3.「ヒト」の世界で、「異形」に遭う。② ~イツキの話~

――引き続き、『現在』。

イツキ、鬼と出逢う少し前、市中にて。




鬼は、ヒトを喰らうのだそうだ。

普段はヒトと変わらない形をしているが、本当の姿は、牙は鋭く、爪が尖り、躰のあちこちから角を生やした恐ろしい異形で、ヒトにはない力を持っているらしい。つまり、襲われたらひとたまりもない。

だから、鬼の気配を感じたら、すぐさま身を隠すこと。

もしくは、一目散に逃げること。

「……いやいやいや、そんなのから逃げるなんて、絶対に無理でしょう。ていうか、鬼さまの気配を感じるってのがまず無理だから」

「様なんぞ付けるでない! 鬼に敬称は不要!」

「すみません、師範」

「まったくもう……とにかく、よぅく用心せいということだ。鬼は、おまえのようなやさしいものを狙うのだからな」

「えっ、おれ、やさしいかなあ。えへへ」

「こりゃ、イツキ! でれでれするでない、シャキッとせい!」

「すみません、師範」

矍鑠とした老師範にガミガミと叱られて、おれはおとなしく頭を垂れた。

十三の歳に拾われて四年ばかり、この師範、父と仰ぐには老いて見えるが、祖父と慕うには元気が良すぎる。そも彼からは、カマクラコウコという名前しか教えてもらえてなくて、正確な歳も育ちも不明。柔術の達人で、道場の師範をしていることだけは確かなので、とりあえず、師範と呼んでいる。

師範は、異形のモノたちが嫌いだ。とくに、鬼が嫌いだ。

はっきりと理由を説明されたことはないが、以前、めずらしく深酒したとき洩らしていた恨み言から察するに、ずっとむかしに子を失ったことと関係しているのだろう。

記憶のないおれを孤児寺から引き取ってくれたのも、そのおれにたいそうな名前を付けてくれたのも、おそらくその失くした子どもの代わりなのだと思う。

だからおれはできるだけ師範の望むようにしてやりたくて、鬼は怖ろしいモノだと諭されるたびに素直に肯くようにしている。もちろん、鬼には絶対に近寄らないし、気配を察知したら(察知できるかは置いておいて)、すぐさま逃げるつもりだ。

逃げるのは、得意だった。

師範の鍛錬のおかげで、脚力はしっかり鍛えられているし、師範のしごきから逃げ回るのはもはや日常茶飯事、むしろ逃げることに一日の大半を使っているといってもいいくらいだ。とはいえ、そんな心構えをしておかなくても、そもそも鬼なんて滅多に出遭うような存在じゃない。

それに、今のところ、ヒトの世界はものすごく平和なのだ。

聞くところによると、ここ数十年の間、異形たちが棲まう異世界と交わることがめっきり無くなったおかげで境界に落ちるものもなく、異形たちからの影響も薄まってきているおかげらしい。

だからといって暮らしが上向くわけでもないけれど、命の危険がなく安心して生きていけるなら御の字だ。


……しかし、そんなおれの呑気がよろしくなかったのか、思いもかけぬ血生臭い事件が起こってしまった。

おれが暮らしている市中で、行方不明者が続出したのだ。

しかも、ただ消えたのではない。話によると、消えたヒトたちの自宅や、消えたと思われる現場に、血液や肉片が散っていたらしい。おお、おそろしや。

当然のとこながら、世間は騒然となった。

ヒト喰いの異形が異世界から紛れ込んだに違いないと騒ぎ、惑い、その間にも、老若男女を問わず何人ものヒトが消えてしまった。消えるのは決まって晩のうちで、朝方に訪ねてみたら一家全員が消えていたなんてことまであるらしい。

警察は、残されたそれが失踪者本人のものかどうかはまだ判別できておらぬ、と公言した。まあ、彼らとしては大衆を宥めたつもりだったのだろうが、これがまた逆効果で、現場に血肉が残っていたという事実を裏付けるだけのものになり、ますます騒ぎに拍車がかかった。

これはやはり異形の仕業だ、ヒト喰いの異形が本当に出たのだと口々に囁きあい、子どもたちがひとりで出歩かないようにと親たちは神経を尖らせ、年若いものも老いたものも、最低限の用事でしか出歩かない。どの家も、店も、日が暮れるまえに戸を締める。花街なんかの夜商売は商売あがったりでカツカツだそうだけど、命には代えられないとみな諦め顔だ。

しかし、閑散とした暗い町を嘲笑うように、ぽつぽつとヒトは消え続けた。

失踪の現場に残されているのは、依然として生臭い血肉ばかり。……とはいえ、そこまではとくにおれ自身には関係のない話だったのだ。

いやもちろん、暮らしている町で起こっている話だし、まったく関係ないことはない。けれど、異形が出ようがヒトが消えようが、おれたちは飯を食わねば飢え死ぬし、その飯を食うには金がいる。

いつ出るかもわからぬヒト喰いの異形を警戒する暇があるのなら、せっせと働いて日銭を稼いだほうがマシだ。でないと、おれが住まう貧乏道場は、異形なんぞに喰われる前に潰れてしまう。

不幸中の幸いなんて言ってしまうと罰が当たりそうだけど、異形を恐れた金に余裕のある者たちが、せめてもの自衛にとうちの道場に押しかけてきてくれたおかげで、目先の生活には困らずに済んだ。

この怪事件が起こる前は、師範とおれのふたりきり、だだっ広い道場の真ん中でもくもくと、投げる、抑える、絞める、打つ、突く、を繰り返すばっかりで、入門志願者なんぞ見たこともない。

閑古鳥が鳴く道場の畳や床を雑巾で拭き上げながら、いつここが潰れるか、いずれ師範とともに干上がってしまうんじゃないかと心配でたまらなかったが、いまや門前は入門志願者で溢れかえっている。本当に、世の中なにがあるかわかったもんじゃない。

そもそも、飯炊きと掃除洗濯がおれの主な仕事であったはずなのに、ヒョロヒョロのおれに稽古をつけたがる老師の腹の裡がわからない。

それでも、老齢の師は正しく厳しく、そして、やさしく接してくれた。おれのような駄目弟子見習いではなく、いつか、この師の後を継ぐに相応しいひとがあらわれるまで、おれがこのやさしい老師を支えていくのだ。そのために、とにかく骨身を惜しまず働こうと、そう思っていたのに。

――市中より、町から外れた家のほうが、ヒトがよく消えているらしい。

そんな、真か嘘かよくわからない噂が広まったおかげで、おれの人生は大きく転じてしまうことになった。

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