第9話 こうなると思った
恐らく酒が入っているであろうコップを片手に、無精ひげの男性に声をかけられた。
これは騒動の予感だぞ……と思った僕は、努めて冷静に笑顔を作って対応する。フードで素顔は隠しているからにこやかな笑みが伝わるかどうかは知らないが。
「……ご忠告ありがとうございます。ですが、それには及びません。まだ正式には冒険者でもありませんし、お気持ちだけ受け取っておきますね」
最後のほうはなんだかおかしな回答になったが、それでも我ながら平穏に受け流すことができたと思う。しかし、対する男性側はそうではなかった。
ひっく、としゃっくりをもう一度、みるみる内に機嫌を悪くして男は語気を強めて言った。
「ああ!? 俺様の言うとおりにしてればいいんだよ! 俺ぁなあ、お前みたいに顔だけの奴がいっちばん嫌いなんだよ! どうせ冒険者として無能でも、顔で女が釣れると思ってんだろ? 俺は頑張っても声なんか掛けられねぇのによぉおお!!」
——それってただの私怨では? と言う暇もなく、男は手にしていたコップを僕に向かって投げる。くるくると飛来したコップ。それを僕は落ち着いて首を傾げて避けた。通りすぎてから背後でからんからん、という乾いた音が響く。
あっさりと回避されたのがムカついたのか、酔いとは違う意味で顔が赤くなる男を見て、「やれやれ……これは言っても聞かないやつだな……」と肩を竦める。そして、僕の想像どおりに男がキレた。
「くっ! こいつ……スカしてんじゃねぇぞ!」
ぎしりと床板を軋ませて男がまえに出る。拳を全力で振りかぶると、感情のままにこちらの顔面めがけて正確に打ち出した。あいだにある空気を引き裂いて、男の拳が迫る。
だが、僕の圧倒的なステータスが相手の攻撃の軌道を見切る。まるでスローモーションのように捉えた現実を前に、僕は慌てず騒がず体を半身にして男の一撃をかわした。
あらんかぎりの腕力で打ち出された攻撃は、目標を失って空しく音を立てる。行き場を失った運動エネルギーが前方に偏り、足取りのおぼつかない男はそのまま自らの体重と重力に従って前方へ転がった。激しく床に肩や背中を打ちつける。僕の後ろでソフィアが小さく「わっ!」と驚く声が聞こえた。
「く、くそっ……よくもやりやがったな、てめぇ!! 俺様に恥をかかせやがって!」
ごろごろと一回転半、横に転がった男が額に青筋を浮かべて立ち上がる。鬼のような形相で僕を睨んでも現実は変わらない。僕はなにもしちゃいないのだと。
「なにもしてませんよ。あなたが勝手に殴りかかってきて、勝手に転んだんでしょう? 人のせいにしないでください」
こればっかりは見過ごせずそう言い放つと、ますます男の顔色が赤く染まっていく。そこにもはや酔いはない。恐らくほぼ全ての感情が怒りで満たされると、周りの制止する声も無視して男の手が腰に伸びる。巻かれたベルトには、冒険者らしい一品がぶら下がっていた。
そう……茶色の革の鞘に納められた、ひと振りの剣。
——さすがにそれはやりすぎだろう! 冗談では済まないぞ!?
そんな僕の内心を読み取れるはずもなく、男は苛立ちに任せて紺色の柄に右手を添えた。五指でしっかりと掴むと、勢いよく剣を抜き放つ————ようなことはしない。そこは人間としての理性がギリギリで本能を抑えたらしい。ギリギリと奥歯で不快な音を立てながらも、睨むように腰元の剣を見下ろしていた。
——斬るか? いや、それをしたらただの犯罪だ。ここは素手で殴るか、いっそ罵倒して引き上げるか。
恐らく男の胸中ではそんな思考がぐるぐると巡っている。このまま大人しくなるのをジッと待ってやり過ごそうとしていると、しかし均衡が崩れるまえに頭上から声が落ちた。ざわつく冒険者ギルド内においてもよく聞こえる澄んだ声が。
「そこでなにをやっているのかしら?」
声の主は女性だった。その場にいた誰もが音のしたほうへと視線を向ける。向けてから、大半の者が驚愕を浮かべた。それは目のまえの男も例外ではない。
よりいっそうの怒りを頬に刻みながら、それでも男は剣の柄から手を離して呻くように呟く。
冒険者ギルドの二階へ続く階段から下りてきた、燃えるような赤髪の女性に向かって。
「…………ギルドマスター……!」
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