フランチェスカ
その時何が起きたのか、ユリアンにはすぐに理解できなかった。
ワイバーンの口が閉じられて噛みつかれると思った瞬間、だしぬけに突き飛ばされ難を逃れたのだ。
訳も分からず地面を転がったユリアンが態勢を立て直そうと顔を上げると、動きを止めたワイバーンの閉じた口に一人の女性が挟み込まれていた。
何本もの鋭い牙に体を貫かれ、傷口から流れ出した血がワイバーンの顎を伝って地面に血だまりを作っている。
女性が誰なのか、ユリアンが見間違うはずなかった。彼女はユリアンにとって世界のすべてに等しい存在だったからだ。
瞬間、ユリアンの中で何かが壊れた。
心の奥底にあった頑なで触れることのできない何かが、ほとんど暴発するようにして彼の心ごと弾け散った。
溢れ出る感情の赴くまま、ユリアンは一つの名前を叫んでいた。
「フランチェスカ!」
転移魔法によって間一髪のところで自分たちの命を救った魔女の血まみれの体に駆け寄り、両腕で抱きかかえる。
魔女のまぶたが震え、閉じられていた目が開かれる。
彼女のすみれ色の瞳から透明な涙が湧き出し、血に汚れた頬を伝った。
「ユリアン……?」
「フランチェスカ、ああ何てことだ! 大丈夫、すぐに助けてやる」
ユリアンの目からもとめどなく涙が溢れている。
魔女はユリアンが自分の名を呼ぶ声を聞き、血の気を失った頬にかすかな微笑みを浮かべた。
「ああ、ユリアン。嬉しいわ。ようやく会えた。ようやく……」
魔女はこれまで一度もユリアンに自分の名を明かしてこなかった。今のユリアンだけでなく、呪いを受けてから出会ってきたすべてのユリアンに対してだ。
おまじないとも言えない、ささやかな仕掛け。
彼女の愛する男性は過去のすべての記憶を失っている。その呪いは魔女が長い時をかけても解く方法を見つけられなかったほど強固なものだ。
だが、もしもいつか奇跡が起こるとしたら。
奇跡が起きてユリアンが記憶を取り戻したとしたら、その時こそ彼は魔女の名前を呼んでくれるはず。
あの頃と同じように、愛する女性の名前を。
「長かったわ、ユリアン。とても、長かった。この時をどんなに待ち焦がれたことか……」
「もういい。しゃべるな、フランチェスカ」
純白のドレスを鮮血で真っ赤に染める魔女を見下ろし、ユリアン自身が彼女の痛みを引き受けたかのように表情を歪めた。
「ユリアン……もっとわたしを抱きしめて。わたしを離さないで」
「ああ、分かってる。フランチェスカ。ごめんよ。これまでずっときみは傷ついてきたんだな」
血と涙に濡れた魔女の頬をユリアンが何度も撫でた。
心地よさそうに目を閉じた魔女は、何度かユリアンに呼び掛けられてからもう一度まぶたを持ち上げた。だが、たったそれだけの動作ですら今の彼女には大変な労力を要するようだった。
「ユリアン?」
居場所を確かめるように魔女が恋人へ呼びかける。
「ここにいるよ、フランチェスカ」
「愛してるわ」
ため息のように吐き出された魔女の声は、ほとんど聞き取れないほどかすかだった。
「ああ、ぼくもだよ。フランチェスカ。ぼくも愛してる」
魔女の耳元でユリアンも応える。
彼女の口元が幸せそうに微笑み、震える指先がユリアンの目元に一瞬だけ触れた。
「わたしのユリアン……」
すみれ色の瞳から光が失われていき、弛緩したように瞳孔が広がっていく。
力を振り絞って伸ばした手がだらりと下がり、最後に長く弱々しい息をくちびるの隙間から吐き出すと、そのまま魔女は事切れた。
限界まで目を見開いて魔女の死に顔を見つめ、ユリアンは引き裂かれるような慟哭を漏らした。自らの体が血で汚れるのも構わず、恋人の体をきつく抱きしめる。
かける言葉もなくジーノがその様子を見守っていた。彼もユリアンと同じく魔女に突き飛ばされて命を救われたのだ。
ワイバーンは憎い宿敵を倒した満足感からか、目の前のやり取りを大人しく観察していた。
トカゲじみた瞳にはどこか悲嘆にくれるユリアンの姿を楽しんでいるような色彩がある。
やがて魔女の体を丁寧に地面に横たえたユリアンは、幼馴染の友達に向かって底冷えのするような声で呼びかけた。
「ジーノ。フランチェスカの体を安全な場所に運んでくれるか」
「あ、ああ」
自分がよく知るユリアンとは異なる口調にびくりと肩を揺らしつつ、すぐに駆け寄ったジーノは魔女の亡骸を抱きかかえた。
「お前、大丈夫なのか?」
ジーノの問いかけには答えず、ユリアンはまっすぐに立ち上がった。
「剣を貸してくれ」
両手の塞がったジーノの腰に手を伸ばし、ユリアンは鞘から剣を抜き取った。
「お前……」
「早く行け。ぼくなら大丈夫だ」
そう言ったきりジーノに背を向けたユリアンは、ワイバーンと一定の距離を保ったまま側面に回り込むように歩き出した。
ワイバーンも新たな敵を警戒して頭を低くし、喉の奥で低いうなり声を響かせる。
動きながらユリアンは魔女を抱きかかえたジーノが充分に離れるのを確認していた。そして、彼が外へと通じる城壁塔の一つに入ったのを見届けると、いきなり攻撃を開始した。
猛然と走り出したユリアンは途中で騎士が落としていたラウンドシールドを拾い上げて体の前面に構えた。そこへすかさずワイバーンの炎が襲い掛かる。
熱気にあぶられつつも、魔女がかけた炎を防御する魔法と分厚いラウンドシールドのおかげでユリアンの脚は止まらない。
火炎放射が途切れるのを待って半分溶けた盾を捨てたユリアンは、フェイントをかけて相手の体の脇を通り抜けると共に鉤爪の生えた脚に痛烈な斬撃を見舞った。
脚の肉をごっそりとえぐられてワイバーンが苦痛の悲鳴を上げた。急いで方向転換しようとするワイバーンだったが、大きな翼や長い尾が災いして地上では機敏な動きが取れない。
その隙を突く形で背後に回り込んだユリアンは、一息で亜竜の背中に駆け上がるとうろこの隙間を突き通すようにして剣を突き立てた。
えぐり込むように剣を押さえるユリアンを振り落とそうとワイバーンがでたらめに暴れた。そのあまりの激しさにさしものユリアンも空中に放り出される。
しかし、彼は上手く受け身を取って地面を転がると、すかさず立ち上がってその場を離れつつ落ちている剣と槍を回収した。
後ろから迫ってくるワイバーンの鼻面目掛けて槍を投擲して牽制しつつ、修理したバリスタを囲む騎士たちに大声で呼ばわる。
「太矢に鎖を結び付けろ!」
「何者だ、貴様!」
事情を知らない騎士から誰何の声が上がるが、ユリアンはそれを無視してジーノの主にもう一度命令した。
「騎士ジャコモ! 鎖でもロープでもいいから繋いだ矢を隙を見て放つんだ! 当てる必要はない!」
魔女と一緒に暮らしていたユリアンという農夫の少年がなぜここにいて、なぜ騎士である自分に命令するのか。ジャコモには一切理解できなかったが、ユリアンの命令が意図するところだけは理解できた。
ようするに魔女がやろうとしていたことと同じなのだ。ならば拒否する理由はない。
戦場を休むことなく駆け回りながら、ユリアンは次々と槍や剣をワイバーンに突き立てていった。
一撃一撃は決して大きなダメージではないが、魔女や騎士たちに散々痛めつけられてきたところへ更にそれらが積み重なってさしものワイバーンも動きが鈍くなってくる。
獣は苛立ったように翼を広げ、一気に飛び上がった。
上空で身を翻し、翼を折りたたんだワイバーンは無数に突き立てられた槍の意趣返しをするかのように、一直線にユリアン目掛けて急降下した。
だが、ユリアンはワイバーンが上空へ飛びあがるや否や、城壁のほうへ全速力で駆け寄ると壁面の凹凸を足掛かりにして垂直に駆け上がり、城壁上部の歩廊から垂れ下がる戦旗に掴みかかった。
唖然とする騎士たちが見守る中、戦旗にしがみついて腕の力だけで城壁を上までよじ登ったユリアンは、槍のように体を細く伸ばして突っ込んでくるワイバーンを迎え撃つべく、剣を片手に歩廊から躊躇なく飛び降りた。
時が止まったかのような一瞬の浮遊感の後、槍のように突貫してきたワイバーンの体とユリアンが空中で交錯した。
横っ面にしがみついてきた敵を振り落とそうとワイバーンが翼を広げて闇雲に体を回転させる。
錐もみ状態で失速したワイバーンとユリアンは真っ逆さまに中庭に落下した。
亜竜もろとも地面に激突する寸前で相手の片目に剣をねじ込んだユリアンは、とっさに飛びのいて墜落の巻き添えになることを逃れ、地面を転がった。
おびただしい土埃を巻き上げてワイバーンの巨体が地面に激突した絶好機をジャコモたち騎士は逃さなかった。後ろに頑丈な鎖やロープを結び付けた矢を次々と射かけていく。
矢はほとんどワイバーンに命中することなく、その巨体を飛び越えて地面に突き刺さった。
だが、それこそがユリアンたちの狙いなのだ。
いまや無数の鎖やロープがワイバーンの体に被さり、絡みついていた。もちろん、鎖やロープのもう一方の端は頑丈な城壁の構造物にしっかりと結び付けられている。
飛行能力がある竜種と戦うに当たって肝要なのは、まず相手を地上に引き摺り下ろすこと。飛行能力を奪い、動きを制限し、しかる後に囲み殺す。
魔女がワイバーンの拘束に失敗したのは、相手の体力を充分に削れていなかったからだ。
そして今、ユリアンの怒涛の攻撃のためにワイバーンは自らに絡みつく鎖やロープを振りほどけぬほどに弱り始めていた。
ついに好機が訪れたのである。
「ユリアン!」
剣を振り上げて鷲鼻の騎士が叫んだ。
それに応えてユリアンもまた剣を振り上げる。
「騎士ジャコモ!」
二人に呼応するように騎士たちが一斉に鬨の声を上げる。
すでに矢を打ち尽くしてしまったバリスタを捨て、すべての騎士たちが雄たけびと共に武器を手に突撃した。
ユリアンもまた突撃に加わり、拘束されてもがく亜竜がこちらに狙いを定めて口を大きく広げたところに投げ槍をお見舞いした。
不意に口内に槍を突き込まれたせいで喉元までせり上がっていた炎がワイバーンの口の中で暴発した。たくさんの牙が吹き飛び、口から煙と血を吐き出す。そこへ騎士たちが殺到した。
片目となったワイバーンがさらに容赦ない攻撃を受けてこれまでとは打って変わった哀れな鳴き声を上げた。
だが、攻撃の手を休める者はいない。
ある者はワイバーンの翼を引き裂き、ある者は腹に何度も槍を突き立て、またある者は蛇のような尻尾を斧で断ち切ることに熱中していた。
片目を潰され、他にも無数の傷を負ったワイバーンも死に物狂いで抵抗した。瞬く間に不運な騎士たちが鎧ごと体を叩きつけられ、潰され、噛み砕かれていく。
血とうめき声と咆哮が入り混じる戦場で、人も獣も狂気に浮かされたように死闘を演じた。
そしてついに敵の隙をついたユリアンの剣が、相手の喉を深く貫き通した。
血と燃料液が傷口から漏れ出し、ユリアンに浴びせかけられた。
肌が焼けただれ煙を上げるのも構わず、さらに力を込めて剣をねじ込むと、ごぼごぼというくぐもった音と共に大量の血を吐き出した獣が力を失って地面に倒れ込んだ。
唐突な戦いの終わりに騎士たちは皆静まり返っていた。大怪我を負った者でさえ、痛みにうめくのも忘れて倒れ伏したワイバーンの巨体を見つめている。
やがて浅い呼吸を繰り返していたワイバーンが静かになり、自らの炎で焼けただれた口の隙間からしぶいていた赤黒い血の勢いも弱まった。
「倒した……のか?」
騎士の一人が恐る恐るという風に呟く。
痛烈な尾撃で吹き飛ばされて地面に転がっていたジャコモが応えた。
「おそらく……ユリアンはどうなった?」
攻撃を受けた際に脚を折られたために立ち上がれないジャコモは、それでもワイバーンの死骸へ近づこうと腕の力で這いずっていく。
「カッジャーノ卿が言っているのはあの謎の少年のことか? どうやら竜の下敷きになったようだが」
「すぐに助け出せ! とどめを刺したのは彼なんだぞ」
実際問題、ユリアンがいなければこの場にいる全員生き残ることはできなかっただろう。
この目で見てさえいまだに信じがたいが、少年の戦いはまさに伝説に語られる竜殺しの英雄のようだった。
騎士たちが苦労してワイバーンの体を持ち上げようとしていると、わずかに空いた隙間からユリアンが自力で這い出してきた。
腕にひどいやけどを負ってはいるが、それ以外には目立った怪我はない。
畏怖に衝かれたような表情でユリアンを取り囲んだ騎士たちは、少年が視線を向けると自然と敬意を表して頭を垂れた。
ユリアンもまた控えめな態度で彼らに応じ、怪我を負って動けない者たちにも一人一人視線を送って頷いてみせたが、それが終わると後はもう騎士たちにも自ら倒したワイバーンにも見向きもせず、一直線に外へ繋がる城壁塔へと歩みを進めた。
塔の中で待っていたのはジーノと魔女の亡骸だった。
床に敷かれた白い敷物の上に横たわる魔女の傍らで膝をついたユリアンは、そのまま血まみれの彼女の体に縋り付き、友達に見守られながら肩を震わせてすすり泣き始めた。
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