第31話 表裏
菜々子が樋口に告白するという話を聞いた。どうやらそれは周囲の人間がお膳立てしたらしく、菜々子は躊躇いがちに樋口が一人待つ教室へと入って行った。
僕が教室の前で中の様子に聞き耳を立てようとしていると、同じ事をしている女子と鉢合わせた。
「宮野さん、えっとこれは、その〜」
適当な言い訳が思いつかず、結局僕は黙りこくり、気まずい空気が流れた。すると、沙霧は少し視線を逸らしながら言った。
「気になるよね。私も菜々子が心配で」
僕たち二人は黙って廊下でそわそわとしていたが、教室内からは喋り声は聞こえてくるものの、肝心の内容は聞き取れなかった。
少しして突然扉が開き、菜々子が教室から飛び出して来た。菜々子はそのまま僕らの存在にすら気がつかないまま、走り去って行った。その時の彼女の瞳には、涙が浮かんでいた。菜々子の悲しく、苦しそうな表情を見た僕と沙霧と顔を見合わせた。
残念ながら、菜々子の告白は失敗に終わったようだった。
直後、教室内から樋口が出てくる気配がして、俺たちは慌てて隠れた。
教室から出てきた樋口は平然としていて、何か別の事でも考えているように見えた。
(なんだよ、あの態度)
その様子を見た僕の心には怒りが湧き上がっていた。樋口なら告白くらいされ慣れているのかもしれないけれど、菜々子が勇気を出した告白を振った後で、あんな風な態度をとれるのが信じられなかった。
僕はこれまで、樋口の事を過大評価していたようだった。樋口なら振るにしても、もっと上手くやると思っていた。あんな非情な一面を見た後では、これまでの樋口の振る舞い全てが作られたもの思えて来た。
文句の一つでも言おうと、樋口に向かおうとした僕は、制服の裾を掴まれる感覚に足を止めた。振り返ると、沙霧はもの悲しく、心配そうな顔をしていた。それを見て僕は思い出した。今は振られたばかりの菜々子の方が心配だ。僕は菜々子の向かった方へと、急いで後を追った。
◇
しばらく探し回った僕は、校舎裏でようやく菜々子の姿を見つけた。しかし、彼女の向かい側には坂本水紀の姿があった。その瞬間、僕はだいたいの見当がついた。
坂本さんはおそらく樋口の事が好きだ。だから、菜々子が樋口に告白するという話を聞いて、結果を聞きにきたんだろう。
「え? 嘘でしょ!? ありえないっ」
坂本さんの大声が聞こえてきた。それから少し言葉を交わした後、菜々子は逃げるように走って来た。その顔はさっき以上に涙に濡れていた。その悲劇的なまでに惨めな姿を見て、いったい何を言われたらそこまで苦しそうな表情になるのか、僕には想像も出来なかった。
僕は隣を走り抜けようとする、菜々子の手を咄嗟に掴んだ。
「何があったんだ? いったい何を言われた!?」
菜々子は僕の顔を見ると、泣きじゃくりながら叫んだ。
「私みたいな死ぬべき人間が、樋口君に想いを伝える事なんて許されるわけないでしょ?!」
そう言った菜々子は僕の手を振り解いて、走って行った。
(なんだよ、それ?)
残された僕は唖然とした。坂本さんがそんな事を言う人だとは思っていなかった。この日一日で、人間のこれまで知らなかった負の面を一気に見た気がした。
(なんなんだよ、お前ら……)
これまでキラキラと輝いて見えていた人間達が、急に気色の悪いものに見えて来た。
その日以降も、樋口や坂本さんはこれまで通りに過ごしていた。彼らに対する幻想が砕かれた今、いつもと変わらない態度であっても、その裏に常に付き纏う裏の顔によって、その綺麗な一面がいっそう気味悪く感じた。
きっと彼らにとってはそれは無自覚で普通の事なのかもしれない。しかし、僕は嫌悪感を抱かずにはいられなかった。それでも、それだけだったら、僕も世の中はそういうものだと受け入れて、彼らに恨みを抱く事も無かっただろう。
しかし、 一方の菜々子はその日以降、次第におかしくなっていった。明らかに元気が無くなっていて、何をするにも気力が無く、ぼーっとしている時間が長くなった。
心配した僕が話しかけても、取り繕ったような愛想笑いで誤魔化すばかりで、全く心を開いてくれない。
唯一、沙霧とは一緒にいることも比較的あるようだったが、菜々子は明らかに人を避けるようになった。
菜々子をそんな状況にまで追いやった、樋口と坂本さんが許せなかった。しかし、僕のこの感情は、きっと八つ当たりに近いものだという事は自覚していた。樋口や坂本さんは、それからもずっと学校の人気者だったし、あれ以来、菜々子に何かしたのを見た事も無い。あの日の出来事は、きっと不完全な人間のありふれた失敗だったのだと無理に納得して、結局僕は何も行動を起こさないまま中学を卒業した。
◇
中学を卒業した僕は、菜々子と沙霧と同じ高校に進学した。樋口と坂本さんは違う学校だから、高校入学を機に菜々子も元気を取り戻すだろうと楽観的な期待を僕が持っていた事は否定できない。
しかし、高校に入学してからの菜々子は、元気になるどころか、ますます覇気を失っていった。まるで人生に意味を見出せず、ただ死を待つだけの空虚な傀儡のように、学校で授業を受けては家に帰るという作業を淡々と繰り返しているように見えた。
最後に菜々子が笑ったのを見たのは、いつだろうか。そんな菜々子にかける言葉も、どうしていいのかも分からず、僕はただ悶々と不安と心配を抱えて過ごしていた。
そんな暗く澱んだ日々の中、菜々子が特に酷く思い詰めたような表情で、今にも消えてしまいそうな程の
放課後、女子トイレの前を通りかかった僕は、パチンっという叩かれたような音を聞いて足を止めた。
「菜々子、あなた馬鹿なんじゃないの!?」
そのはっきりとした責めるような声は、クラスの女子のリーダー的立ち位置にいる田城花凛のものだった。
「ごめん、ごめんなさい」
中から菜々子の啜り泣く声が聞こえたが、さすがに女子トイレの中に入っていく勇気は僕には無かった。
僕がどうしようかと
女子トイレから泣きながら出てきた菜々子の頬は赤味を帯びていて、確かな暴力の痕跡がそこにはあった。
この時の僕が感じたのは、怒りというよりも、納得感や悲しみの方が大きかった。これまで、菜々子が絶望に満ちた暗い瞳をしていた理由がようやく分かったのだ。
賢い田城さんなら、気がつかれずに陰湿に菜々子を
事情が判明すれば、少しは僕にもできる事がある。相手は田城さんで、事を大っぴらにすれば簡単に解決するようにも思えなかった。だから、僕は沙霧に事情を説明して、菜々子が一人になる時間を極力減らすことにした。
菜々子の様子を憂いていた沙霧は、喜んで僕の計画に賛同して、これまで以上に菜々子と一緒にいるようになった。もちろん僕も、菜々子に積極的に話しかけるようにした。
常に菜々子の側に誰かがいれば、相手だってやりにくいだろう。田城さんがリスクを冒してまで対象を広げるとも思えなかったし、きっとこれは複雑なものだ。全てを理解はできない僕にできることなんて、このくらいしか思いつかなかったし、菜々子の側にいれば、何か力になれるかもしれないとも思った。
僕の努力が功を奏したのか、あるいは向こうの気まぐれな飽きによるものかは分からないが、あの日以降、菜々子が誰かに嫌がらせや暴力を受けるのを見る事は無かった。
それからは菜々子も次第に元気を取り戻していったように思う。笑う姿を見た事だってあった。僕は純粋に菜々子といるのが楽しかったし、彼女の明るい顔を見るのが嬉しかった。
だが、それは唐突にやってきた。今から振り返ると、僕は菜々子が時折見せる寂しそうな表情に気がつかない振りをしていたのかも知れない。それはきっと、菜々子も僕と同じように一緒の時間を楽しんでくれている、と思いたかった僕の、身勝手な欲だったのだろう。
けれど結局、菜々子の本心がどうだったかなんて、今となっては分からない。もう彼女は死んでしまっているのだから。
菜々子の死は突然に訪れた。僕は最後に何も伝えられなかった。残ったのは喪失感と後悔。そして行き場のない感情は、恨みへと成り、復讐へと繋がるのだ。
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