9.「異形」の世界で愛に絡まる① 〜宝の話〜

現在より五年ほど前、異形の世界にて。




ひとり、誰も伴わずに俺が境界に赴いたのは、ただの気まぐれではなかった。

今朝、目を覚ましてからすぐ、境界に往かなければ、と強く思ったからだ。まるで何かに衝き動かされるようなそれは、決して突発な思いつきではない。

俺と強力な『縁』を持つものが俺を喚んでいるのだと、すぐにわかった。

『縁』を持つもの――すなわち、俺の伴侶となるべきもの。

そのものが、俺を求めている。

俺だけを、求めてくれている。


久方ぶりに足を踏み入れた境界は、以前と変わらず、昏く濁った空気が流れていた。

地べたを這うようにして彷徨っている境界のものたちは、そのほとんどが自分が暮らしている異形の世界から落ちたモノたちだ。

境界に落ちている数だけなら異世界からのヒトの方が多いのだろうが、ここの環境はヒトが生きていくには過酷すぎる。そのせいで、大抵のヒトは落ちてきて数か月で野垂れ死にしてしまい、どんなに丈夫な質でも数年生きられるかどうかであるらしい。

異形のモノとて、境界に落ちてしまえば似たような末路を辿る。それほどに、境界という場所は無慈悲で苛烈なところなのだ。

空気中に広がった塵が陽の光を弱め、昼日中でもろくに陽は射さず、雨は少ない。土地は痩せて、作物は満足に育たず、故に、境界で生きているものはすべて、常に飢えているという。

ここはあくまで世界と異界との狭間であり、そもそも、異形やヒトが暮らせるような土地ではないのだ。

元の世界に戻してやれたらと、いつも思う。

しかし、異形の世界の決まり事で、境界に落ちたものを助けることが禁じられてしまった。郷の一部の面々が、俺の異能を使用する場面を制限したがったからだ。

そいつらにはもちろん腹が立つが、何よりもそいつらの言い分を退けることができなかった自分の力量のなさにこそ怒りを覚える。

「……老い先短い年寄りほど、郷や世界の行く末よりも己の保身ばかり気を割くとはな。本当に、愚かしいことだ」

吐き捨てるように呟いた先で、道端に蹲っている異形の躰がぐずぐずと崩れ始めている。亡くなってからずいぶんと経ったのだろう。

ヒトの躰は死とともに腐っていくらしいが、異形の骸は時を置くと崩れて砂になる。だから、境界でいつも舞い上がっている粉塵は、彼らの遺砂だ。何年も、いや、何百年もの間、誰からも悼まれずに境界の地を彷徨っている、俺たちの同胞。

――境界に落ちてしまった異形も、ヒトも、助ける手立てはちゃんとあるのに。

ぐう、と沈みかけた思考を無理やり引き上げて、どんどんと無心で足を動かした。

異界の往来を可能とするという俺の異能は、極めて稀な能力だ。そして、この異能があれば、境界に落ちて苦しんでいる異形も、ヒトも、救うことができる。

それなのに、年若い俺の後見として幅を利かせる老いた助言役たちは、俺のこの主張を異能の乱用だと断言して憚らず、自らに都合のよい方策ばかりを推してくるのだ。……それでも、郷の長である俺の若さを侮っている老獪たちが、少なくとも表立っておとなしく振舞っているのは、俺のこの稀有な異能を畏れているから。

裏では着々と俺を孤立させようと画策し、表面上はのらりくらりと俺の意見を政から遠ざける。その狡猾さが忌ま忌ましいが、それもあと二年、俺が十八になるまでの辛抱だ。

十八になれば、伴侶を得られる。そうなれば俺は名実ともに郷の統治者として、欲と保身に凝り固まった年寄りどもに口を挟まれることなく、俺と伴侶、信頼が置ける側近たちで郷の政を執り行うことができる。

自分に『縁』あるものが境界に在るのは驚きだが、自分たちに都合よく動く嫁候補なるものたちを勝手に選び、俺に見合わせたがる爺どもを黙らせる良い機会だ。

境界の空は昼日中でも薄曇り、磁場も乱れて進んでいる方角すらわからない。そもそも、まだ見ぬ伴侶となるものが、この境界の何処にいるかもわからない。

それでも俺は、足の向くままに地道を歩きまわった。

俺と『縁』のあるものならば、俺が進む先に、必ずいる。俺たちは、絶対に出会える。


ぬるく淀んだ風が塵やら砂やらを舞い上げて、少し歩いただけで全身が土埃に塗れてしまった。

川の水も井戸の水も塵芥に汚染されているから、飲めるように濾過された水はとても貴重で、躰や着物を濯いで清めることすらも贅沢だ。だから、境界で生きるものたちは、みな一様に薄汚れていってしまう。

伴侶となるものが、異形なのかヒトなのかまではわからないけれど、この境界でどんな暮らしをしているか、考えるだけで胸が痛んだ。同時に、命を危うくしているのではないかと気も逸る。

焦る気持ちを抱えながらしばらく歩くと、ふと、寺らしき建物が目にとまった。

外縁は腐れ、戸は破れていて、ずいぶんと荒れているが、とりあえず屋根はある。寝起きするのに良さそうだ。ぐるりと裏へまわってみると、古めかしい井戸もあり、しかも、さっきまで誰かが使っていたような形跡が残っている。

もしかしたら、と浮足立って寺に駆け込んでみたけれど、寺の中はもぬけの殻だった。

ああ、空振りだったか。

そう肩を落としかけたが、よくよく室内を見回してみたら、隅の方、ちょうど俺くらいのものが横になれるくらいの部分だけ、埃がきれいに払われている。

やはり、今もここで誰かが寝起きしているのだ。

気が高まるまま、埃のない場所にそっと手を当てた。傷んだ床板は冷たく、饐えた匂いがして、ここで眠るような暮らしをしているのなら、きっと躰はぼろぼろだろう。

ここに棲まうのが自分の伴侶になるものだと決まったわけではないのに、俺には妙な確信があった。この気持ちもまた『縁』によりもたらされる感情なのだと信じて、ここで待ち人が戻るのを待つことにする。

待ち人の寝床にごろりと横になると、煤けた天井が目に入った。意外なことに、穴は空いていない。雨が少ないから天井までは腐らず、何とか寺の形を保っていられるのだろうなとぼんやり思った。

そうやってぼやぼやしているうちに、だんだんと眠くなってきて――


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