8.「ヒト」の世界で、「異形」に遭う。⑦ ~イツキの話~

夜半に、お客が来た。

変な時間にたっぷり寝てしまっていたせいか、布団に包まったものの目はひどく冴えていて、そのおかげでおれは、控えめに扉を叩く音を聞き逃さずにすんだ。

ごめんください、と掛けられた声も、ずいぶんと遠慮がちだ。玄関へ急ぎ、戸の心張棒を外してやる。

「はい、はぁい。……はい、どうぞ」

「こんな遅くに申し訳ない。お邪魔いたします」

男は、なぜか照れくさそうにはにかみながら、堅苦しい挨拶とともに寺の中に入ってきた。

昨日と同じ、燃えるような紅い髪に、紅い眼。いくらか見慣れたせいか、昨日ほど異質なものには感じない。

おそらくは高い位の鬼さまであるだろうに、偉ぶった様子はなく、むしろ謙虚ですらある。そんな彼をいそいそと居室まで案内してから、とりあえずと、茶を淹れて差し出した。

「ええと、粗茶ですが」

「ああ、すまない。ありがとう。……もう、寝てたのか?」

ちらりとおれの借り物の夜着に視線をやってから、男はサッと目を逸らして呟くように詫びる。

「ええと、まあ、横になってただけです」

「……こんな夜分に、本当に、すまない」

その逸らし方があまりにも不自然で、おれは訝しながら彼の様子を窺った。

淹れたての茶がまだ熱いのか、男は湯呑の縁を指先でなぞるだけ、口をつける素振りもない。なんだか気がそぞろに見える。

「あの、大丈夫ですよ。昼間にたくさん寝ちゃって、眠れずにいたから……」

そうか、と短く返した男の表情には、いろいろな感情が折り混ざっているようだった。

他人の、ましてや異形の気持ちを推し量るなんてもちろん難しいことだけど、相変わらず少しばかり不満そうであることはなんとなく察せられる。でも、それだけじゃない。何故だがそんなことまでわかってしまうから、おれは余計に気を揉んだ。

不満であるというだけなら、その理由は思い当る。うっかり、おれのような貧相な男を嫁にしてしまってそれを悔いているとか、そういうことだろう。

だけど、この男から察せられる感情はそういう安易なものではない。もっと深くて、重くて、ひりつくような、焦がれるような、どうにも言葉にしにくいものを伴っている、ように見えるのだ。

高位の鬼さまって、感受性が豊かなのかなあ。

感心して見つめていると、男はゆっくりと眦を上げて、おれと視線を交わらせてきた。

山道の闇中で轟々と滾って見えた紅い眼は、居室の行燈の灯りの元だとおだやかな茜色をしている。

逸らさずにその瞳を受けていたら、ふと、男の目じりが緩んだ。

「イツキ、会いたかった」

「あ……はい」

「昨晩、会ったばかりだというのにな。……いちど接すると、際限がない。一緒になるまでもう少しだと、思えば思うだけ切なくなって、今までできていた我慢が泡みたいに消えていくんだ。気持ちは満たされているのに、不思議だよ」

静かに笑って、躊躇いなく伸ばされた手が、おれの冷えた手をしっかと握る。

昨夜も思ったことだけど、彼の手は子どものようにあたたかかった。異形というものは、もと厳つくて冷たいモノだと思っていたのに。

冷えてる、と眉を寄せて、男は握ったおれの手を熱心に擦った。

「いつも、こんなに冷やしているのか?」

「ええと、はい、まあ。……おれ、冷え性みたいで……」

男の手は温く、心地よかったけれど、しんとした夜にふたりきり、複雑な感情を秘めた鬼さまと手を握り合うのはなんとも居た堪れない。

おそらくは、手を握るだけでは済みそうにない。そんな予感がするからだろう。

「……躰も、冷えているのか?」

彼の声は、少しだけ掠れていた。

どう答えたものか迷って口をもごもごさせていると、男が、ぐう、と喉を鳴らす。

「冷えているなら、あたためたい」

欲というより、もはや凄味すら帯びたその声音に、おれは背中を震わせた。

残念ながらそれが怖れからではないことが、おれにはよくわかっていた。この鬼さま――宝から、こうやって求められることを、おれは密かに悦んでいる。

「イツキに、ふれたいんだ」

「……いい、よ」

そっと居住まいを正しながら、小さく返した。

怖くはなくとも、畏れは多い。それでも、おれなんかの躰をさわるのに、おれなんかから許可を得ようとする宝のいじらしさで、心臓がずくずくと疼いた。

ぽん、と跳ねるように立ち上がった彼から、勢いよく抱きしめられる。

強くて熱い、熱烈な抱擁だった。ふれたところから、愛しい恋しいという気持ちが流れ込んでくるような錯覚すら覚える。

……なんて、色恋に縁のないおれが浮かれてうかうかしていうちに、あっという間に帯を解かれ、着物を剥かれ、ふんどしに手をかけられて、仰天した。

おれだって、夜伽のいろはを知らぬほどおぼこくはないけれど、いくらなんでも手が早すぎやしないか。やさしくしてくれとは乞わないまでも、せめて畳ではなく、布団の上で事に及んでほしい。

そう言ってやりたいのに声が出なくて、言葉の代わりに涙が出た。

「……イツキ!? な、泣かないでくれ……ごめん、ごめんな。おまえがいやがることはしないって、決めていたのに……本当に、ごめん」

「うえ、うええん……ぐすっ、ち、ちがうんだよう……い、イヤ、とかじゃ、なくてぇ……」

さっと身を離そうとする宝の袖を引いて、おれはぐしゅりと鼻を啜った。

色気も何もあったもんじゃない。でも、誤解されたままなのも、ここでお終いになるのも嫌だった。

「あ、あの……畳の、上だと、その……だから……できれば、お、おふとんで……って、ひぎゃ!」

いきなり抱えあげられて、驚きのあまり蛙が潰れたみたいな悲鳴が出る。

おれの奇声など意に介した様子もなく、宝は軽々とおれを抱えて、寝所へとなだれこんだ。

どさりと押し倒された布団は、今日の大雨のせいかいくらか湿気っているような気がする。

それでもまあ、畳の上よりかはいいか。と、些か思考が逸れたところで、ぬるい吐息が耳朶をくすぐった。

「イツキ、イツキ、好きだ。大好きだ。……ずっと、会いたかった」

「……え? ず、ずっと、って……?」

宝の科白にまた驚いて、目を瞠る。戸惑うおれにひとつ笑みだけを返して、彼はゆっくりと顔を寄せてくる。

「あ、あの……ぁ、……ん、ふ」

彼のくちびるはあったかくて、やわらかくて、不思議と懐かしい感じがした。

下唇にやさしく歯を立てられ、上唇をちゅっと吸われると、びりびりと背骨が痺れる。おれがぼうっとしているうちに、くちびるよりもっと熱い舌がぬるりと口の中に浸入ってきて、宝よの舌がおれの舌に絡まると、くらくらと目眩がした。

くちゅ、くちゅ、と互いの唾液が混ざる音といっしょに、宝の感情が流れ込んでくる気がする。それが、おれの身の内側を、ぐるぐる、ぐるぐると廻っていった。

甘くて重たいその渦になすすべもなく吞み込まれていくのが、少しだけ怖い。

自分より厚い舌で、丁寧に歯をなぞられた。注がれた唾液を口の端から溢すと、嗜めるように舌先を噛まれる。噛まれたところをまた吸われて、垂らした涎を啜られて、ぐちゃぐちゃに溶けていく。溶かされていく。

はじめてではない、と、頭の片隅で誰かが喚いた。その誰かの声は、おれの声によく似ていた。

この男のくちびるを、おれは知っている。 

この男の肌を、吐息を、おれは知っている。

知っている、はずだ。

だって、おれは。

おれは――

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