春にさよなら

西野ゆう

第1話

「アキ、行こう。もうこの場所も意味がないんだよ。アイツは来ないんだ」

 長身の男が振り向いてその場を去ろうと歩を進めながら帽子を脱ぐと、短く刈り揃えた頭を一度撫でて、汗を拭った。

 その男が声を掛けた相手は、声が聞こえていないのか、白いワンピースの裾を風に靡かせるだけで、本人は全く動かない。

「アキ、もう行かないと」

 男が再び女に近づくと、女はようやく視線を動かした。

「私ね、スズメが嫌いだった」

「何の話だ?」

 梅雨空の下で葉の緑を濃くした桜の木の下、アキと呼ばれていた女は右手を上に伸ばし、桜の枝先を摘まんで下に引っ張った。

「ナツもだよ。ナツのことも嫌いだった」

 アキはそう言いながら、視線を桜の枝先から長身の男、ナツへと向けた。その視線は、桜の葉の棘よりも鋭い。

「知ってたよ。アキがハルを好きだったことぐらい」

 ナツが少し憮然としてそう言うと、アキは苦笑した。

「ハルのこと好きだったからって、ナツをキライになる理由にはならないよ」

 ナツは自分がなぜ嫌われていたのか、その理由も分からないのかと暗に馬鹿にされているようで、話を打ち切り歩き出した。その過去から逃げるように歩き出したナツの背中に向かって、アキが声を高くして過去の恨みをぶつけた。

「スズメも、ナツも、桜の花を落とすじゃない! まるで、ハルを憎んでるみたいに! ねえ知ってる? 日本語でハルってスプリング、春って意味なのよ」

「知ってるよ。俺はサマー、アキはオータム、だろ。日本贔屓の俺たちの親が揃って考えて付けた名前だ」

 ナツ、アキ、それにハル。三人は日本生まれの幼馴染だが、日本人はハル、春樹一人だ。

「どうして最後くらい、自分から会っていかないの」

「どんな顔して会えって言うんだよ!」

 背中に向かって小言のように言葉を浴びせられ続けたナツは、アキの言葉が終わる前に振り向いて怒鳴ってしまった。その剣幕に、アキは身体を硬直させた。湿った風が二人の間を通り抜ける。

 アキは、その風に運ばれてきた埃が目に入ったといったふうにして、目をこすった。ナツは今歩いてきた数歩を大股で戻り、アキの横を通り過ぎざま小声で謝った。

「ごめん。でかい声出して悪かった」

「ううん、私こそごめん。オリンピック、無くなって一番悔しいのはナツなのに」

 アキが振り向くと、ナツはさっきまでアキが眺めていた桜の木の幹に手をついていた。

「いや、俺よりも悔しいのはハルさ。俺はさ、ある意味オリンピックが無くなったのは自業自得だから。競技場の問題にしても、ドイツとの関係にしても」

 アジア初となる予定だった東京オリンピック。だが、東京での開催は不可能だと中止が決定したのがつい先日だ。

 学生の頃から近代五種でオリンピック代表を目指していたハルとナツ。二人ともそれぞれの国の代表選手に内定していた。

 ナツは二人で厳しい練習に励んでいた日々を思い出しつつ、桜の木に刻まれた傷を指でなぞった。横に短い線が、左右二つに分かれて日付と共に刻まれている。

 左がハル。右がナツだ。

 日本人の中では平均的な身長だったハルだが、それでもアメリカ人のナツと比べたら小さい。そのせいで、フェンシングだけはナツが大きく水をあけていた。

 ハルはその身長差が悔しかった。歳を重ねて明らかに身長差が開き始めた。ハルが飛び上がっても届かなかった桜の花を、ナツが背伸びしただけで叩き落した年から、二人で背の高さを桜の木に刻んで競い合うのを辞めた。だが、ハルだけは隠れて毎月桜に傷を刻み続けた。自分の心の奥へと刻み付けるように。

 空の方に向かうごとに長くなっていく左側の傷。長くもなり、深くもなっている。その傷を撫でていたナツが、胸に下がるドッグタグを握り締めた。そして、自分の頭の位置で強く握ったドッグタグを、幹の上で勢いよく横に滑らせた。

 しかし、桜の木は堅い。幹に刻まれた傷より、ナツの指を刻んだ傷の方が深かった。

「ちょっと、大丈夫?」

 血が流れるナツの手を見て、アキがハンカチーフでナツの手のひらを縛った。

 ――メリケンはちょっとの傷でも大袈裟だな。

 ナツの脳裏に、幼いハルの気取っていてかつ強がっていた物言いが蘇った。

「初めての時も、俺は自分の手を切ったな」

 親のナイフを勝手に持ち出し、初めてお互いの身長をこの桜に刻んだ日。ナツは手を滑らせて自分の指を切った。その指を反射的に自分の口に入れたアキ。それを見たハルの言葉だ。

 アキもやはりその時のことを思い出していた。

「あの時から、ハルだけは違うんだって思い始めたのかも」

 同じように育っても、流れる血が違う。肌の色が違う。守るべき国も違う。

「どうした、メリケン。指でも落としたか?」

 その声に、ナツとアキが目を輝かせて振り向いた。

「ハル!」

 二人の声が重なる。ナツは今切ったばかりの傷のことをもう忘れ、思わずハルの手を取った後で痛みに顔をゆがめた。

「アウチ!」

「相変わらず情けないな、ナツは」

 そう笑うハルの軍服の胸には、いくつもの勲章が下げられている。

「支那、か?」

 ナツが生唾を飲みながら、その勲章を指さして訊いた。

「ん? さあな。忘れた」

 ハルはそう言って笑った。

 五年ぶりに会うハル。その笑顔は昔と同じようで、変わったとナツは感じた。

 昔と変わらぬ笑顔を、昔と変わらぬようにと意識して作っている。昔のハルは、そんな器用なことはできなかった。もっと愚直なほどに真っすぐぶつかってきていた。

 これが大人になったということだろうかと、胸の中に風を通すナツもまた、あの頃の笑顔を作っている。

「帰るのだろう?」

 ハルは、ナツとアキの二人に向かって訊いた。

「ああ」

「ええ」

 二人が短く答えると、沈黙が長く続いた。その沈黙を先に塗りつぶしたのはハルだった。

「早く帰れよ。俺に殺させるな」

 ハルの真剣な眼差しに、アキは目を見開き、ナツは目を細めた。

「そういう話になっているのか? アメリカと」

「どうだろうな。だが、フェンシングでは分が悪かったが、射撃では負けたことはないことを忘れるな」

 ハルはそう言って笑いを残すと、ナツの後ろの桜の木を見た。

「D.C.にも桜があるのだろう?」

「ある。だが、あそこの桜に傷は刻めない」

「そうか。そこに帰るのか?」

「いや、パールハーバーに」

 風が桜の葉を鳴らす。低く厚い雲を運び去る。まばゆい日差しが森に射す。夏が始まろうとしていた。一九三八年の夏が。


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春にさよなら 西野ゆう @ukizm

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