5.「ヒト」の世界で、「異形」に遭う。④ ~イツキの話~

「――イツキ」

「は、はい!」

妙に呼びなれたふうに、しかも、甘やかしく、男はおれの名前を呼んだ。

そんなふうな声音で呼ばれ慣れていないおれは、つい躰を強張らせて、ぎこちなく返事をする。そんなふうに硬くなると、男は必ず不満そうな視線を寄こしてきた。

男に連れられ、歩きだしてから二時間、いや、三時間は経っただろうか。山に踏み入ってから一気に辺りが暗くなったこともあって、時間の感覚が失くなってきている。

寺を離れたのが昼過ぎだったから、まだ夕方の浅い時間であるはずなのに。こんなに暗いのが、そもそもおかしい。

それとも、それだけ長く歩いてきたということなのかな。もしかして、気づかぬうちにすでに異世界に這入ってしまっているとか。

緊張のせいか思考が散漫になっているおれを見て、男はひとつ息を吐いてから、また一歩、おれに歩み寄った。

「じつは、十八になったら嫁を娶る話なんだが。……俺が十八になるまで、あと、ふた月ばかりあるんだ」

すまない、と、殊勝に頭を下げられる意味がわからず、おれはぽかんとしたまま、彼が顔を上げるのを待った。

「ええ、と……あの、それは、どういう……?」

「……正式にはまだ十八になっていないから、本当はまだ、イツキを嫁にすることができなくて」

「あ、ああ、そういう……いや、おれは、べつに」

要するに、おれが嫁入りするという話は、まだ少し先だということか。おれなんてカタチばかりの嫁だろうに、そこのところはきっちりしておかねばならんのか。

なんだかよくわからないけれど、異形の世界にも、ヒトの世界と同じようにいろいろと決まり事があるのかもしれない。

「こんなふうに先走ったことをして、本当に申し訳ない。どうにも、気が急いてしまってな。……俺はまだまだ、未熟者だ」

すまなそうに顔を歪めて語尾を弱らせた男の声に、なぜだかおれの胸が痛んだ。

鬼なのに、鬼らしくなく、あまりにも切々とした眼差しをおれに向けてくるからだろう。

嫁という枠に嵌まろうが嵌まるまいが、最終的に喰うことに変わりはない。だから、おれはふた月くらい別にかまわないですよ。と言いかけて、ハッとした。

「……いや、待って待って待って、ちょっと待って、ください。ということは……ふた月後、あんたが正式に十八になったら、また、ほかのだれかを攫いにくるってこと……?」

「誰かを攫いに? そんなことはしない!」

「ですよね、そうですよね! とにかく、しばらくはおれで我慢してくれるってことですよね! じゃないと、おれの犠牲がまったくの無駄になっちゃうし」

「……我慢? 犠牲、って……なんのことだ? そもそも俺は、誰も攫ってなんか」

言いかけて、男は紅い眼を、まるくした。暗闇でも煌々と灯る火のような両眼を瞠らせて、おれとのあいだの、最後の一歩を踏み込んでくる。それはもう、鼻先が触れそうなほど近かった。

「イツキ、おまえは……俺に攫われたと、思っているのか?」

「えっ!? えっ、いえ、いえいえいえ! そ、そそそんな、とんでもない!」

ほんの僅か身を引いて、あわてて失言を取り繕った。ありえないほど目が泳いでしまったが、山中の暗がりで気取られなかったことを祈るばかりだ。

「さ、攫われたなんて、そんなこと……お、思ってない、です」

そう。べつに、攫われたわけでも、拐かされたわけでもない。自らすすんでこの男の手を取った、それは間違いのないことだ。

彼は、嫁が欲しいと言った。その身を喰わせろなどとは言っていない。ただし、『嫁』という名の贄を所望しているのだと察して、手を引かれるままにのこのこついてきたおれは、ちゃんと覚悟を決めている。この鬼に喰われて、骨も残さず命を落とす、悲壮な覚悟を。

……けれど、なんだろう。なんだか、いろんなことがちぐはぐだ。おれの覚悟はいまのところ空振りだし、男は嫁取りの話しかしない。

いまいち噛み合わない会話を反芻して、さてはこの男、相当に位の高い鬼さまなのかもしれない、と思い当たった。

位の高い異形の、しかも鬼さまであるならば、わざわざ喰うべきヒトを攫いになど来ない。本来、喰われるべきこちら側から、崇める鬼さまのために贄を差し出すものだからだ。

となると、巷を騒がすヒト喰いの異形とこの男は、別のモノだということになる。高位の鬼さまは、人里に下りてきてそのへんの人間を喰い荒らすなんてこと、絶対にしない。

――じゃあ、今、町中でヒトを喰い散らかしている異形は、ほかにいるってこと?

「イツキは……本当は、俺の嫁にはなりたくない、のか?」

困惑するおれの思考を遮って、男の静かな声が響いた。

その声音があまりにもの哀しくて、ハッと意識を引き戻される。この男の悲しんでいるのかもしれないと思うと、なぜか心臓が痛むのだ。

冷静に思い返してみれば、男ははじめておれと顔を合わせたときから寂しげだった。おれがよそよそしく振る舞うと不満そうだし、おれを見つめる視線にもなんとなく含みがある。

異形のモノが、しかもどうやら高位の鬼さまが、どうしておれなんかに拘るのかはわからない。……けれど、とにかく、彼に悲しんでは欲しくなかった。

「――そんなこと、ないよ」

気づけばそう答えていて、自分でも驚いた。それでも、不思議なことにまだ伝え足りていない気さえしている。

男の目が大きく見開かれて、瞳の奥でぱちりぱちりと火花が散った。その艶やかな火をもっと見たくて、おれはそっと言葉を足していく。

「おれは、あの……ちゃんと、あんたの嫁にして欲しいって、思ってるよ」

ぱちり、ぱちり。紅い眼が瞬くたびに、美しい焔が踊るように揺れる。

この異形から魅入られつつあることを確かに理解しているのに、その火の粉から目を離せない。はじけた火の粉で、頬が炙られる。そうとしか思えないほど、自分の顔が熱かった。

なんてことを、と慄く自分も、いるにはいるのだ。嫁にしてくれと乞うなんて、喰らってくれと強請るのと同じなのに、そんな恐ろしいことを、おれのような弱虫が、どうして、どうして。

そうして混乱を極める意識の外で、悦ぶ自分がいることに慄然とする。嫁にして欲しいと乞うおれの言葉で、この男が滲ませる歓喜に、どうしようもないほど胸が高鳴る。

「そう、か。……それなら、よかった」

それきり、黙り込んだ彼の鼻先で、おれもまた、黙り込んだ。返された言葉は少なくても、男の歓びが伝わってくる。だから、沈黙は怖くなかった。

互いにしばらく黙していると、やたらと近くに気配を感じて、ちらと目線を上げた。途端、いつのまにやら、おれの頬にふれるほど近くまで顔を寄せていた彼と目が合って、ギョッとした。

「……イツキ」

「っひ、ひゃいっ!」

頬に呼気の当たる距離で、名前を囁かれる。男を恐ろしく思う気持ちは薄れてきているものの、さすがに飛び上がった。いくら心を寄せられても、相手は鬼さまだ。末には落命が確定しているのだから、怯えは残る。

おれの萎縮を感じ取ってくれたのか、男の声はやわらかく、殊更に穏やかに務めているようだった。

「俺が急に会いにきたせいで、驚かせてしまったんだな。本当に、ごめん。今夜の月があんまりにも大きくて、イツキの眼に似ていたものだから」

月と瞳を掛けて口説いてくるなんて、なんと達者なヤツだろう。鬼だと察している男子のおれでさえそぞろがましい気持ちになるのだから、たいしたもんだ。

泳がせていた視線をやっとこさ正面に向けると、さっきまで爛々としていた男の眼の灯りも、声音と同じくやわらいでいた。

あんまり馴染みはないけれど、他所さまのやりとりで耳にしたことくらいならある声音。恋しい愛しい想う相手を、やさしく呼ばうときの声の色。

「イツキ。いますぐでなくても、ふた月後でも、俺の嫁になってくれるだろうか?」

「ああ、それは、うん。……かならず」

必ず、と強く繰り返した。この男に乞われたときから、覚悟は決めていたのだ。

予想していたのとはだいぶ違ったが、男が異形であるからには、いずれ命は捧げねばならないだろう。

しかし、それはそれとして、彼の正体はきちんと知っておきたいとも思った。はっきり訊ねてみたいけれど、それは禁忌にあたるのだろうか。名は教えてくれたのだから、なにものか訊いても大丈夫ではないかしら。逡巡しているうちに、男がぐっと二の腕を掴んでくる。

「なあ、イツキ。こうして、ふたりきりで、また会いたい。会いにきても、いいか?」

紅い瞳がゆらりと煌めいて、宵闇に浮かんでいる。まるで小さな焔のようなその双眸は、目が離せなくなるほど美しい。異形は、ヒトのこころを惹きつけることに長けているとはよく聞くが、なるほど、納得だ。

いいよ、と、気づけばいつのまにか、そう口にしていた。

どうやらおれは、つくづくこのおとこに弱いらしい。

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