23.「夢と現」、それから⑦ 〜イツキの話~

「お久しゅうございます、イツキさま。まずはご無事で、何よりでございました」

菫色の瞳を瞬かせながら、白鷺は恭しく頭を垂れた。

鳥ながらにして、気品溢れる仕草だ。いや、この鳥もまた異形なのだろうから、白鷺に見えるというだけで相手を判断するのは軽率すぎる。

「はあ。……あの、いいえ、こちらこそ、助けてくださって、ありがとうございます」

ぺこりと頭を下げると、白鷺が淋しそうに笑った、ような気がした。

「……どうぞ、頭をお上げください。私はただ、目先の障害を取り払っただけに過ぎません。大変なのは、これからですよ」

凛とした言葉は厳しさを滲ませているけれど、そこに冷たさは微塵もなく、こちらを慮るやわらかな気遣いが込められている。

もしかしたら、前に会ったことがあるのかもしれない。思い出せていない記憶に、彼と接していたのかもしれない。この白鷺からは、そういう親しみが感じられた。

おれの記憶は、まだ完全に戻らない。

最近は敢えて考えないようにしていたけれど、その空白のところに大切な何かを押し込めたままでいる、そんな気がしていた。

例えば、おれが境界からどうやってこの世界に戻ってきたのか。あの影法師がおれを狙うのは何故なのか。この白鷺がおれを助けてくれた理由や、この白鷺と宝との関係、それに、宝とおれとの間でどんなやりとりがあったのか。

……おれはきっと、もっと深く考えるべきなのだろう。

ぐるぐると思考を巡らせるおれを一瞥してから、白鷺はぐうんと大きく背伸びした。

おれよりいくらか小さかった丈がどんどん伸びて、むくりと膨らんでいく。形の良い嘴が消え、代わりにうりざねの美しい顔が現れ、純白の羽毛は絹のような髪に変じていった。

おれが唖然としている間に白鷺の姿は大柄な美しい男へと変貌を遂げ、こちらを静かに見下ろしている。

「わ、わ、わ……、あ、いたっ」

ぼけっと見上げていたせいで体勢を崩して、ぺしゃりと尻もちをつく。あいたたた、と呻くおれの手を、白髪の男がそっと引いた。

そして、おれを立ち上がらせながら、ころころと笑う。

「私のことを、まだ思い出してはいただけませせんか? ふふ、それにしては落ち着いておられる。相変わらず肝が据わっておられますね、イツキさま」

「お、お、おれの、ことを……?」

「もちろん、存じ上げておりますよ」

恭しく頭を下げるその所作は、先ほどの白鷺とそっくりだ。まあ、本人なのだから、当然といえば当然かもしれない。

「さて、それでは今一度、ご挨拶させていただきましょうか。私は、八重と申します。宝さまがお生まれになったときからずっとお側でお仕えし、宝さまの片腕の如き存在だと自負しているものです」

「宝の。……じゃあ、おれはやっぱり宝と前にも会っていてて、その記憶を……」

別れを告げたときの苦しさがぶり返してきて、おれは言いかけた言葉を呑んだ。

我ながら、諦めが悪い。

失くしたままの宝との記憶が、たとえあの時に思い出されていたとしても、父さんを残して異界に行くことはできなかった。思い出そうが出すまいが、結局は同じことだ。同じ未来しか選べないのに、未だぐずぐずと彼を想う自分に辟易してしまう。

八重は、じっと口を噤んだおれに、やさしく、いたわるような眼差しを向けた。

「……イツキさま。貴方が望もうが望むまいが、記憶はいずれ戻ります。それを怖ろしく思うお気持ちも、お察しいたします。ですが、ご心配なく。宝さまはいま、あなたの求める未来とご自身の未来が重なるよう、努めていらっしゃるところです。どうか、宝さまを信じて」

「おれと宝の、未来。でも、おれは、もう……」

おれたちの未来は、完全に分かたれたはずだ。少なくともおれは、分かたれることを承知した上で、宝に別れを告げた。

この八重という異形が何者なのか、名乗る以上のことはわからないけれど、信頼できるものだということは直感的にわかる。だから、彼がそういうのなら、おれの記憶はいずれすべて戻るのだろう。宝との大切な思い出も、取り戻せるのだろう。

でも、そうなったとしても、結果は何も変わらないのだ。

「――むかしのことを思い出せてはいないけど、おれはいまも、宝のことを想ってる。記憶が戻っても戻らなくても、一生、想い続けるよ。……でも、どちらにしろ、おれたちの行く先は違うところだ。宝には宝の世界があるし、おれにも、大切な家族がいるんだもの」

言いながら、おれはそろりと八重から距離を取った。

危ないところを助けてくれたことに感謝してもしきれないけれど、何せこの美丈夫は宝との繋がりが強すぎる。このまま彼に従えば、宝のところに連れて行かれるのは明白だった。

いま、宝と再会するのは避けたい。会えばますます自分の気持ちが揺れるとわかっているのに、そんな窮地に自らを追い込むほどおれだって莫迦じゃない。

「残念ながら、今のイツキさまに私が何をどう語ろうとも、信じてはくださりますまい。確かに、貴方のご懸念は正しい。記憶がすべて戻ることでまた、新たな苦しみが生まれることもあるでしょうね」

おれが取った分だけ、八重がまた、距離を詰めてくる。

「ですから、現在、我々が置かれている状況だけ端的にご説明いたします。先ほど振り切った影共ですが、数を増やし、執拗にイツキさまの後を追ってきております。次に対面したときは、さらに激しく争うことになりましょう」

どこまでも丁寧で穏やか口調で、凄まじいことを告げられてしまった。

そうか、そうだよね。そう安々と逃がしてくれる訳がないもんね。八重の迫力に気圧されつつも、おれは呑気に納得してしまう。

「とはいえ、あのくらいの三下ならば、追手を躱し、倒し、姿をくらますことも可能です。が、得策ではありません。彼奴らから逃れるだけでは、何も進まない。そもそもの原因を、取り除かなくては」

「げ、原因って?」

訊きたくはなかったけれど、訊かざるを得ない。とにかく、八重からの圧が強いのだ。

おれのようなか弱いヒトが訊ねたところで何もできることなどないというのに、惚けてやり過ごすことすら許さないという、強い圧。

「それは、宝さまからご説明いただいく方がよろしいかと。さあ、イツキさま。ごいっしょに、参るといたしましょうか」

にこりと微笑む顔はやわらかく、強く求められてもいない。

にもかかわらず、おれは渋々と諾を返した。なんというか、抗っても無駄な気がしたからだ。もしかしたら、こんなに強かな八重を右腕としている宝は、おれの想像以上に逞しい鬼さまなのかもしれない。

しずしずと彼に誘われながら、おれはこっそりとそう思った。

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