12.「異形」の世界で愛に絡まる④ 〜宝の話〜

イツキが意識を取り戻したのは、八重の屋敷の敷地にある隠れ家に籠もってから、四日目のことだった。

目を覚ました彼は、俺の顔を見た途端に、その華奢な躰に似合わぬ声量で悲鳴を上げた。

「……っひ、ヒャアアアアア! ひィ、ひええ、お、お、お助けぇ……っ、……え? え、と……だ、だ、だれ……? いや、ここ、どこ……?」

思ったより元気そうで、ホッと息をつく。

俺は、と身を乗り出して名乗ろうとすると、サッと身を引かれてしまった。なるほど、用心深い。そこも、良い。

しかし、俺と距離を取ろうとしたものの、自分で自分を支えきれなかったらしく、起こしかけていたイツキの躰はぺしゃりと布団に崩れ落ちてしまった。

「大丈夫か!?」

警戒されているのは承知していたが、思わず覗き込んだ彼の顔色は、やはりまだ、蒼白い。本調子には程遠いようだ。

「無理をしないで、まだ横になっていたほうがいい。ああ、俺の名前は、宝。ここは俺の友人の屋敷だよ。……目を覚ましてくれて、本当によかった。すごく心配してたんだ。三日も眠っていたから、喉が乾いたろう。ほら、白湯だ。いま、お粥を作ってくるから」

世話を焼く俺を、イツキが横たわったまま、じいっと見つめてくる。

荒れ果てた境界で、その日その日をとうにか凌いで生きてきたのだから、警戒心は強くて当然だ。にっこりと笑い返すと、琥珀色の眼がぐるぐる動いて、なんとも愛らしかった。

「どうか、怖がらないでほしい。俺は、君の味方だから」

「……あ……あの、こわがる、とか……そんな、ことは……」

掛布で顔半分まで隠しつつ、置かれた状況を判断するためにこちらを必死で伺う素振りが、可愛いような可哀想なような、複雑な感覚を覚える。なんというか、はじめての感情だ。

彼の控えめな視線を受け止め、俺は話しかけるのをやめてイツキが緊張を弛めるのを静かに待った。少しして、イツキが、目の強張りを僅かに解いて、おそるおそる訊ねてくる。

「あの、ええと……タカラ、さま。す、すみません。おれは、その、名前を持たないといいますか……ええと、昔のことを、ほとんど覚えていないのです。それに、こちらに置かせていただくことになった理由も、まったく覚えておりませんで……此処がどこで、どうしておれが此処にいるのかを教えていただけると、ありがたいのですが……」

あいすみません、と、視線がぎこちなく下げられた。

迷ったけれど、思い切って手を伸ばし、その白い髪を指で梳くように頭を撫でてみる。嫌がられるかとひやひやしたが、イツキは一瞬だけ驚いたように目を見開いてからすぐ、ゆっくりと眦を弛めてくれた。

「……ぁ、あ……すごく、あったかい……」

掠れた吐息は露のように儚く、彼自身ですら、洩らした言葉に気づいていないようだ。

ひとの温もりにふれず、ひとりきり、身を削るようにして生きてきたという日々を送ってきたのだと、その吐息だけで伝わってくる。

「――きみは、」

俺の声を追って、琥珀の眼がそろそろと動いた。

「きみの名前は、イツキ。カマクラ、イツキだ。俺の友人の異能に恃んで、きみの中の記憶を読んでもらった。……勝手なことをして、すまない」

きょとんとこちらを見つめてから、慌てたようにかぶりを振る。

「いえ、そんな……ええと、気にしないで、ください。おれ、何にも覚えてなくて……あの、自分の、名前も。だから……お、教えてくださって、ありがとうございます」

訥々とした彼の話し方に、日常で会話をする機会が殆どないのだと察せられた。

他者と交わる余裕がない故に、境界に生きるものたちは、生れ育った元の世界と縁を遠くして、記憶をも薄れさせていくのだろう。そういうことなら、ここで暮らして、俺と接して語らっていけば、イツキの記憶はそのうち戻るのかもしれない。

「イツキは、やさしいんだな。境界の暮らしが長いから、記憶が薄れてしまうのは仕方のないことだよ。ゆっくり養生していれば、おいおい思い出していくだろう。……それにしても、よく、その歳までひとりで生きてこられたなあ。イツキは、生まれつき頑強な質なんだな」

「え、ええ? いや、えーと……それは、まあ、そうなの、かも……」

気恥ずかしそうに、イツキが目を伏せた。

微かに震える彼の睫毛は、黒々としている。今は真っ白なその髪の、元の髪色は黒だったのかもしれない。

訊きたいことも、語りたいことも、たくさんあるけれど、まだその時じゃない。少なくとも、イツキの体調が落ち着いてからでないと。

そう決めて、そろりとイツキの髪にふれていた指を引いたのと、イツキが俺の着物に目を留めたのは、同時だった。

真摯な眼差しが、俺の黒い着物から朱の帯へと移り、さらに俺の顔を見て、それから俺の髪を、それはもう、穴が開くほど見つめている。

「……あっ」

不意にがばりとイツキが起き上がって、また、べしゃりと布団に倒れこんだ。倒れても、はくはくと声にならない声を吐き、その顔面は蒼白だ。眼も、ありえないほど泳いでいる。

「ど、どうした?」

「……っも、も、申しわけ、ありません! あ、あの、おれ、おれは、ただ……ご、ごめんなさい……!」

布団の上でじたばたともがきながら必死になって詫びてくるイツキの表情には、深い後悔が刻まれていた。

何事か、意味がわからず腰を上げるが、痩せた彼の手のひらが大事そうにその下腹を抱えていて、ようやく合点がいった。

イツキは、境界で俺の同意なく胤を貰ったことを詫びているのだ。

「お、お、おれ……ね、眠っている鬼さまに……おれは……!」

「イツキ、大丈夫だ、落ち着いて。俺は、何も怒っていない。だから、謝る必要もないんだ」

「いえ、いいえ、そんなわけには……」

白い顔からさらに血の気を引かせて、両目はすっかり涙目だ。躰もまだ自由に動かせないだろうに、這いつくばって詫び続けるイツキの姿を見ているだけで、自分の心臓に爪を立てられたように胸が痛んだ。

「イツキ、頼む、聞いてくれ。俺は、きみに会うために境界へ行ったんだ。境界で暮らしていたきみから、強い『縁』を感じたからだ。だけど、きみに会う直前に、眠り込んでしまって……その、俺は、気が緩むと眠ってしまう癖があって……だから寧ろ、俺のほうこそ、すまないと思っているくらいで」

「お、鬼さま、そんな……! お、おれは……おれが……」

「宝、と呼んでくれ。……会えてうれしいよ、イツキ」

ぐっと躰ごと寄ると、イツキがまた大きく目を泳がせる。

視線をなかなか合わせてくれないのは淋しいが、詫びのお言葉が引っ込んだだけ良しとしよう。

ふれそうなほど身を寄せただけで、イツキの存在がより濃く感じられる。

イツキも、そうなのだろう。

俺が彼を呼ぶ声に呼応するように、イツキの肚の底で、俺の胤がたぷんと揺れるのが感じられる。

イツキが、戸惑ったように下腹に手をあてた。

「――俺の胤が、まだ肚に沁み入りきってないんだよ。ふふ、愛らしいなあ。そんなに惜しまずとも、いくらでも注いであげるのに」

「たね、が……」

さっと首まで赤く染めながら、また、身を引こうとする。その引ける腰をぐいと抱き寄せて、まだ熱の戻りきらない白い頬に、自分の頬を擦り寄せた。

目じりの強張りが、少しずつ弛んでいく。まるで自分とこうしていることを心から喜んでくれているみたいな気がして、うれしくなった。

腕の中で、イツキがおずおずと顔を上げる。

「お、鬼さま……宝、さま」

「宝、でいい」

「た、宝。……あの……どうして、おれを……?」

「俺とイツキのあいだに、他のものとは違う『縁』があったから。と言っても、なかなか理解しがたいかもしれないが……俺はね、きみに呼ばれて、境界に行ったんだ。イツキに、会うために」

イツキは、ぽかんとした眼で俺を見た。惚けた顔も、やっぱり愛らしい。

「イツキがしたことを、怒っていない。でも、もう俺から離れていかないでほしい。ずっと、ずっと、いっしょにいたいんだ」

俺の言葉を、想いを、イツキ自身が受け容れてくれるかどうかはわからない。いくらかでも、彼のこころに響いてくれればと祈りながら、じっと見つめ返した。

「で、でも……おれなんかが、そんな……縁、があっただけ、で……」

「誰にもない、俺たちだけの、特別な『縁』なんだ」

言葉を重ねるごとに、イツキの頬がじわじわと朱に染まっていく。

俺が切々と訴えていることを完全に理解できているわけではなく、会って間もない男から熱心に口説かれて動転しているようだった。

求められることに戸惑いつつも、歓びを感じているその素直さが、やはりどうにも愛らしい。

「……イツキ」

ねだるように、名前を呼んだ。

琥珀の眼をきょときょとさせながら、イツキはうんと小さく肯いてくれる。

「……お、おれで、よければ……す、す、末永く、お願い、いたしま……ひぎゃっ」

「もちろん! 末まで永く、ずぅっと永く、しあわせに暮らそうな!」

うれしくて、ぎゅうと抱き締めた腕の中で、真っ赤になったイツキが悲鳴を上げた。それでも、そろりと俺の背中に添えてくれるイツキの手が、また、うれしくて。

――どうやら俺は、恋い慕う相手を深く重く想う性質らしい、と思い知った。

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