすぐそこへ近付いても、雪模様は続いた。異常な年だった。寒さは止まず、春の花々はほころぶ時を見失っていた。



 朝、いつものように階段を下りてきた少女が、一階奥の女将の私室を覗き込んで、静かに息を呑んだ。

 女将は床に座り、毛布の上のそれをじっと眺めていた。

「……死んでるの」

 女将の後ろへやってきた少女は、感情の乗り切らない声で尋ねた。

 床に折り畳んだ毛布の上に、冷たくなった茶色の毛玉のからだがあった。

 少女は黙って女将の隣に膝をつき、毛玉にそっと触れた。冬の朝の冷たい光にぼんやりと包まれた毛玉は、もう二度と動かなかった。あのふてぶてしい声で鳴くことも、大好きな少女の掌に不細工な鼻を押し付けることも、もう。

「大往生だったろうよ。よく生きた」

 女将はぽつりと言った。長い間を置き、女将はまたぽつりとこぼした。

「こいつも、春の花の中で死ねたら良かったのに」

 どれほどそうしてなきがらを眺めていただろうか。気付けば女将の隣で、少女がしゃくり上げていた。彼女は細い肩を震わせて、最期まで名前の無かった猫のために泣いていた。

「泣くな! 美人が台無しだ」

 女将は嗚咽し続ける少女の肩を、強い力で抱いた。

「運命だったんだよ。こいつは最後にお前さんに愛されて幸せだった」

「……運命なんて言葉はきらい……っ、そんなものはこの世に無いのよ……‼」

 女将は、若くて、脆くて不安定で、どうしようもなく可憐な少女を固く固く抱き締めた。

「それでもお前さんは、誰より運命を信じたいんだろう?」

 少女は大きな声を上げて泣いた。

 宿屋の女将は祈った。──どうかこの少女に幸運を。あらん限りの素敵な巡りあわせを、彼女に。




 翌日、少女は夜明け前に宿屋を去った。二度と戻らぬ旅に出た。カウンターに置き手紙が残してあって、その最後に、女将がついぞ聞くことのなかった少女の名前が書き添えてあった。

 遠い異国の花のような名前だった。

 春の花はもう来ていたのだと、女将はやっと悟った。蕾の開く時が狂ったこの季節に、花は確かに、咲いていた。





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