19.「夢と現」、それから③ 〜イツキの話~

扉を開けっぱなしにしているせいで、寝室に、ひやひやした空気が遠慮なく入り込んでくる。

せめて半分くらい閉めさせてほしいと思っているのだけれど、たぶん、いや絶対に許してくれないのはわかりきっているから、口には出さない。

鬼よりも鬼らしい父さんの怒り顔を思い出して、おれは早々に思考を切り替え、首元を冷やさないように手拭いを巻いた。

宝の分も、と視線をやると、鬼なのに鬼らしくない彼はせっせと布団を敷きながら、初夏とはいえ夜はそれなりに冷えるな、とか、もう少し厚手の夜着を着せたほうがいいかもしれない、とか、ぶつぶつ呟いている。本当に、甲斐甲斐しい鬼さまだ。

「これでよし、と。イツキ、布団が敷けたぞ。夜はまだ浅いが、今夜はもう休んだほうがいい。ほら、こっちにおいで」

「ふざけたことをほざくなよ、この鬼めが」

ぬるりと部屋に入っていたのは、父さんだった。

おれが記憶を取り戻したことを喜んでくれたし、なんなら感極まって男泣きに泣いてまでくれたけれど、涙が止まってどうにか気持ちが落ち着いても、宝に対する父さんの態度は変わらなかった。宝が、というよりも、鬼という存在がどうしても気に食わないらしい。

「おお、ご尊父殿。すいぶんと気分を害しておられるようだが、何かございましたか」

宝の口調には、嫌味のかけらもなかった。

敵意丸出しの父さんをものともしないその胆力はさすがだし、宝のこの鈍さはいっそ清々しいとすら思う。ただし、憎まれている自覚はないために、状況は良くなりようがないのが難点だ。本当に、困った。

「白々しい鬼め、誰のせいだと……」

「と、父さん。もう、あんまりカッカしないで。三年前におれを境界からこの世界まで連れてきてくれたのは宝なんだよ。感謝してもしきれないよ。ね?」

急いであいだに入ったけれど、気が収まる様子はない。

「だからって、結婚までしてやる必要はないだろうが。そもそもわしは、おまえが境界に落ちたとき、さんざん鬼に祈ったんだ。おまえがどうにかこちら側に戻れるように、とな」

きっ、と宝を見据える父さんの眉間には、深い皺が刻まれていた。

眉間だけじゃなく、父さんの目じりにも口許にも、おれの記憶よりずっと深い皺が刻まれている。おれが境界にいたのは数年だったけれど、元の世界では数十年の時が流れていたらしい。

父さんからその話を聞いたときは本当に驚いたし、そんなに長く寂しい思いをさせていたのだと考えるだけで、胸が痛んだ。

「そのときは梨の礫だったくせに今さらのこのこ顔を出してきて、おまえを連れ帰ってきたのがその鬼かどうかなぞあやしいもんだわい。イツキ、おまえもどうやって境界から戻ってきたのか、その時のことは何も覚えておらんのだろう?」

「それは、……まあ、そうだけど」

後頭部に宝の視線をひしひしと感じながら、おれは渋々と肯いた。

そう、そうなのだ。

何がきっかけになったのかはよくわからないが、おれは確かに、過去の記憶を取り戻した。

いや、取り戻しつつある、といったほうが正しいだろう。戻った記憶は、すべてではなかったからだ。

乾いた風が容赦なく舞い上げる、塵や埃。泥まじりの水、日銭を稼いで得た干芋で命を繋いで、軒下で眠る日々。

心身を削ぐような境界での暮らしは思い出したけれど、それから何をどうやってこのヒトの世界に帰ってきたのか、まるで思い出せなかった。

宝に訊いても、「イツキと縁があったからだよ」としか教えてくれない。

その言葉に暗喩的な深い意味が込められているのか、それともそのままの意味なのか、それすらも判じかねて、おれは何も訊き返せないでいる。

「だいたい、どうやってこの世界に戻ってこれたのだ。界を越えることなど、生半な力量ではできまい」

じっと宝を見つめる父さんの視線には、さっきまでの苛立ちが幾分か薄まっている気がする。

「……お主、いったい何者だ?」

探るような訝るような眼差しを隠しもせず、父さんが直球に訊ねた。

「俺は、異形の鬼で、イツキの番いだ」

返す言葉も視線も父に向けられているのに、何故だか、彼が発するすべてがおれに突き刺さってくるように感じる。

身じろぎもできず、じっと縮こまるおれを庇うように、父さんがずいと前に出た。

「ならば、家族と引き離してでも、イツキを異界へ連れていくつもりか?」

ひやりと、背中が冷える。

父さんが宝に言い放った科白は、おれが今まさに悩ましく思っていることそのものだ。

記憶が戻る前、師を父と知らぬ時であったなら、宝といっしょに何処へでも行って良かった。何なら、命すら惜しくなかったくらいだ。

でも、家族を思い出してしまった今、状況は大きく変わってしまった。

ずっとおれを待ち続けてくれた父さんを、おれの記憶が戻らずとも我が子だと疑わず接してくれていた父さんを、おれはもう、置いていけない。

「それは、……イツキが決めることだ」

おれの内心を見透かしたかのような重い口調で、宝がほそりと呟いた。

その顔を見ることがどうしてもできなくて、おれは視線を落としたまま、黙って項垂れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る