第16話 貴重なる成長

 そうして肉豆腐とかきたま汁は、無事12時までに仕上がった。ご飯も炊き上がり、紗奈さな岡薗おかぞのさんはできあがったお料理をトレイに載せて応接セットに運ぶ。


「ええ匂いやねぇ。今日は何やろか?」


「肉豆腐とかきたま汁です。肉豆腐は天野あまのさんが作ったんですよ」


「まぁ、凄い! 2回目やのに、もうそんなにお料理ができる様になったんやねぇ」


 感動した様に顔を綻ばす牧田まきたさん。


「いえ、ほぼレシピ通りに作っただけで。でも包丁とかはまだまだで、岡薗さんに教えてもらうことばっかりで」


 紗奈が恐縮しきると、牧田さんは「何言うてんの」と微笑んだ。


「レシピ見てでもなんでも、作れるんが凄いんよ。まだお料理初めて間も無いのにねぇ」


 牧田さんがあまりにも褒めてくれるものだから、紗奈は照れ臭くもあり、恐れ多くもあり。つい口元が緩んでしまう。


「ほなさっそくいただきましょ。楽しみやわぁ」


 牧田さんは笑みを浮かべたまま「いただきます」と手を合わせ、おはしを持ち上げた。紗奈と岡薗さんも「いただきます」と手を合わせた。


 としたものの、紗奈は牧田さんと岡薗さんの動向を見つめてしまう。岡薗さんはご飯を大きな口に放り込み、牧田さんはかきたま汁をすすった。


「これ、かきたま汁は岡薗くん?」


「はい。定番ですわ」


「そうやねぇ。今日も美味しいねぇ」


「ありがとうございます」


 そして、ふたりはほぼ同時に肉豆腐にお箸を伸ばす。岡薗さんは豚肉を、牧田さんは豆腐を口へ。


 その瞬間を紗奈は緊張して見守る。これまでもお料理部で作られた食事の感想を率直に口にして来た。これまで牧田さんや岡薗さんが作ってくれたものが美味しく無かったことなど無かったのだが、作ったものを「美味しい」と言ってくれたら、それはきっと嬉しいだろうし、励みにもなると思うのだ。


「……うん、天野さん、美味しくできてるよ。ほんまに凄いねぇ」


「うんうん。旨いわ。初めての味付けやったのに、良うやったなぁ」


 ふたりは感心した様にそう言って、また肉豆腐を口に運んだ。


「お豆腐にもええお味が沁みてる。ふわっふわやねぇ」


「ほ、ほんまですか?」


 紗奈の心臓はどくどくと早打ちする。それを抑える様に胸元で両手をぐっと組んだ。


「ほんまやで。旨くできてるで」


 岡薗さんはそう言いながら人参を食べ、「うん、よう煮えとる」と頷いた。


「よ、良かったです〜」


 紗奈は心底安堵し、その身体がソファからずり落ちるかの様に脱力した。それを見た岡薗さんも牧田さんも、一緒に愛妻弁当を食べていた所長さんまでも、おかしそうに笑い声を上げた。


「大げさやなぁ、天野さん」


「そうよぅ、レシピを見て作ったんでしょ? ならますます大丈夫やよ」


「なんやなんや、天野さんってそんな心配性やったんか?」


「そんなつもりは無いんですけど〜」


 だが所長さんの言葉に紗奈は観念するしか無い。最近自分の新たな面が出て来ていることに紗奈は気付いている。楽天的だと思っていたのだが、やたらと気に病んでしまったり、こうして心配してしまったり。


「私、もっと何も考えてへんて言うか、あ、デザイナーになりたくてお勉強とか実習とかは頑張りましたけど、もっと気楽て言うか。こんな後ろ向きっちゅうか、そんなことってあまり無かったんですけど」


 紗奈が苦笑混じりで不思議そうに言うと、所長さんが「それはきっとな」と口を開く。


「天野さんが社会人になったことへの、成長の表れと違うやろか」


「成長……ですか」


 紗奈は目を丸くする。成長したのなら、もっと自信が付くものでは無いだろうか。紗奈が感じているのはその逆の様に思える。に落ちない様な顔をしてしまっていたのだろう。所長さんはゆっくりとさとす様に言葉を紡ぐ。


「学生の時って、例えばデザインとかが良く無かったり誤植ごしょくとかがあっても、先生からダメ出しされるだけで、損失が出るわけや無いやろ。そりゃあ本人はへこむやろうけど、お金が動くわけやあれへん。けど仕事はそうや無い。デザインが悪いとかならともかく、誤植はもちろん素材貼り間違えとかがあったら、クライアントに影響が出る。当然損失が出るし、信用かて失いかねへん。責任てもんが発生するんや。天野さんは無意識にそれに気付いてるんと違うやろか」


 紗奈ははっと目を見張る。確かにまだ紗奈に任される仕事はそう大きなものでは無いし、まだクライアントと直接の関わりは持っていない。


 だが研修の時に見せられた作成料一覧。名刺は1万円、はがきで1万5千円が基本額だった。その金額はこれまでアルバイトしかしたことが無かった紗奈にとっては高額で、紗奈の働きで事務所の収益も変わる。リテイクが多く出れば損失になるし、無ければそれだけ利益になる。


 その時は表面的には「こんなに掛かるんや」ぐらいにしか思っていなかったのだが、どうやら紗奈の中には気付かぬうちに変化があった様だ。


「そうかも知れません。それやったらええなと思います」


 紗奈がぽつりと言うと、所長さんは「うんうん」と満足げに頷いた。


「過剰に気負ったりする必要はあらへんけど、どんな仕事でも事務所の維持や繁栄に関わるもんや。そこを分かっててくれたら嬉しいわ」


「はい。肝に命じます」


 紗奈が神妙な面持ちで言うと、所長さんは「うん」と笑顔で頷いた。


「さ、天野さんも冷めんうちに食べ。せっかく自分で作ったんやろ?」


「は、はい。いただきます」


 紗奈はここでやっとお箸を取る。いつもの様にご飯から。表面が少し冷めてほのかな固さを出したご飯をすくって口に放り込む。


 ほかほか炊きたてのご飯はもちろん美味しいが、少し熱の逃げたご飯もまた美味しい。熱々よりその甘味をより感じられる気がするのだ。


 そしていざ、肉豆腐。お肉は豚肉だし、レシピには無い炒めの工程を加えたが、レシピ通りに調味をした。牧田さんと岡薗さんだって美味しいと言ってくれた。だからきっと大丈夫。


 紗奈はどきどきしながら豆腐を割る。お箸がふわりとした感触で入って行った。そしてひとくち運ぶと。


「……美味しくできてる」


 ぽつりと口から漏れ出たのはそんな言葉だった。


 甘すぎず、辛すぎず、お出汁がふわりと香る。味わい深いと言うのだろうか。岡薗さんや牧田さんが作ってくれる煮物と遜色そんしょくない、そう思うのはおこがましいだろうか。だがそう引けを取らないと思うのだ。生意気かも知れないが。


 すると牧田さんも岡薗さんも、「ほらね」と言う様ににこにこしている。紗奈ははっと我に返って「す、すいません!」と頭を下げた。


「なんで謝るんよ。美味しくできてるでしょ? 凄いわぁ」


「そうやで。上出来やで、天野さん」


 その言葉に、紗奈の胸がふうわりと暖かくなる。じわじわと喜びが広がり、目頭がしっとりと熱くなった。


 嬉しい、本当に嬉しい。あらためてお料理の機会をくれた岡薗さんと牧田さんに感謝の気持ちが強くなった。ふたりにもっと美味しいものを食べてもらいたい。紗奈はつたないながらもこれからも努力しようと心に誓う。


「天野さん、またひとつ成長できたな」


 所長さんの言葉に、紗奈は「はい!」と元気に応えた。

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