遠方からの客人


 客人が現れたのは、ユリアンが十五歳の誕生日を迎える少し前のことだった。といっても彼は捨て子なので誕生日が本当に正確なものなのかを知らない。ただ魔女がそうだと言うのを信じているだけだ。


 訪問をいち早く察知したのは魔女だった。朝食を食べている最中、いきなり遠くを見るような眼差しになると、かすかに眉をひそめてユリアンに言ったのだ。


「ユリアン、早く食べてしまいなさい。食べ終わったら家畜小屋の掃除をしてちょうだい。お皿を片付けていくのを忘れないでね」


「掃除ってぼく一人で?」


 不服そうなユリアンに向かって、魔女はそっけなく答えた。


「そうよ。掃除するのは家畜たちを外の囲いに集めてからお願いね」


 少年はまだ納得していなかったが、一度魔女がこうと決めたらそれを覆すのは不可能に近いと知っていたので、ぐっと不平を飲み込んだ。

 せめてもの抗議としてミルク粥をことさらゆっくり口に運んでいるユリアンの、年頃の少年らしい反抗的な態度を横目で見やり、魔女は小さくため息をついた。


「もうすぐ客人が来るのよ。だから早く食事を終わらせてほしいの」


「客人? そんな予定があったの?」


「予定はなかったわ。でも、すでに相手は丘陵の柵を越えてこちらに向かっている」


「何でそんなことが――」


 分かるのか、と言いかけてユリアンはハッと口を噤んだ。魔法を使っていることに気づいたのだ。


「どんなお客?」


「さあ。でも相手は魔法使いのようね」


 その言葉を聞いてユリアンが驚く。これまでに魔女以外の魔法使いには会ったことがないし、その存在を聞いたこともなかったからだ。


「どうせ目的はわたしでしょうし、魔法使い同士のやり取りをあなたが知る必要はないわ。だから席を外していてほしいの」


「でも危ない奴だったら」


 危惧するユリアンの言葉に、魔女は意表を突かれたように目を丸くした後、こらえきれないといった風に肩を揺らして笑い出した。

 魔女のためを思って言っているのに笑われたユリアンは気を悪くして唇を尖らせる。


「そんなにおかしなことを言った覚えはないけどね」


 しょせんユリアンは魔法も使えないただの子どもに過ぎず、今はまだ頼りないかもしれないが、それでも魔女を守るのが自らの役目だと考えている彼にしてみれば、自分をのけ者にしようとする彼女の態度が気に入らない。

 しかし、ようやく笑いをおさめた魔女は自分の意思を変えようとはしなかった。


「気持ちだけ受け取っておくわ、わたしのユリアン。さ、早くお食べなさい」


 これで議論は終わりだと態度で示す魔女をユリアンは睨みつけたが、それ以上言い返そうとせず朝食を一気に口中に掻き込み、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。

 荒っぽく足音を立てて外へ出ていくユリアンの背中へ魔女は視線も向けなかったが、彼が間違いなく家畜小屋の方向へ向かったことを魔法で確認すると、また小さくため息を吐き出した。


 魔女の指示通りに家畜たちを外の囲いへ誘導していたユリアンは、馬に乗って丘陵の斜面を降りてくる人影に気づいた。その人物は家の近くまで来ると馬を降り、作業の手を止めたユリアンに軽く会釈して呼びかけた。


「ごきげんよう、お若い方。そこの木にわしの馬を繋いでも構わんかね?」


 客人は年老いた男性だった。雪のように真っ白な髪とあごひげ。顔はジーノが暮らす村の長老と同じくらいしわくちゃだが、背筋は若者のようにまっすぐだ。

 よれよれの灰色のローブと痛んだ革のブーツ。手にはその辺りで適当に拾った枝のようにも見える木製の杖が握られている。


「ええ、こんにちは。馬はご自由にどうぞ。魔女に御用ですか」


「いかにも。御在宅かね?」


「中にいますよ。ドアをノックする前にブーツの泥を落としておくことをお勧めします。彼女はそういうことにすごくうるさいので」


 ユリアンの言葉を聞いた客人は楽しげに笑って言った。


「女性とはそんなものだよ、お若い方。しかしご忠告には従うとしようか」


 肩を竦めたユリアンは客人に軽く頭を下げると、家畜小屋の掃除に戻った。

 客人は少しの間彼の姿を目で追うと、悲しげな顔でかぶりを振ると玄関に向かって歩き出した。


 




 家に招き入れられた客人は、魔女に対して恭しく頭を下げた。


「お初にお目にかかります、レディ・フランチェスカ」


 腕を組んで相手に非友好的な目を向けていた魔女は、彼が口にした名を聞いて片眉を吊り上げた。


「自己紹介したつもりはないのだけどね。どこでその名を聞いたのかしら」


「あなた様のことは我が師から聞いております。わたしはバレーヌの魔法使いオーギュスタン。我が師サロモンを憶えておいででしょうか」


 オーギュスタンの言葉に魔女はやや驚いたようだった。


「バレーヌのサロモンがあなたの師ですって? もちろんよく憶えているわ。わたしは一時期バレーヌの近くに居を構えていたことがあるの」


「存じております」


 小さくため息を吐いた魔女は、組んでいた腕をほどいてオーギュスタンに着席を促した。


「お茶で構わなくて?」


「ええ。恐れ入ります。レディ・フランチェスカ」


「わたしを呼ぶならただ『レディ』と」


「承知しました、レディ」


 茶を淹れてオーギュスタンとともにテーブルに着いた魔女は、懐かしげな眼差しで彼に訊ねた。


「サロモンは息災かしら」


「何十年も前に亡くなりましたよ」


 一瞬悲しげな表情を浮かべた魔女はオーギュスタンに詫びた。


「ごめんなさい。つい忘れてしまうのよ。普通の人間ならそれが当然ね」


「いかに魔法使いといえど、そこまで長生きできる者はおらんでしょうな。むろんあなたを除いては、ですが」


 オーギュスタンの指摘を受けた魔女の眼差しが凍り付いたように硬くなる。


「……サロモンは可愛い男の子だったわ。口が達者で性格は軽い子だったけど、素晴らしい才能の持ち主でね。サロモンの師匠グウェナエルは弟子をとても誇りにしていた。……もう百年くらい前の話かしらね」


「不死の魔女フランチェスカ。あなたのお姿は師が憧憬と共に語られた当時と寸分違わぬものです。百年前から一日たりとも年老いておられない。こうしてお目にかかるまでは我が師の言葉がすべて本当だとは信じてはおりませんでした」


 畏怖のこもった声でオーギュスタンが呟く。だが、それを聞き咎めた魔女はぎろりと相手を睨みつけ、硬い声で告げた。


「その呼び方はやめてちょうだい。それにさっきも言ったはずよ。フランチェスカという名も口にしないで」


「これは失礼」


「そろそろ本題に入りましょうか、オーギュスタン。わざわざバレーヌからこんな遠くまで何をしに来たの」


 オーギュスタンが居住まいを正す。


「サマンサという名の占星術師から指示を受けたのです。レディを探し出し、伝言を伝えるようにと」


「知らない名ね。サロモンの弟子がたかが占星術師の指示に従ったというの?」


 疑わしそうに魔女が顔をしかめる。


「わたし自身不可解ではあるのですが、なぜか逆らおうという気がまるで起きなかったのですよ。気が付いたらわたしはいそいそと旅支度を整え、老骨に鞭打ってまで故郷の土地を離れておりました」


「ふぅん。どうやらそのサマンサとやらの腕は確かなようね」


「ほう。占星術にはお詳しいので?」


「さほど詳しくはないし、そもそもわたしは占星術をあまり信用してないの。でも、サマンサとやらの言葉にはあなたに行動を強制するだけの力がある。そのことだけを取っても、その占星術師が優れた能力の持ち主があることが分かるわ」


「『言葉には力がある』……師サロモンがよく言っていましたな」


 魔女が肩を竦めた。


「そういえばサロモンにも教えた覚えがあるわね。あの子の言葉は軽すぎるきらいがあったから、慎重に扱うようにと。それで、サマンサとやらの伝言を聞きましょうか」


「わたしが受け取った伝言はこうです。『有翼の蛇に気をつけよ。蛇の牙に身をさらすことを恐れてはならぬ。其はそなたからすべてを奪い、また与えるであろう』」


 面白くなさそうに魔女は眉をひそめる。


「典型的な占星術師のたわ言ね。だけど気に入らないわ。有翼の蛇というのは竜のことでしょう。でも今時、知恵ある竜に巡り合うのは至難の業よ。何せほとんど死に絶えてしまったもの。亜竜ならばこの辺りにもまだ多少は生き残っているかもしれないけれど、連中にしたってめったなことでは人里に降りてはこないわ」


「しかし占星術師は気をつけよと告げました。ということは理屈はどうあれ現れるのでしょうな」


「……ますます気に入らないわね。本当に竜が出てきたら手に負えないわ。話が通じる竜にはいまだかつてお目にかかったことがないのよ。その点ではまだしも亜竜のほうがましだけれど」


「亜竜といえども人間にとって恐るべき相手には違いありません。あるいはあなたは違うのかもしれませんが。……伝言はこれだけです。正直に申し上げて、信用のおける占いとは思えないのですが。ともあれわたしの役目はこれで果たしましたな」


「そのようね、オーギュスタン。占星術師の伝言はおくとしても、懐かしいサロモンの弟子に会えてよかったわ。大したもてなしもできないけれど」


「わたしもレディにお会いできて光栄です。師サロモンはあなたを崇拝しておりましたでな。古き魔女の最後の生き残りにしてベンダンディの森の魔女、フランチェスカ・バッランティーニ」


「おしゃべりサロモンはありとあらゆることをあなたに吹き込んだようね。困った子だこと」


 呆れたような魔女の口ぶりに、オーギュスタンは微笑んでみせた。


「呪いのことも聞き及んでおります」


「でしょうね」


 そっけなく返す魔女へオーギュスタンは鋭い視線を送った。


「やはり解けませぬか。表で作業をしていた少年。彼は何人目のユリアンなのです?」


「……」


 魔女は答えない。オーギュスタンは構わず言葉を続けた。


「四百年前あなたとユリアン殿にかけられた大司教ニコラウスの呪い。師サロモンも色々調べていたようですが、結局大したことは分からなかったようです」


 びくりと肩を揺らした魔女が、オーギュスタンを凍えるような視線で射抜いた。


「つくづく事情に詳しいようね、坊や。だけどあまりに調子に乗らないほうがいいわよ。教会の汚れた大司教に負けず劣らず、古き魔女も呪いには詳しいのだから」


「……これは申し訳ない。確かに不躾に過ぎましたな」


 恐縮した様子でオーギュスタンは頭を下げた。

 魔女が激情をこらえるように目を閉じる。そして大きく息を吐き出してかぶりを振ると、オーギュスタンに謝罪した。


「わたしも言葉が過ぎたわ。でもこの話はしたくないのよ。分かってちょうだい」


「……しかし、今のままではあまりにも」


 オーギュスタンが痛ましげに顔を歪める。

 だが、魔女は諦観の面持ちで客人に告げた。


「お引き取り願うわ、バレーヌの魔法使いオーギュスタン。これはわたしとユリアンだけの問題よ」





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