鬼の嫁娶、件の如し。

まきたろう

1.プロローグ 世界と世界の、狭間にて。

――『現在』より五年ほど前、境界にて。




鬼さまと、出会った。

出会ったというより、たまたま見つけた、というほうが正しいかもしれない。

夜が明けてしまう前から外へ出て、陽がとっぷりと落ちる時分まで日銭を稼いで回っていたおれには、鬼さまが何時頃ここへ来られたのかはわからないが、なんにせよ、闇夜に銭を拾うよりずっと幸運なことではある。

鬼さまは、ここしばらく、おれが寝起きしている廃寺の隅っこで、ひっそりと眠っておられた。

眠る鬼さまの頭には、巷の噂で耳にしていたようなツノはない。その体躯もおれよりいくらか大きいくらいで決して大柄ではなく、爪も短い。つまり、ぱっと見たところヒトと変わりないお姿をされている。

ただ、髪の色だけが、おれたちとは違っていた。薄暗い室内でも見紛うことがない、鮮やかな紅髪。この深紅の髪こそが、彼が鬼さまであるという証なのだ。……そして、彼が鬼さまなら、おれがやることはひとつしかない。

おれは、片腕を枕にこんこんと眠る鬼さまをゆっくりと慎重に仰向けにして、彼の帯をほんの少しだけ弛めた。朱色の帯も黒い着物も、古めかしくはあるけれど、あきらかに上等で傷みもない。

ごめんなさい、ごめんなさい、と何度も心の中で詫びながら、鬼さまの着物の裾をひらいて、下帯をほどいた。まだやわいのに、彼の摩羅はたいそう立派で、とりあえず一度、拝んでおく。

――おれの尻をほぐして、この立派なのを勃たして、尻に挿れて。……鬼さまが眠っているあいだに、ぜんぶできるだろうか。

不安と後ろめたさで、寝入っている鬼さまの顔をちらと見やると、浅黒くてつやつやした頬に目を引かれた。すうっと自身の手許に視線を戻せば、ほの暗い廃寺の中でも見て取れるほど薄汚れた自分の手のひら。

見比べるまでもないその差に、おれはますます気が滅入った。鬼さまのよく陽に焼けて健やかそうな肌に、自分の垢や埃で汚れた手でふれるなんて。寝込みを狙って、胤を掠め頂戴しようってだけでも畏れ多いのに、こんな汚れた身では畏れ多いどころの話ではない。いくらなんでも、申し訳が無さすぎる。

せめてもと思い、おれは廃寺の裏の井戸へ飛んでいって、水を汲んで頭からざばざば被った。石鹸なんて高価なものは持っていないから、垢すり代わりに自分の着物で躰じゅうをごしごし磨いてみる。ついでに、尻の中までしっかり洗って、できるかぎりほぐしてみた。境界で生きていくために春を鬻ぐ真似事を何度かしたことはあるけれど、鬼さまの摩羅はずいぶんと立派だったから、念には念を入れて、なけなしの油もぜんぶ使う。

垢擦り代わりに使った着物は、さっと水で濯いで、ぎゅうぎゅうに絞って、朽ちかけている欄干に干しておいた。夜のうちに、一時間ばかり干したくらいで乾くわけもないが、これ一枚きりしか持たないのだから仕方がない。

寺の中に戻ると、鬼さまはさっきと変わりなく深く眠っておられていて、ホッとした。

しかし、なんとか勃たせた鬼さまの摩羅は、やわいときとは比べ物にならないくらいにご立派で、おれは文字通り尻込みしてしまった。

無理無理、こんなの咥え込んだら、おれの尻の孔が裂けちまう。そうだ、くちで扱いで、飲み込んだら……いやでも、胃の腑に入れると消化しちまうから、肚に注いでもらうのがいちばんなんだって、そう聞いたっけ。

こわい、こわいと怯えながら、それでも頑張れることができたのは、どうしても、どうしても鬼さまの胤が欲しかったからだ。

鬼さまの、胤。この狭間の地獄から、おれを救ってくれるかもしれない、鬼さまの力を宿した胤。


――無事に事を済ませて、できるかぎり鬼さまの躰を清めてから、彼の下帯を締め直した。

起こさないように着物をきれいに着せ直して、一息つく。……それから、おれはおのれのしたことを悔いて、泣いた。

異界からやってきた鬼さまには特別な力があって、弱者であるヒトに幸福を齎してくださるらしい。

鬼さまから何かしるしを戴くか、或いは、鬼さまの身のほんの一部でもいいからそれを身のうちに入れてもらえれば、どんな望みも叶うのだという。そのことは、この蟻地獄のような狭間の世界に生きる誰もが知ることだった。

ヒトが暮らす世界と、異形が棲まう異界のあいだに在るこの境界では、みんな、元の世界に戻りたくて、戻ることを夢見て、足掻きながら日々を暮らしている。実際に、鬼さまから胤をいただいて、元の世界に戻れたという話だってちらほらある。

つまり、さきのおれと同じ場に――鬼さまが眠り込んでいる場に――遭遇すれば、誰もが同じことをするのだろう。

だからといって、僥倖に恵まれたと思い切ってしまうには、おれのしたことはあまりにも卑怯で、狡い行いだった。

寝ている鬼さまを起こすなんて狂気の沙汰だ、骨も残らず喰われるだけだ、そもそも真っ当に頼んだってヒト風情に胤なんかくださるわけねえ。信仰の深い大人たちでさえ、そう語っているのも知っている。……でも、この鬼さまは違ったかもしれないのに。だって、こんなにもやさしいお顔で眠ってらっしゃる。

「……眠っているあいだに、勝手に胤をいただいたりして、ごめんなさい。あさましい人間で、ごめんなさい。……本当に、ごめんなさい」

ぺたりと床板に額をつけて、三度詫びて、まだ濡れた着物を羽織って、夜が深いうちに廃寺から出た。

辺りはおそろしく暗く、空には月も星もない。おまけに、湿った着物が肌に張り付いて気持ちが悪い。夏とはいえ、こんな夜分にこんな格好でうろうろしていたら、きっとすぐに風邪を引きこんでしまうだろう。早いとこ、どこかで躰を休めないと。できれば、屋根のあるところがいい。

目を凝らして宵道をそろそろ進んでいると、だんだんと躰の芯が重く、温くなっていくのが自分でわかった。しかも、ひどく眠い。

この眠気はどうしたことだろう。たしかに、ここ何日も働き詰めで、今夜に限っては一睡もせず、あんなことまで致したのだから、躰は疲れ切っていた。それでも、このくらいのことはいままでもあったし、なんならもっと酷いときだってあったというのに。

……眠い。ああ、どうしても、眠い。もう、寝てしまいたい。……いや、駄目だ。こんな道の真ん中で寝てしまったら、異形らに踏まれるか、押し車にでも轢かれるかして、眠ったまんま、あの世行きだ。せっかく鬼さまの胤を戴いたのだから、もうちょっと、あと少しだけ長生きしたい。もう記憶もおぼろげだけども、もしかしたら自分の世界に帰れるかもしれないのに。……眠い、ねむい。眠くって、どうにもいけない。横になるなら、せめて道の端で、できるだけ安全なところで。

よた、よた、と歩いて、進んで、いや進んでいるのか、足踏みしているだけなのか、それすらもよくわからない。真っ暗な宵闇の道の上で、まわりの音がだんだんの遠くなっていって、眠気に負けたおれはその場に転がった。地面の土埃も、その土埃に塗れる濡れた着物も、なにも気にならなかった。

横になった自分の肚のなかで、とろんとしたものが揺れる。とろん、とろ、とろん。揺蕩うそれに誘われるままに、やがておれは、深く、ふかく――。


――暗転。

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