16.「異形」の世界で愛に絡まる⑧ 〜宝の話~
それは、本当に突然だった。
その日、俺たちはいつものように陽が上がるころ起きて、俺が拵えた朝餉をふたりで食べ、腹ごなしも兼ねて庭を散策していた。
散策中にふとイツキが足を止めて見上げたのは、最近、花をつけたばかりの樹木だ。枝を飾る白い花の蕾は少し大きめで、可憐だった。
しげしげと眺めるイツキに、きれいだな、と声をかけると、イツキは、うん、と大きく肯いた。
「すごくきれいだねえ。おれの家の庭先に咲いていた木蓮に、よく似てる」
「……もくれん?」
知らない花の名前だ。それに、イツキが住んでいた家の話も初耳だった。
息を呑んで固まった俺を不思議そうにちらりと見てから、イツキは楽しげに話を続ける。その口調は淀みなく、どこにも不自然なところはない。
「おれがまだ小さかったときにね、木蓮の花が欲しいって、枝からとってって、何度もねだったことがあってさ。お母さんは、お花がかわいそうだからダメだっていってね、代わりに、白い飴玉をくれたよ。やさしいひとだったんだ。おれがちっちゃいときに亡くなったんだけど」
「い、イツキ、イツキ!」
すぐ傍にいるのに思わず声を張って彼を呼んだのは、どうにも怖ろしかったからだ。
確かにここにいるはずのイツキの存在が遠のいていくような、寒々とした感覚に襲われる。
記憶が戻ってきているのだと頭では理解できているのに、それが喜ぶべきことだとわかってもいるのに、いやな予感で胸が騒いで仕方がない。
「お、思い出した、のか?」
つっかえながらそう訊くと、イツキはきょとんとした顔で、「なにを?」と訊き返してくる。
「だからその、むかしの、イツキがヒトの世界にいたときの記憶を」
「ヒトの世界に、いたときの」
ぼんやりした口調とは裏腹に、まるい眼は大きく見開かれて、動揺の色を浮かべていた。が、ぱちりと彼が瞬きをしたその一瞬で、すべての感情が刮げ落ちる。
「い、イツキ、大丈夫か?」
「――おれ、思い出した」
そう呟いたあと、イツキはその場で倒れ込み、そのまま意識を失った。
「外界との接触を一時的に遮断して、失くしていた記憶を躰に馴染ませることに集中されているのです」
庭で昏倒したきり意識が戻らないイツキを診て、八重は静かにそう言った。
八重の診断は、俺の予想通りだったが、問題はその影響と処置の仕方だ。
「イツキの躰に、障りはないのか?」
「イツキさまはもともと頑強な質ですし、本来なら、記憶が躰に馴染みきった後に目を覚まされるはずです。……しかし」
菫色の目を伏せながら、めずらしく言葉を詰らせる。
「しかし、何だ?」
「……過去の記憶が戻るのが、私の想定よりもずいぶんと早い。少しずつ回復してきているとはいえ、イツキさまの躰はまだ万全の状態ではありません。ヒトの世界から境界へ落ちたことや、境界での厳しい暮らしのすべてを今の状態で思い出してしまった場合、イツキさまの心身がその記憶の衝撃に耐えきれるかどうか」
淡々とした、常と変わらない口調だけれど、八重が心を痛めているのが伝わってきた。
もしも耐えきれなかった場合、イツキはどうなってしまうのか。そんなことは、訊かずともわかっている。
失った記憶を上手く受け容れることができなければ、イツキの心身は壊れてしまうだろう。そうなれば、こころも躰も傷めてしまうし、回復の見込みも低くなる。
「一時的にでもどうにか過去の記憶を押し留めて、イツキの心身を守ることはできないか?」
「可能ではありますが、そうするためにはイツキさまのすべての記憶を凍結させる必要があります。つまり、宝さまとの記憶も、いっしょに……」
「かまわない。イツキの心身を傷つけることになるよりずっと良い」
本音だった。俺の決意は八重にもはっきり伝わったのだろう。張り詰めていた空気が、少しだけ弛む。けれど、八重の表情は曇ったままだ。
「まだ何か、懸念があるのか?」
「……記憶の凍結は、一時的な処置でしかありません。イツキさまの心身への負担を一切なくし、状態を万全に戻してさしあげるのが最優先。つまり、イツキさまを元の異界へ帰すことが最適の処置だと思います」
「わかった。イツキをヒトの世界に返せばいいんだな」
「ですが、そうすると、彼奴らからイツキさまの存在の隠すために我々も接触を絶たなければなりません。この先の数年、宝さまはイツキさまと会うことすらできなくなりますよ」
「承知の上だ」
イツキの白い顔をじっと見つめながら、きっぱりと応える。
どのくらい会えないのか、凍結された俺との記憶はいずれきちんと戻るのか。……環境が変わっても、イツキは俺を撰んでくれるだろうか?
底の見えない不安が、胸の奥で囂々と渦巻いている。けれど、その黒い渦を口から吐き溢すことは決して無い。
たとえ、イツキが二度と俺を思い出さなくても、もう一度、いや何度でも、出会いをやりなおせばいい。イツキが俺を撰んでくれるまで、何度でも愛を伝えればいい。
イツキが俺のために力を尽くそうとしてくれたように、俺もイツキのためにすべてを捧げる覚悟がある。
「――では、そのように」
八重もまた、俺の覚悟を受け入れてくれたのだろう。諾う言葉はあくまで短く、しかし、重々しかった。
八重が支度を調えているあいだ、俺はイツキの手を握り、耳許で何度も何度も囁いた。
できることなら、俺の声だけでも彼の鼓膜に写しておきたかった。
「イツキ。イツキ、愛している。……必ず、迎えにいく」
どんなに熱をもって些細手も、白白した目蓋はぴくりとも動かない。
大丈夫だ。イツキの美しい琥珀の双眸は、いつでも思い出せる。おだやかな声音も、美しい亜麻色の髪も、澄んだ眼も、俺のこころの焼き付けてあるから。
「必ず、迎えにいく」
あたたかいそのくちびるに一度だけ口づけて、俺たちは、別れた。
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