18.「夢と現」、それから② 〜イツキの話~

「――絶対に、ならん」

師範はそう強く言い切ってから、むっつりとおれを見た。

その鋭い眼光には怒りだけでなく、複雑な感情が交じり揺らめいている、ようにおれには感じられる。

いつもとは違う類いの威圧に慄いたけれど、まあそうですよねわかりましたと引き下がるわけにもいかない。

「師範、でも、おれは……」

「ならん! 異形と、しかも、よりにもよって鬼なんぞと縁付くなど、わしは絶対に許さんぞ!」

師というより、父親みたいな物言いだ。

おれのことを我が子同然に思ってくれているのだなとうれしくはなるけれど、そして、そんな温情に仇を返すような真似をして申し訳ないとも思うけれど、今はかつてないほど面倒で特殊な事態なものだから、とにかく速やかに穏便に事を進めさせて欲しいという気持ちのほうが勝ってしまう。

「……あの、でも、おれはもう、相手方の鬼さまと、……ち、契ってしまった、ので」

「ち、契ったァ!? イツキ、おまえというやつは、……いや、いやいやいや、おまえは、悪くない。悪いのは、鬼だ。世事に疎くて初心なおまえを誑かした鬼が、すべて悪い」

赤くなったり青くなったりと忙しなく顔色を変えながら、師範がすっくと立ち上がった。

「おのれ、憎き鬼め。このわしが、直々に引導を渡してくれるわ。イツキ、おまえは此処から一歩も表に出るでないぞ。わしは今からその鬼を探しに――」

「し、師範、ちょっと落ち着いて! それに、探しにいかなくても大丈夫なんだよ。鬼さまならもう、ここに連れてきてるから、……あっ、」

しまった。今にも道場から飛び出さんばかりの師範を引き留めるために必死になりすぎて、つい、口を滑らせてしまった。

まずい、まずいぞ。宝を連れて帰ったことは、師範の気が落ち着くまで隠しておくつもりだったのに。

そろりと、師範を窺い見る。

文字通り顔を真っ赤にさせた師範は、縋り付くおれの襟元をむんずと掴みながら、怒鳴るように言い放った。

「そうかそうか! そりゃあ探す手間が省けたわい! イツキ、おまえは部屋でおとなしゅう待っておれ。後はわしが、話をつけてきてやるからな」

こんなにも饒舌な師を見るのは初めてだ。なるほど、怒りも度を超してくると舌の回りを良くする作用があるらしい。

なんて、感心している場合じゃない。どうにかして、この師範の気持ちをおさめなくては。でも、どうすればいい? 

この老いてますます盛んな師は、おれの予測を遥かに上回る勢いで怒り狂っているし、しかもその怒りは鬼さまだけに集中している。

おれが何をどう言い繕っても聞く耳は持たないどころか、なんならおれを守るためにと思い込んで、鬼さまと刺し違える覚悟までしてそうだ。とてもじゃないが、師範がこんな状態では宝と会わせることなどできやしない。

いやはや、まいった。師範のこの怒髪天ぶりでは、宝にまったく害意がなくとも、会わせた途端に傷害事件勃発が確定しているも同然だろう。育ての親と許婚に挟まれてただでさえぎゅうぎゅうな状況なのに、更には警察、場合によっては医師の手を煩わせる事案を起こしてしまうかもと思っただけで、痩せ細っていく気がする。ていうか、おれは確かに現在進行形で痩せてってる。精神的疲労は、間違いなく減量に効果がある。

「し、し、師範! と、と、とにかく! 落ち着いて!」

師範に引き摺られていくまいと、もだもだと抗いながら、おれは必死で声を張った。

それが、良かったのか、良くなかったのか。

大いに悩むところだが、ともかく、おれの悲痛な嘆願が道場内はおろか表にまでも響き渡ってしまったことにより、事態が大きく動いたことは確かだ。

おれの悲鳴を聞きつけて、騒ぎの主要因である宝が道場に飛び込んできたのを目にしたとき、おれは泡を吹きかけた。

当然ながら、ただでさえ賑々しかった道場は、宝の登場により渾沌と混乱を極め、今まで以上に怒号が飛び交うことになった。

「イツキ、どうした! 無事なのか!」

「なっ、なにやつ!……ははあ、貴様か! イツキを誑かしよって、この鬼めが!」

「たっ、たっ、たか、……はわ、はわわわわ」

舌を噛みまくるおれを押しのけ、師範がずずいと前に出る。

「おお、元気なご尊父だな。はじめまして、俺は宝と……」

「名前など聞いておらぬわ! ええい、そこに直れ! わしが成敗してくれる!」

「何を仰る、成敗される謂れなどないぞ。俺はただ、イツキとの婚姻を認めていただきたく」

「そんなもの誰が許すか、この……」

「待って、落ち着いて、おれの話を聞いてよ、――父さん!」


――くるり。

と、世界が反転した。たぶん、ほんの一瞬、おれの頭の中だけで。

その世界で見えたのは、まだ年若い父と、母と、幼いおれだった。

とても幸せそうだけれど、でも、いまから起こることを、おれは知っている。痛まないはずの心臓が、きつく、痛む。

反転した世界はするすると音もなく傾いでいって、小さなおれは成すすべもなく、世界の狭間に滑り落ちていく。

行きつく先は、境界だ。

劣悪で、過酷で、からからに乾涸びている場所。息をしているだけで魂が削られていく、おそろしいところ。

ここで生き抜くためには、何か、心の芯になるものを持たなくてはならない。

しあわせな過去だけではだめなんだ。だって、心身が弱ると脳も弱るから、記憶には頼れない。

おれだけが知るような存在ではなく、この苦境に暮らすすべてのものの支えになるような何か。それを、心に棲まわせなくては。

でないと、おれは――


「――イツキ! イツキ、記憶に引きずられるな! 落ち着いて、今の自分に、記憶を馴染ませるんだ。……そう、そうだ。ほら、ゆっくり、深呼吸して」

「た、……たか、ら。あの、おれ、……お、思い出した、のかな?」

「ああ、少しだけな」

宝が、なぜか淋しそうに微笑んだ。

とうしたの、と問いかける前に、父さんがおろおろと顔を覗き込んでくる。

「イツキ、イツキ、大丈夫か? 急に倒れたもんだから、心臓が止まるかと思うたわい。どうだ、起きれるか? それとも、このまま少し横になっておくか?」

記憶より老いてはいるけれど、ほかは何も変わらない。父のように慕ってきた師範は、紛れもなく、おれの父親だった。

会いたかった、と今さらいうのは可笑しいかもしれないけど、本当に、ずっと、会いたかったんだ。

「……大丈夫だよ、父さん」

おれとおんなじ琥珀色の眼が、大きく見開かれる。

見る間に潤んでいくその瞳から涙がこぼれ落ちてくるよりも前に、父さんはおれをしっかりと抱きしめてくれた。

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