ユリアンとフランチェスカ
数日後、ユリアンとフランチェスカは懐かしい我が家に帰ってきた。
二人の愛馬シロッコとグレカーレに魔女の亡骸を乗せた小さな荷台を引かせてきたユリアンは、丘陵の緩やかな斜面を下り終えると、布に包まれた恋人の冷たい体を抱き上げて家の中へ運んだ。
「帰ってきたよ、フランチェスカ……」
家の中は王都へ出かけて行った時と少しも変りなかった。いつだって安らぎとぬくもりと、懐かしさに満たされている。
少年のユリアンにとってはこの場所がすべてだった。
記憶を完全に取り戻した今になっても、ここははるか昔にユリアンたちが夢見ていた家庭というものに最も近い場所なのだ。
純白のドレスを着たフランチェスカをベッドに横たえさせたユリアンは、彼女の髪や着衣を優しい手つきで整え、しばらくの間彼女を見つめていた。
王城の女たちが厚意から死に化粧を施してくれたため、フランチェスカの表情は苦しみもなくただ眠っているかのようだ。
むごい傷も処置され、目立つ部分は清潔な包帯で保護されている。
頬を零れ落ちた涙を手の甲で拭うと、淡い微笑みを浮かべたユリアンは眠る恋人に声をかけた。
「少し待っていてくれ、フランチェスカ。きみを……埋葬する準備をしてくるから」
冷たい頬をそっと指でなぞり、堪りかねたユリアンは目を逸らした。彼が視線を向けた先には花瓶が置かれており、そこには瑞々しい花々が挿してあった。
ユリアンの口元に寂しい笑みが浮かぶ。もう十年近くも前、ユリアンがフランチェスカに贈った花束だ。
本来なら数日で萎れてしまったはずの花々は、彼女の魔法によって今もあの日の姿を留めている。
ユリアンは衝動的な思い付きで花瓶から花束を抜き取り、軽く水を切ってからフランチェスカの胸元に乗せた。
彼女はいつもこの花束を眺めては愛おしげに目を細めて微笑んでいた。
どこにでも咲いている他愛ない花を集めたものに過ぎないのに、まるで至上の宝物のように彼女は大切にしてくれていた。
「きみは昔からきらびやかな宝石などより素朴な花々のほうが好きだったな」
恋人のくちびるにキスを落としたユリアンは涙に潤んだ瞳で彼女の顔を見つめてから、静かに背を向けた。
これ以上涙が零れ落ちないよう上を見あげ、ユリアンは大きく深呼吸する。
いつまでもこうしているわけには行かない。早く弔ってやらなくては。
心を決めたユリアンは重い足取りで部屋を出て行こうとした。
ところが不意に背後から気配を感じた気がして、扉に手をかけたところではハッと立ち止まった。
振り返ったユリアンが見たものは、白く淡い光に包まれた花束だった。
覚束ない足取りでベッドに近寄ったユリアンは、フランチェスカの体の上で光を放つ花束をまじまじと見つめた。
「これは……」
不意に十年近く前の記憶が蘇る。
ユリアンから受け取った花束に自らの光を注ぎ込んでいたフランチェスカ。
あの時、彼女は何と言ったか。
「魔力を、いや命を分け与えた……」
ユリアンが見守る前で、花束を包んでいた白い光がゆっくりとフランチェスカの亡骸に流れ込み始める。
過去のあの日を逆転させたかのような光景に、ユリアンは麻痺したように立ち尽くしていた。
少しずつフランチェスカの体が白い光を帯び始め、反対に花束を包み込んでいた光が弱まっていく。
やがて完全に花束から光が失せると、それまで瑞々しさを保っていた花びらや茎が見る見るうちに萎れて茶色く枯れてしまった。
「フランチェスカ……?」
フランチェスカを包む光は淡く明滅を繰り返しながら、徐々に彼女の体内に集束し、しばらくすると見えなくなった。
ユリアンは目の前の光景が信じられず、しばらく立ち尽くしていた。
それまで土気色をしていたフランチェスカの肌が生気を取り戻したように見えるだけでなく、ドレスや包帯で隠れていない場所にあった細かな傷がすべて癒えている。
もしやと思い、フランチェスカの腕に巻いてあった包帯を解く。本来ならそこにはワイバーンの鋭い牙で抉られた傷があるはずだ。
しかし当て布の下から現れたのは傷ひとつない綺麗な肌で、何度も触れて確かめるユリアンの震える指先に滑らかな感触と、ほのかな温もりを伝えてきた。
「まさか!」
息を呑んだユリアンが恋人の胸元に耳を押し付けると、つい先ほどまで確かに止まっていた心臓が鼓動する音が聞こえてきた。
「……ユ、リアン?」
弱々しいしゃがれ声が頭上から聞こえ、ユリアンは弾かれたように顔を上げた。
固く閉じられたフランチェスカのまぶたがけいれんを伴って持ち上げられ、確かな生気の宿るすみれ色の瞳がすぐ間近にあるユリアンの顔を見つけて、柔らかく微笑んだ。
「泣い、てるの?」
「笑ってるんだよ」
震えるくちびるで笑みを象るユリアンの頬を、止め処なく涙の粒がこぼれ落ちる。
フランチェスカが小さく息を吐くように笑い、片手を持ち上げて彼の頬に触れようとした。だが、力が入らないのかベッドからほとんど持ち上がらない。
それを見て取ったユリアンは恋人の手を取り、自分の頬にいざなった。
「泣き虫さん、ね」
「そうだね」
「あなたの頬っぺた、温かいわ……」
ユリアンの体温を確かめるよう手のひらを動かし、フランチェスカが幸せそうな息を漏らす。ユリアンは彼女の手のひらにくちびるを押し当ててから、両手でしっかりと包み込んだ。
「わたし、生き返ったの? でも、どうして……?」
「奇跡が起きたんだよ」
ユリアンが目線でフランチェスカの胸元を示す。体の上に乗った枯れた花束を見つけたフランチェスカは、目を大きく見開いて驚きを露わにした。
「これ、あなたの贈ってくれた……」
「そうだよ。そして、きみから注ぎ込まれた命によって、今日まで枯れずにいた」
幼いユリアンとの思い出に胸を衝かれたように息を吸い込み、フランチェスカはゆっくりとまぶたを閉じた。すると、押し出された涙がこめかみを伝って流れていく。
「わたし、生きているのね」
感極まり声を震わせてフランチェスカが呟く。
「ああ」
「あなたとも再会できた」
「そうだよ。ぼくはすべてを思い出した。きみの元へ帰ってきたんだ」
再びまぶたを持ち上げたフランチェスカは、涙の膜に覆われきらきらと輝くすみれ色の瞳で熱っぽく恋人を見つめた。
「ああ、ユリアン。わたしたちにかけられた呪いが解ける日をどんなに夢見たことかしら」
「ぼくもだよ、フランチェスカ。ぼくもだ。たとえすべてを忘れてしまっていたとしても、魂の奥底ではきみのことを忘れたことなんてなかった」
「もう二度とわたしを離さないで」
恋人の言葉に応え、ユリアンは彼女の体を情熱的に抱きしめた。
「もちろんだ。絶対に離さない。誰にも引き裂かせはしない」
フランチェスカも力の入らない腕を必死になって動かし、ユリアンの体に回した。
遠い記憶にある恋人と比べると、今のユリアンの体はまだ華奢といっていい。
だがそれでも、フランチェスカにとって彼のぬくもりがこの上なく頼もしく、愛おしかった。
二人は時間を忘れたかのように抱きしめ合っていたが、やがてどちらともなく体を離し、見つめ合ったまま微笑みを浮かべた。
こうして互いの瞳を飽きることなく覗き込み続けて夜が明けるまで過ごすこともできそうだったが、その前にユリアンは彼女の伝えるべき言葉があったことを思い出し、彼女の手を取ったままベッド脇に跪いた。
不思議そうな顔をしたフランチェスカが体を起こす。
ユリアンは生真面目な眼差しで恋人を見上げ、うやうやしい口調で告げた。
「わたしを夫としてくださいますか、フランチェスカ」
目を丸くして息を呑んだフランチェスカは、しかしすぐにくすくすと笑い始めた。
およそ四世紀越しとなる一世一代の求婚を笑われ、ユリアンは顔を赤くして口をへの字にした。
そうするといかにも年相応の少年っぽく見え、フランチェスカの笑いの発作はますますひどくなった。
しばらくしてようやく笑いをおさめたフランチェスカは、すっかりむくれてしまった恋人の手を優しくさすりながら謝罪した。
「笑うつもりではなかったのよ、ユリアン。でも不意を突かれてしまったものだから。ごめんなさいね」
「確かに今のぼくの見てくれが多少頼りないのは認める」
今のユリアンはまだ十六歳の誕生日も迎えていない少年だ。体つきは貧弱ではないにせよ、かつて騎士としてフランチェスカと出会った頃とは比べるべくもない。
「まあ、そんな風に言わないで。今のあなたも素敵よ」
「指輪がないのもぼくの落ち度だ。一度用意したものは四百年前になくしてしまったし、今回は用意する時間がなかったんだ」
「わたしがそういうことにこだわる女じゃないことは知っているでしょう?」
恨めしげに恋人を見やったユリアンは、途方に暮れた口調で彼女に訴えた。
「どうして『はい』と言ってくれないんだ?」
愛おしげに目を細めたフランチェスカは、小首を傾げて彼に訊ね返した。
「分かり切っている答えをどうしても聞きたいというの、ユリアン?」
「どうしても聞きたい」
まるで駄々っ子のようなユリアンの口ぶりに、フランチェスカは心から楽しげに笑うと彼をからかった。
「だけどユリアン、若々しいあなたとは違って、今のわたしは四百歳のおばあちゃんなのよ。それでもいいの?」
「四百歳だろうと四千歳だろうと、きみがきみであるなら構わない」
「まあ、勇敢だこと」
「騎士だからな」
やけくそ気味に胸を張ったユリアンを見て、フランチェスカは芝居がかったしかめ面を作ってみせた。
「それに実際、きみは二十四歳にしか見えない」
「あなたは十五歳ね」
「もうじき十六歳だよ」
それがひどく重要なことであるかのようにユリアンは訂正した。
ひとしきりやり取りを楽しんだフランチェスカは、目を潤ませて彼に要求した。
「ではもう一度仕切り直してくださるかしら、勇敢なる騎士様」
「いいとも」
咳払いをしたユリアンは生真面目な顔を作り直し、切々と彼女に哀願した。
「どうかわたしを夫としてください、フランチェスカ」
「はい、ユリアン。喜んで」
今度こそ求婚を受け入れてもらい、ユリアンは満面の笑みを浮かべて恋人から妻となった女性を抱きしめた。
ただ勢い余りすぎたせいでフランチェスカが彼の体重を支え切れず、二人は笑い声のような悲鳴を上げて、一緒に仲良くベッドに倒れ込んだ。
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