24.「夢と現」、それから⑧ 〜イツキの話~
影法師たちから身を隠しながら、おれたちは家路を急いだ。
ひと晩中、歩き疲れてへとへとだったのに、見慣れた門扉を見た途端、無意識に早足になる。自分で思っていたよりもずっと不安で、帰りつけたことに安心したのかもしれない。
陽が登りかけた街路は薄明るく、木戸の先から覗くうちの庭の木蓮の木も、しっかりと見えた。それを目にして、おれはまた、ほっとする。
安堵感から、玄関には入らずそのまま庭へと足を向けた。
春に白い花を咲かせていた木蓮の木には、夏らしい青々とした葉が生い繁っている。朝ぼらけの中で見ても、なかなかに立派だった。
陽射しが強い日は、その木陰で涼を得た。秋になる頃に黄色くなる葉は、心が和んだ。でも、母が好きだった白木蓮の花はやっぱり格別で、春になるのを恋しく思う日のほうが多かった。
あの白い花が、好きだ。
咲ききらず、俯いてなお美しく在る、稀有な花。でも、それだけじゃない。
春には、父と母と三人で、必ずあの花を愛でていた。そういう、しあわせなひとときの印象が強いせいかもしれない。
「イツキ! よかった、無事だったか!」
ぼんやりと庭先に立つおれを抱きしめてきたのは、宝だった。
顔を上げてみると、いつの間にか木蓮のそばに、父さんが心配そうな顔で立っている。
おれの後ろから、「イツキさまを無闇に驚かせないように」と、八重が宝に小言を投げた。宝のほうは蛙の面に水といったふうで、気にした様子もない。
「この鬼小僧めが、いい加減にイツキを離さんか。……ああ、イツキ。本当に、無事でよかった」
宝に悪態をつきながら伸ばされた父さんの荒れた手が、おれの頬を撫でる。きっと、一睡もしなかったのだろう。目の下の蒼い隈に、心配させてしまったと胸が痛んだ。
……それでも。
此処に、愛しいひとたちのところに、帰ってこれた。彼らに、また会えた。触れ合えた。
それはとても、しあわせなことだ。
ああ、そうだ。それがどれほどしあわせなことか、おれは知っている。なぜなら。
そう、なぜなら――
かちり、と頭の奥で何かが噛み合わさった。
――かち、かちり。
記憶の歯車が、すべてそうだ、おれは知っている。
心身を、記憶すらをも擦り減らしながら、何とか生き延びていたあの日々を。
そこに、形のない救いを求めたことを。
そして、幸運にも、救われたことを。
そうだ。ぜんぶ、思い出した。
前に記憶が戻ったときは、宝といっしょに、白木蓮によく似た花を見ていた。此処ではない、異形の世界でのことだ。
あのとき、一度は思い出した記憶を、おれはまた、仕舞った。まだ弱っていたおれの躰が記憶に耐えきれなくて、もう一度、仕舞い込むしかなかった。
宝から聞いた異形の世界の話も、宝の力になりたいと思ったこと、おれを境界という悪所から救ってくれた宝のために力を尽くそうと覚悟を決めたことも、ぜんぶ、ぜんぶ仕舞い直した。
宝が、おれのためにしてくれたことだ。
おれとの『縁』を信じて、
――それなのに、おれは。
「……イツキ? どうした、なぜ泣いている? どこか、痛むか?」
煌々と辺りを照らす朝焼けより眩い双眸が、おれの眼をしっかと覗き込んでくる。
「た、たから、宝……。ごめん、ごめんね、おれ……」
「ああ……、そうか。すべて、思い出したんだな」
あたたかい彼の笑みは、記憶とまるで変わっていなかった。
いや、むかしの記憶だけじゃなく、再会してからもずっと、宝は変わっていない。
いつだっておれにやさしくて、おれを甘やかす、おれだけの鬼さま。
「……うん。ぜんぶ、思い出した。……でも、おれは……」
宝に縋りつきながら、おれは声を詰まらせた。
残念ながら、すべての記憶を取り戻しても、状況は何も変わりはしない。おれはやっぱり父さんを置いて何処にも行けないし、宝は異形の世界に欠かせない存在だ。そればかりは、どうにもならない。
過去の重みで余計に胸が塞いで、苦しい。
嗚咽を堪えて震えるおれの背中を、宝がやさしく撫でてくれた。
「大丈夫だ、イツキ。俺は、おまえに会えない間、ただぼんやりと時を過ごしていたわけじゃない。ずっと、ずっと考えていた」
「宝……」
「大丈夫だ。俺を、信じてくれ」
宝の凛々しい声音が、おれの芯まで届く。
へこたそうな心が、しゃんと立ち直っていくのを感じる。
このおとことなら、何だってできると心から思える。
「……おれと、宝だけじゃだめなんだ。大切なひとたち皆んなも、しあわせにならなくちゃ」
「ああ、わかっている」
「そのためなら、おれ、何でもする。何だって、やれるよ」
「そうだな。頼りにしてる」
「うん!」
みるみると、自分の声に、躰に、力が漲っていくのを感じた。
宝の存在が、おれに力をくれる。そして、自惚れかもしれないけれど、おれの意気が宝の背中を押しているとも思う。
「宝さま。イツキさまの拐かしを失敗し、宝さまに対する謀反が詳らかになった今、窮した彼奴等は無謀な策を弄してくるはず。その前に、こちらから打って出なければ。宝さまのことですから、打つ手はもう考えてあるのでしょう?」
「もちろんだ」
澄ました八重の口振りに、宝が得意げな笑みを返す。それから、父さんに向かって、慇懃に頭を下げた。
「ご尊父殿。俺はいまからイツキと共に、すべての世界の争乱を鎮めてきます。それにより、世界の在り方はいままでと大きく変わる。ヒトや異形も、変わっていかねばならなくなるでしょう」
「承知している」
父さんが、にやりと口角を上げた。
「我らは、変わっていかなければならない。持たぬ故に異能を崇め、異形に喰われても慄くだけで、有事に面しても畏れて抗おうとしない。ヒトは自ら粛々と滅びの道を進んでおるというのに、呑気なもんだ。お主が何をする気か知らんが、そのことに気付ける良い機会になるわい」
胸を張り、呵々と笑う父さんが自分の父親ながら誇らしくて、おれも倣って、笑った。
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