22.「夢と現」、それから⑥ 〜イツキの話~

空一面に墨を流したような、昏い、新月の夜だった。

ヒトの声はもちろん、虫の声すらも聞こえてこない。しかも、真夏とは思えないほど寒々しかった。

妙におどろおどろした雰囲気に呑まれて、戸や窓の隙間から黒々した気配が這入り込んでくるような気がして落ち着かない。

せめて躰を冷やすまいと、おれは仕舞い込んでいた厚手の夜着を引っ張り出した。

ヒト喰いの異形は、ここ十日ばかり鳴りを潜めていて、ヒトが消えた事件の話はとんと聞かない。けれど、これで終わったとは誰も思っていないことは確かだ。

この静けさは、嵐の前のそれだ。さらなる凶事が、ひたひたとおれに迫ってきている。なんの根拠もないのに、そんな予感が、する。

――そして、そんなおれの残念な予感は、悲しくもあっさり当たってしまったのだった。


真夜中、玄関の戸を叩く音がした。

ほとほと、ほとほと、という音は、隣り近所に響くほどは強くなく、しかし、家の中のおれに聞こえぬほど弱くはない。そういう、絶妙な叩き方だった。

なぜだか一睡もできず布団の中で縮こまっていたおれは、その音に呼ばれるように布団からのろのろと這い出て、のこのこと玄関へ向かった。

起きているはずなのに、頭の中は靄がかかったみたいにぼんやりしている。おそらくはこの時からすでに、おれは相手の術中に嵌っていたのだろう。

そもそもこんな夜中に来客だなんて、普通では、ましてや昨今の時勢では考えられないことだ。

普段のおれなら、用心に用心を重ね、居留守をつかってやりすごすところなのに、このときのおれときたら、警戒心のかけらもなく、共に住む父を慮ることもせずに、愚かにも玄関を開けてしまった。

開けてすぐ、後悔した。

おれの目の前に立っていたのは、三つの真っ黒な影法師だった。

見た瞬間に、それが自分とは異質のモノであるとわかる。それだけでなく、自分に害をなすものだというのもわかった。

なのに、躰が動かない。

「――正気ではない、惑うておる。良し」

動かないおれを見て、影法師のひとつが、ぱかりと赤い口を開けた。

「此奴のほかに、目を覚ましたものはない。良し」

もうひとつの影法師も、ぱかりと口を開ける。その言葉を聞いて、最後の影法師がうごうごと蠢いた。

「ならぬ。おまえは、退いておれ。此奴はまだ、喰ろうてはならぬ」 

……ぐるる、ぐるるる。

地の底を這うような低い唸り声の主は、明らかに不服そうだ。三つの影法師の中でもあまりに異質で、おれはつい、目を凝らしてしまった。

それは、今まで見たことのない形容をしていた。

黒くて、まだらに赤くて、全身ぬるりとして毛がなく、ガリガリに痩せこけている。手脚は細いのに、目と口だけは異様に大きく、しかも、生臭い。

これは、血の匂いだ。……そうか。こいつが巷でヒトを喰らい続けている、あの異形か。

それに気づいた瞬間に、おれの頭の靄がすうっと晴れた。ぼんやりしていた思考が、するすると覚醒していくのを感じるし、躰も動かせるのがわかる。

けれど、それを察されないように、表面的にはぼんやりしたふうを装った。

こいつらはおれに対して何らかの異能を使い、完全に惑わすことができたと確信している。それが解けたとわかったら、おれの周りを巻き込むような手荒い手段に出てくるかもしれない。そう思った。

「行くぞ。さあ、来い」

いちばん背の高い影法師がおれを促しながら、音もなくどこかへ向かう。

二つの影に挟まれて、おれは呆けた顔を取り繕ったまま、のろのろとついていった。

おれたちの周りを、あの気味の悪い異形がぐるぐると廻る。ちらちらと視界に入る赤黒い肌が地色なのか、それともヒトを喰らったときの返り血を浴びたものか、おれには判別がつかなかった。

この異形は、他二つと違って殺気に満ち溢れている。もしここでおれが逃げ出して、こいつに捕まってしまったら、きっとそのまま喰い殺されてしまうに違いない。 

さて、どうするか。

理由はわからないけれど、この異形たちの狙いはおれだ。

しかも、おそらくは、ただ喰らうだけが目的じゃない。喰うためだけなら、おれ以外を眠らせたり正気を失わせたりする必要もないし、場所を移す必要だってないからだ。

何のためにおれを拐かすのか、拐かしてどうするつもりなのか。

……もしかして、宝と何か関係があるのかな。

彼の顔がふと頭を過ったとき、前を歩いていた影法師がぴたりと足を止めた。

まさか、考えていることを読まれたのかしらん。思わず、ぎくりと身を竦める。が、そうではなかった。

「何奴だ」

先頭の影法師の声が、強張っている。

声をかけた先に顔を向けると、いつの間にかそこには純白の鳥が立っていた。

暗い夜道に浮き上がる大きな白鷺は、どう見てもただの鳥ではない。おそらくは、この鷺も異形のモノ。

でも、不思議と怖くはなかった。むしろ、どこか懐かしいような、安心するような、そんな気持ちさえ湧いてくる。

なんというか、前にどこかで、会ったことがあるような。

「惑え。そして、失せろ」

背の高い影法師が一歩前に出て、声を張った。

「惑わぬ。汝等こそ、失せよ」

白鷺の声音は静かで、冷徹だ。その冷えた物言いに影法師は怯み、代わりに二つ目の影が前に出て、声を震わせる。

「眠れ、眠れ!」

「愚かな者共。生憎、汝等と遊んでいる暇はない」

冷笑を返されて、影たちが慄いたのがわかった。 

ただのヒトでしかないおれでも、格の違いがはっきりとわかる。そして、この白鷺が、おれの味方であるということも。

「イツキさま、お迎えに参りました。さあ、こちらへ」

「莫迦め。こいつは正気を失ったまま、まだ我らの手中に……」

影法師が蹌踉めきながらこっちに寄ってくるのを躱して、おれは白鷺のもとへと一目散に駆け出した。

「な、なんということ。自力で正気に戻ったのか、たかがヒト風情が……、いかん、そやつを逃がすな!」

おれの眼前で白鷺がその大きな翼を広げるのと、あの血生臭い異形がおれに飛びかかってくるのとは、ほとんど同時だった。

「その方に、ふれるな」

――ばちん! 

何かを弾いたような鋭い音が響いて、赤黒い異形が吹き飛ばされるのが目の端に映る。

振り返りはせず、白鷺のところまで一気に駆け寄ると、真っ白い翼がすっぽりとおれを包んだ。

周囲の音が、声が、気配が、ふつりと途切れる。それから、ゆっくりと、何処かへ運ばれていくのがわかる。何処へ行くのかはわからないけれど、不安はなかった。

不思議なことに、ここにはいないはずの宝の存在をずっと感じる。もっと、感じていたいと思う。

――ああ、宝。おれの、鬼さま。

会いたい。会いたいよ、宝。

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