17.「夢と現」、それから① 〜イツキの話~

目を覚ますと、頬が濡れていた。

濡れていたのは、頬だけじゃなかった。横髪も、外耳も濡れて、枕はしとりと湿っている。どうやら、夢をみながら子どものように泣いてしまったらしい。

湿った枕に頭をのせて布団に横たわったまま、おれはしばらくぼんやりと考えた。

どんな夢をみていたのか、どうして泣いていたのか。ほとんど覚えていないけれど、哀しいばかりの夢ではなかった気がする。

むしろ、だれかを愛しく想い、慈しみ合い、こころが満たされてい、そんな甘やかでやさしい夢だった、ような。

夢の余韻に浸っていると、おれのすぐ傍で、ぬくぬくしたかたまりがもぞりと動いた。

「……イツキ? どうした、泣いているのか」

あたたかい指が、おれの目許をやさしく撫でてくれる。

指先から感じる温度が、なぜだか懐かしい。それとも、まだ覚めきれない俺の思考が、ぼやぼやと躰の動きを鈍らせているだけかもしれない。

「ん、なんか、よく覚えてないんだけど、せつないような夢を、みて……」

抱き寄せようとする腕があまりにも馴染みて、つい自分の身を委ねて、のろりのろりと言葉を返して。

その途中で、我に返った。

「……え? え、え、ええっと……?」

だれ? と訊きかけて、寸でのところで言葉を呑み込む。

呼気がふれるほど間近からおれを覗き込んでくる紅い眼には、ちゃんと覚えがあった。

ああ、そうだ。鬼だ。

おれは、鬼と同衾したんだった。

「……イツキ?」

「あ、いや、ちがう、……ちがい、ます。えと、だからその……、おれ、寝惚けてて……」

じわじわとよみがえる閨での記憶にいたたまれなくなって、あたふたと躰を離す。

交ざりつつあった互いの温度が、離れた途端にするすると冷めていった。

それが少し淋しいと思うなんて、おれときたら、ずいぶんとこの鬼さまに絆されてしまっているらしい。

「夢を、みたのか?」

身を離しても躊躇いなく伸ばされた指が、俺の髪を梳いてくる。

「どんな夢だった? その夢に、俺もいた?」

甘えるような問い方なのに、答えはもうわかっていると言わんばかり。宝の声は、しっかりと自信に満ちていた。

子どものような彼の勝ち気さに折れてやるつもりはないけれど、この男が夢の中にいた気がするのは確かだった。

とはいえ、夢の輪郭は本当に曖昧模糊としていて、甘い余韻が頭の奥に残ってはいるものの、その仔細までは思い出せない。

「うーん。……うん、まあ、たぶん」

「ふぅん」

宝は、紅く輝く目を少しばかり眇めて笑った。

どぎまぎするほど美しい眼の色に緊張して、つい目を逸らす。が、無駄だった。陽に焼けた腕がするりと伸びてきて、逸らした視線ごと抱き寄せられる。

「俺が朝餉を拵えるから、イツキはゆっくりしているといい。今日は、市中まで戻るんだろう?」

「う、うん」

囁かれる声は、どこまでも甘やかだ。とりあえず肯いたけれど、よくよく考えてみれば、そもどうしておれが町へ戻るつもりであることを知っているのか。

ちらりとその顔を見やると、宝はいたずらっぽい笑みを浮かべていた。どうやら、すべてお見通しということらしい。

さすがは、鬼さま。とはいえ、すべてが彼の手のひらの上だと思われるのも癪に障る。

「……そうだね。昨日は突然の大雨で、町に戻れなかったからね」

つんとした声でしらりと返したが、

「この時期は天候が崩れやすいからなあ」

宝は顔色も変えず、嘯いてきた。なんとも食えない鬼さまだ。


「そうだ、町には俺も連れていってくれないか。ご尊父にご挨拶しておきたいんだ」

「あ、うん。……うん? え、ご尊父? 誰の?」

「イツキの」

「おれの」

なるほど、おれの。

あまりにも当然といった感じに返されて、それ以上は何も言えなくなった。父といわれて脳裏をよぎったのは、いかめしくもやさしい、師範の顔だったけれど、あのひとは父ではないとも言い難い雰囲気だ。

そういえば、おれは孤児なのだとか、町の道場で引き取られてお世話になっているのだとか、そういうことをきちんと伝えたことはなかった。なんとなく、宝はおれのことを何でも把握しているような気がして(あと、どうせ喰われるのだからと思い込んでいて)、語る必要もないと思っていた。

宝は、明らかにおれのことを知っている。でも、おれをどこまで知っているのか、いつから知っているのか、何も言ってはくれない。

「どうだろう、ご迷惑かな」

「いや、ええっと……、ど、どうかなあ……」

鬼さまを毛嫌いしている師範が、鬼さまを連れ帰ってどんな顔をするかなんて、想像するまでもなかった。渦中のおれが無事に生き延びるためには、引き合わせると同時に全速力でその場から逃げ去るしかだろう。

……けど、待てよ。これはこれで、好機かもしれん。

お茶を濁しながら味噌汁を啜りつつ、頭の中でひとりごちる。

帰る道中に宝がいれば、少なくとも本人から帰宅を阻害される心配はないわけだ。

「……まあ、とりあえず、いっしょに帰ってみようか」

「 ああ、そうしよう!」

溌溂と笑う宝に、ほそっとした笑みを返すことで、洩れかけた溜め息を呑む。

帰ってからの惨事については考えることをやめにして、おれはもくもくと飯を食った。

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