2.「ヒト」の世界で、「異形」に遭う。① ~イツキの話~
――『現在』。
「十八になったら、嫁を娶る決まりなんだ」
男は紅い眼を爛々とさせながらも、少しばかり不愉快そうな声でそう言った。
実際、その物言いには不満そうな色が滲んでいたから、きっと本心から、おれみたいなのを嫁として娶ることが不服なのだろう。
でも、そんなことを言われても、おれだって好きこのんで嫁入りを望んでいるわけではない。何とも返しようがなく、とりあえず、視線を落としてやり過ごした。
寺に居た孤児は、女の子が四人と男の子が三人、ぜんぶで七人。
どの子もみな十に満たないほんの子どもで、男子にいたっては六つになりたての幼子だった。
あんな小さな子どもたちをこの不穏な男に差し出すわけにはいかず、震える脚を叱咤しながら自らのこのこついて来たものの、おれはもうすっかり気が塞いでしまって、顔を上げることすら億劫だった。
男は、そんなおれの手をしっかりと握って、力強い足取りで山の深いところへと踏み入っていく。
「俺の郷では、むかしからそう決まっている。縁を感じた嫁ならば、何処から連れてきてもよい。種別も性別も、関係ない」
言いながら、ちろりとこちらを見てくるもんだから、おれはますます身を縮こまらせた。
きっとこの男は、おれのようなやつを嫁にしようとしていることを今さらながらに悔いているのだろう。おれなんて、若いといっても齢十八、しかも同じ性の男で、見目はひょろっこく、貧相で、髪は真っ白。まあ、客観的に見ればおれなんて、この男でなくとも不服なのかもしれない。……どうせ、形ばかりの嫁だとしても、だ。
ああでも、どうか、どうかどうか、我慢しておくれよ。念じるように、おれは思った。とりあえず、今夜のところは、おれでなんとか我慢してくれ、と。
それで、とにかくもっと山深いところまでおれを連れて行って、ゆっくりと、できれば痛くないように、しみじみと味わって食ってほしい。肉が少なめで美味くはないだろうけども、もしかしたら珍味のような味わいがあるかもしれない。ああ、それと、仕留めるときは一息で頼みます。長く苦しむのは、勘弁願いたいので。
「寒くは、ないか?」
ぎゅうっと、また強く手を握られて、おれは素直に肯いた。この男の機嫌を損ねないように、ひたすらに従順に振舞う。そのくらいのことしか、いまのおれにできることはない。
おとこの足取りに合わせて、昏い山道をざくざくと踏み分けながら、おれは、寺に残してきた子どもたちのことを案じた。
あの子たちは、無事に町まで逃げられただろうか。寺を出るまえにこっそり耳打ちして教えておいた道場まで、ちゃんと辿り着けただろうか。あそこなら、数日は暮らせるくらいの食糧があるし、あの厳しくもやさしい老師範が彼らを助けてくれるはずだ。
「……じつは、きみに話しておかなきゃいけないことがあるんだ」
不意に、ぐいぐい進んでいた歩みをぴたりと止めて、男は意を決したようにおれを見た。
まだ、そんなに長くは歩いていない。事に及ぶなら山の奥まったところだろうと思っていたのに、もう、ここで?
息を詰めて、男を見やる。宵闇よりずっと濃い、山中の昏い涅色がぴりりと緊迫して、彼が、いまから何か大事なことを告白するつもりなんだというのがわかった。
おそらくは、自分の正体だとか、おれを連れてきた本当の目的だとか、そういうことを伝えようとしているのだ。けれど、それをあらためて告げられたところで、どうなるものでもない。
この男がヒトではなく、おそらく異形のものであることは、さすがのおれでも察しがついている。というより、宵の暗さでも隠せない彼の赤々した髪や眼を見れば、誰だって察するだろう。
でも、だからって、どうしようもないのだ。この男がただの異形ではなく、もしかしたら異形の最高位である鬼さまかもしれなくても、おれひとりで逃げだすわけにはいかない。
この男の突然の来訪にかち合ってしまって、子どもたちといっしょに逃げる時間などなかった。逃してやった僅かな隙では子どもだけでは逃れられまいと絶望していたのに、この男がおれでもいいと妥協してくれたから、時間を稼ぐ機会を得られたのだ。
不幸中の幸いというには不幸な要素が多すぎるけれど、とにかくおれにできることは、この男を子どもたちから引き離すことだけ。
……だけど、やっぱりおまえだけでは腹の足しにならぬ、ほかの子どもらも連れていく、なんて言い出したらどうしよう。とにかく、まずはおれを食べてみてください、足りぬかどうかは食べてから決めてくださいと泣きわめいて縋りついてみようか。
少しの沈黙のあと、おとこはあらたまった口調で、おれに一歩、近づいてきた。
「俺の名前は、宝というんだ。きみは、イツキ……カマクライツキ、だな」
「……えっ? あ、うん、そう……そう、です」
「イツキ。本当に、良い名前だ」
「は、はあ。ええと、はい、おっしゃるとおりで……」
まさか名前を知られてるとは思わなくて、おれはへこへこと頭を下げながら、ますます慄いてしまった。男の声はやわらかかったけれど、それが余計に恐ろしい。
イツキという名前は、世話になってる道場の師範からいただいたものだ。おれには家族がいなくて、しかも、孤児寺の前で行き倒れていた十三歳より以前の記憶がない。普段から人付き合いをしないおれには、友人や知人もいない。つまり、名前をくれた師範以外に、おれの名を知るものはいない。……なのに、どうしてこの男が、おれの名前を?
おれの懸念に気付いているのかどうなのか、男の眼差しは揺らぎがなかった。異形でさえなければ、と思うほどやさしくてあたたかい眼。
ああ。この御仁が、おれと同じヒトだったらよかったのになあ。異形だとしても、せめて低位のものだったなら、ケモノくずれとか、そんなものであってくれたなら、どれほど安堵できるだろう。
――いや、待てよ。ひょっとしたら、本当にそうなのかもしれない。
おれの中に、ふわりと期待の種が芽を出した。
ちょうどいい具合に風も凪いでいて、おれと男のあいだになんとなく穏やかな空気が流れている。もしかしたら、という期待を生むのに適した空気だ。
そうだ、もしかしたら。彼の紅い髪に気を取られて、しっかりと確かめずに相手の正体を覚った気でいたけれど、この男はただのケモノくずれなのかもしれない。彼らはヒトを誑かすだけで、ヒトを喰いはしないし、やたらと耳聡いと聞いたことがある。おれの名前をどっかで聞きかじって、からかっているだけなのかも。
おれは期待を込めて、まじまじと男の顔を見つめた。……そして、見つめた途端に後悔した。
今宵の月は、大きくて明るい。それでも、木々に覆われた山の獣道では二歩先にいる相手の顔もろくに見えやしなかった。なのに、おれの手を引く男の赤々した髪と同じ色の瞳が、くっきりと見て取れる。煌々と燃える両眼が、宵闇に紛れることなくこちらを見据えている。
暗い中でも視線が交わったのがわかって、おれは思わず息を呑んだ。
射抜いた先が灼けつくような、強い紅色だった。
この紅を、どこかで見たような気がする。いつ、どこで見たのだったか。真っ黒な木炭で熾した火の色に似ているから、冬場の火鉢を彷彿とさせるのだろうか。
なんにせよ、まちがいない。この男は、ヒトを喰らい、闇を生きる、異形のモノたちの中でも最高位の存在。
――鬼だ。
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