6.「ヒト」の世界で、「異形」に遭う。⑤ ~イツキの話~

おれが寺に戻ったのは、もうすっかりと夜が更けた時分だった。

当然ながら寺のなかは空っぽで、だれもいないことに心の底から安堵した。もしもあの子たちが、おれなんかに義理を感じてこの寺に残っていたりしたならば、おれは心を鬼にして叱らねばならないところだった。

……ああ。あの子たち、迷わず町まで行けただろうか。無事に、道場へ辿り着けただろうか。

もうそれだけが心配で心配で、寺の厨房の裏木戸から外を伺ってはみたものの、とっぷりと日が落ちてしまったこんな時間ではなんにも見えやしない。

寺までの行きすがら、この近隣にいくつか人気のある民家を見かけたのに、灯りのひとつも見当たらなかった。夜とはいえ、まだ宵の口。けれども、周囲はすっかり静まり返っている。

みんな早くから家に引っ込んで、布団を被って縮こまっているのだろう。こんなおっかない事件が相次いで世間を騒がせているのだから、そうなってしまうのも仕方がない。

さて、どうしようか。今から急ぎ走って行けば、日を跨がずに道場につけるだろう。

ヒトを喰いまわっている異形の存在が恐ろしくはあるけど、子どもたちの無事な顔を見れば心配で高ぶった気持ちも落ち着けられる。

……でも、あの男が。

『――今夜はもう、外には出ないでほしい』

行き道と同じようにおれの手を引いて、わざわざ寺まで送ってくれた彼の祈るような声が、まだ耳のなかに残っている気がする。

真っ向からそんなお願いをされて、もちろん無碍になどできるわけもなく、おれはただ、黙って肯き返すことしかできなくて。

……そう、肯いてしまったんだ。

異形のものとの約束は、たとえそれが口約束であっても、契約と同等の縛りを生ずると師範から聞いたことがある。

つまりおれは、あの鬼さまと契りを交わしてしまったということだ。だから今宵はもう、おれはこの寺を出てはならない。

しかも、契ったのはそれだけじゃない。

おれときたら、あの男がまた会いに来たいという願いにも諾を返してしまったし、ふたりきりで会うことまでも許してしまった。

わざわざ外堀を自分で埋めたうえに、ご丁寧に自身の墓穴まで掘っている。自らの首を絞める方へ、脇目も振らず真っ直ぐに向かっているってわけだ。

「……よし。遺書でも書くか」

裏木戸を静かに閉めて、ほうっと息を吐きながら呟いた。もちろん、応えてくれるものも、慰めてくれるものもいない。

ひとけのない、がらんとした寺のなかに、侘びしい独り言だけをぽつんと響かせて、おれはとぼとぼと寺の書室へ向かった。

こんなに目が冴えてしまっていては、どうせ眠ることなどできやしない。師範に宛てた遺言でもしたためて、お風呂の残り湯を使わせてもらい、躰を清めてから、明日の日の出とともに道場へ向かおう。

師範なら、あと二、三日もすれば帰ってくるはずだ。数日くらいなら、あの子たちもなんとか生活できるだろう。

あの子たちとちゃんとお話できなかったけれど、門から覗いていた年長と思しきふたりは、とても利発そうな顔をしていた。きっと、おれなんかより師範のお役に立ってくれると思う。

そんな思案に暮れながら、のたのたと遺書に師範への感謝の気持ちを書きつらねたり、風呂の残り湯で髪と躰を洗ったりしているうちに、夜はゆるやかに明けていった。

筆と紙を使わせてもらったお礼にと寺の中を掃除したりしているうち、庭の方から雀たちの愛らしい鳴き声がチュンチュン聴こえてくる。

どうやら、すっかり日も昇ったようだ。

さあ、今日は大忙しだぞ。まずは道場まで戻って、子どもたちの無事を確認できたら、師範の帰りを待って、鬼との邂逅を話さなければならない。

鬼嫌いの師範に、どうやって話したら、事の次第を納得してもらえるだろうか。

遺書は直には渡さずに、自分の部屋の文机の上にでも置いておいて、後から見つけてもらうほうが無難だろうな。

あれこれ考えながら支度を整えて、玄関の戸を引き、外に足を踏み出そうとした瞬間、ドッと地を揺るがすような音が耳朶を打った。

「――っ、う、わ! え、なに……え? ええ……?」

あまりの轟音に、足が竦んで身動きできない。そのおかげで、ほとんど濡れずにはすんだ。

雨だ。それも盥を引っくり返したような、土砂降りの大雨。

ぽかんと見上げた空は、厚い雨雲で覆われていた。

ついさっき明けたばかりの空には、清々しい快晴が広がっていたはずなのに、その気配はもうどこにもなく、早朝とは思えないほどに辺りは薄暗い。

いやいや、そんな莫迦なことがあるもんかい。たった今まで、雨の気配なんて微塵もなかったのに。

凄まじい雨音に圧されて、そろそろと玄関の戸を閉めながら、さてどうしたもんかと頭を悩ませた。

こんな雨模様のなか、町まで行くのはいくら何でも無茶がすぎる。

日々、師範の鍛錬に付き合わされているおかげで、脚力にはいささかの自信があるものの、こうまで激しく降られては、ずぶ濡れどころじゃすまないだろう。

この雨量が続けば、帰りの道中で土砂崩れや河川の氾濫なんかに巻き込まれる可能性だってある。子どもたちと師範の安否がどうにも気にはなるけれど、迂闊に飛び出していって川にでも流されてもしたら、目も当てられない。

ひと先ずは様子を見て、雨加減が落ち着いてきたらすぐ出立しよう。もしかしたら、たんなる通り雨かもしれないし。

とりあえずそう決めて、おれは玄関の上がり框に腰を下ろした。

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