ユリアン

 もう少し成長すると、ユリアンは魔女の手伝いをするようになった。

 大抵は退屈な雑用だったし、遊びよりお手伝いを優先させることに必ずしもユリアンが積極的だったわけではないが、何しろ彼はとても素直な子どもだったので、たとえ口では不平を漏らすことがあったとしても、最後にはきちんと魔女の言いつけに従った。

 魔女のほうでもそんなユリアンの心情はお見通しで、きちんと言いつけを守った後は遊びに飛び出していく彼の後ろ姿を微笑ましげに見送った。


 ユリアンの遊び場は家の周囲の野原と森だった。とはいえ、どちらも途方もなく広いのでここから先は行ってはいけないという境界が魔女によって設けられていた。

 野原の場合は羊たちと同じく柵で囲われた境界の内側。

 森の場合は、魔女の家の裏手から森に入ってすぐのところにある小さな泉までしかユリアンは進むことを許されていなかった。


 魔女が定めた境界から一歩でも先へ足を踏み入れると、不思議なことにたちどころに彼女に知られてしまうのだ。

 そして、言いつけを破ったユリアンに聞こえるように、必ず魔女による警告の声が投げかけられる。『戻りなさい、ユリアン』、『それ以上行っては駄目よ』という風に。


 もちろん常に魔女がユリアンのそばで見守っているわけではない。そんなことは不可能だからだ。

 しかし、彼女は魔女である。

 たとえ台所で料理をしている最中であろうと、庭先で洗濯物と格闘している最中であろうと、いつでも彼女はユリアンが境界を越えたか否かを察知することができ、その場を動くことなく彼の耳元に語り掛けることができるのだ。

 魔女がユリアンの前で魔法を使うことは滅多になかったが、こんな時ユリアンは自分を養ってくれている女性が本当に魔女なのだと実感するのだった。


 もっとも、ユリアンの友達はその話を聞かせてもあまり信じてはくれなかった。近隣の村に暮らす羊飼いの息子で、名はジーノといった。ユリアンより一つ年上で、ひょろりと背が高い。ユリアンにとってはほとんど唯一の友達だ。

 羊飼いの父親が昔から魔女と顔見知りだったこともあり、その魔女に養われているユリアンに対してもジーノは臆したり偏見を持ったりすることもなく接してくれる。

 一方で魔法そのものについては胡散臭い眉唾物としか考えておらず、魔女についても単純に隠遁生活を送る女性への蔑称か、せいぜい占い師の親方程度に捉えているらしかった。

 その点ではジーノとユリアンの間には溝があったが、そこを除けば二人は上手く付き合っていた。





 母親という概念をユリアンに教えたのは、実はジーノだ。

 というのも、ジーノは最初ユリアンが魔女の実の息子だと思っていたからだ。が、自らの養い親に『魔女』と呼びかけるユリアンに面食らって、彼に問いただしたのだった。

 そこで分かったのは、ユリアンが元は捨て子であり、彼自身物心ついた頃からそれを知っていること。そして魔女が養い子に自らの名前すら教えず、ただ『魔女』とだけ呼ばせていること。


 実のところ、魔女の名前を知らないのはユリアンだけではない。ジーノも知らないし、ジーノの父親も他の村人も誰一人知る者はいないのだ。理由までは分からないが、魔女があえて名前を秘密にしていることは想像に難くない。

 だが、ユリアンにまで秘密にするというのは異様という他なかった。ジーノの目から見ると、魔女とユリアンが実の母子のような深い愛情で結ばれていることは明白な事実だったからだ。


 そこでジーノは純粋に厚意から、友達のために魔女を『お母さん』と呼ぶよう助言した。

 拾われた身だからといって気兼ねすることなどない。ユリアンと魔女のような関係ではそう呼ぶのが当たり前のことなのだし、きっと心の奥底では向こうもそれを望んでいるに違いないから、と。


 友達の助言をユリアンは素直に受け取り、いくらかの照れと期待を込めて実行することにした。

 きっと魔女は驚いた表情を見せた後、喜んでぼくのことを抱き締めてくれるに違いない。

 いつもどおりの二人きりの夕食の後、空になったユリアンの食器を受け取りながら、彼がもじもじしているのに気付いた魔女が優しく訊ねた。


「どうしたの、ユリアン?」


 長い指に頬をくすぐられ、顔を上げたユリアンは意を決して口を開いた。


「あのね、今日もごはんおいしかったよ……、お、お母さん」


 ユリアンの言葉の前半を耳にし、魔女の表情に柔らかい微笑が浮かびかけた。

 が、後半の呼びかけを耳にした途端、彼女の表情は凍り付き、次いで恐怖と苦痛に打ちのめされたものに変化した。

 予想だにしなかった反応に、ユリアンはショックを受けると同時に戸惑いを覚えた。

 魔女を『お母さん』と呼ぶのはそんなにもいけないことだったのだろうか。


「わたしはあなたのお母さんではないわ」


 強張った表情のまま魔女が言い放った。

 その声はユリアンがこれまで聞いたことがないほど冷たく、硬い声だった。

 ユリアンの肩がびくりと揺れ、瞳に涙が盛り上がる。


「あ、あの、ぼくは……。変なこと言って、ごめんなさい」


 うなだれて謝るユリアンの丸みを帯びた頬を涙の粒がぽろぽろこぼれ落ちた。

 その様を見て魔女はハッと我に返り、しまったと後悔するように眉をひそめた。


「謝らなくてもいいのよ。別にあなたは悪くないわ。わたしのほうこそきつい言い方をしてごめんなさいね。許してちょうだい、ユリアン」


 床に膝をついてユリアンと視線を合わせた魔女は、彼の頬に手を添えて顔を上げさせた。


「ぼ、ぼくのこと、怒ってない? 嫌いにならない?」


 しゃくり上げながら問う子どもに魔女は優しく微笑みかけ、涙に濡れた柔らかい頬を手のひらでごしごしと拭いてやった。


「もちろんよ。あなたのことを嫌いになんてなるわけないでしょ」


「本当に?」


「本当よ。確かにわたしはあなたのお母さんになることはできないわ。でも、わたしとあなたの間の絆は絶対になくなったりはしない。絶対にね」


 魔女は『絶対に』という言葉を繰り返し強調して言った。

 最初は大きなショックを受けたユリアンだったが、魔女の言葉を聞くうちに落ち着きを取り戻していった。彼女の言葉に嘘は感じられない。

 自分はお母さんではないと言った言葉には、魔女自身の何かどうにもならない怒りや悲しみが込められているのをユリアンは幼心にも感じ取っていたが、だからといって彼女がユリアンを突き放すというわけではないと知ってほっと安堵した。


「だけどユリアン、どうしてこんなことを思いついたの?」


 これまで魔女はユリアンに母親という存在についてほとんど話してこなかった。彼自身の境遇についても単に木のうろに捨てられて泣いているところを拾ったとしか説明していなかったし、両親がいて子どもがいるという世間一般の家族単位というものを彼が理解しているかどうかすら怪しい。

 だから今回のことはユリアン一人の思いつきのはずがないと魔女は疑った。


「ジーノが言ったんだ、こう呼ぶと魔女が喜んでくれるって。……ジーノは嘘をついたの?」


 ユリアンの言葉を聞き、魔女は苦笑ともため息ともつかないものを漏らした。

 ジーノのことはもちろん知っている。ユリアンより年長である分こまっしゃくれた側面はあるが、決して悪い子ではない。きっと彼は純粋にユリアンのためを思って助言したのだろう。


 が、今回の件に限ってはジーノの助言は完全に的外れで、決して受け入れることのできないものだった。

 魔女にとっても、そしてユリアンにとっても。


「いいえ、ユリアン。ジーノは別に嘘を言ったわけじゃないわ。だから彼を責めては駄目よ」


「うん。分かった」


 なぜジーノの助言を受け入れることができないのか、魔女は説明しようとはしなかった。

 ただユリアンを優しく抱き締めた彼女は、心からの感情を込めてささやいた。


「ああ、わたしのユリアン。愛してるわ」


「ぼくもだよ、魔女」


 魔女の首に腕を巻きつけたユリアンは、いつものように彼女に応えた。





 そんなことがあった後も、魔女は自分のことを単に『魔女』と呼ばせていたし、本当の名前を教えることもしなかった。

 だがそれでも、二人は実の母子以上に仲睦まじく暮らしていた。


 ある日、ユリアンが魔女のために花を摘んできたことがあった。

 野原や森に咲いている、何ということのない普通の花々だ。それでも少年の小さな手に握られた花束は、素朴ながら可憐に咲き誇っていた。

 誇らしげに差し出された突然の贈り物を受け取った魔女は、喜びに声を震わせた。


「まあユリアン」


「気に入ってくれた?」


 上目遣いに覗き込むユリアンの前で、魔女は花束に顔を寄せて香りを吸い込んだ。


「ええ、とても。素敵な花束をありがとう。綺麗だし、いい香りだわ」


 花束を右手で持った魔女は、左手でユリアンを抱き寄せて彼にキスをした。


「喜んでもらえてうれしいな。頑張って集めたんだ。カルロも手伝ってくれたんだよ。ぼくが持ってる花を食べようと寄ってくる羊たちを追い払ってくれたんだ」


 ユリアンの言葉に魔女は豊かな笑い声をあげた。


「それじゃカルロにもお礼をしないとね。キスがいいかしら?」


「キスよりもたぶん骨のついたお肉がいいんじゃないかな」


「あら、羊を追い払っただけのカルロへのお礼がそんなに豪華なら、あなたには何をお返しすればいいのかしら?」


 悪戯っぽく問いかけながら鼻先を摺り寄せてくる魔女に対し、ユリアンはくすくす笑った。


「ぼくは何もいらないよ。魔女に喜んでもらいたかっただけなんだ」


「まあ、何て優しい子なの」


 魔女は感極まったようにもう一度ユリアンの小さな体をぎゅっと抱きしめた。

 ユリアンはくすぐったそうにそれを受け入れていたが、ふと何かに気づいたように小さな声を上げた。


「あっ、でも……」


「なぁに?」


 優しく問いかける魔女。

 一方のユリアンは難しい顔で魔女の手の中にある花束を見つめていた。


「すぐに枯れちゃうよね、これ。せっかく魔女が喜んでくれたのに」


 いかにも残念そうなユリアンの柔らかい頬を軽くつまみ、魔女は安心させるように答えた。


「いいえ、この花束は決して枯れないわ」


「本当?」


 びっくりして目を丸くするユリアン。


「でも、どうやって」


「忘れたの、ユリアン? わたしは魔女なのよ」


「魔法を使うの?」


「わたしの魔力を、というより命そのものを分け与えるの。そうすればいつまでも瑞々しさを保つことができるわ。見ていて」


 魔女はユリアンに微笑みかけると、花束を胸に抱き、目を閉じて精神を集中させた。

 ユリアンが見ている前で魔女の体全体がぼんやりとした光に包まれる。

 彼女を包む光はやがて、両手を通してゆっくりと花束へと流れ込んでいった。


「わぁ……」


 一緒に暮らすユリアンも魔女が魔法を使う姿はめったに見たことがない。神秘的な光景にユリアンがぽかんと見とれている様子を、魔女は片目を開けて観察すると、唇の端を悪戯っぽく吊り上げた。


「こんなところかしら」


 魔女が力を抜くように息を吐くと、彼女を包んでいた光がゆっくりと消えていく。数拍遅れて花束のほうも光るのをやめた。


「これでいつまでもこの花束を手元に置いておけるわ」


「魔女ってすごいんだね」


 ユリアンの無邪気な賞賛に魔女は苦笑を浮かべた。


「いつもいつもこんなことはできないわ。今回だけは特別。ユリアンからの初めての贈り物だもの」


 魔女は幼いユリアンから過去に贈られた、何の変哲もない小石や木の枝、虫の抜け殻などの存在を綺麗に無視してのけた。が、ユリアンも今回の魔女の喜びように気をよくしていたので、特に異議は申し立てなかった。


「さて、それじゃ花瓶に活けてあげましょう。枯れることがないとはいえ、お水をあげたほうがお花も喜ぶわ」





 ユリアンにとって世界の中心は丘陵と森の狭間にある古ぼけた小屋であり、その主である魔女であった。

 孤独を感じたことはあまりない。いつだって魔女がそばにいるし、牧羊犬のカルロや二人がそれぞれ世話している二頭の馬も立派な家族だ。


 近隣の村の人間と会うこともあった。広大な丘陵を放牧に利用しているのは魔女だけではない。魔女が設けた境界の端までしばしば彼らの飼う羊は草を食みにやって来たし、たまに羊飼いたちと世間話やちょっとした物々交換を行うこともある。

 友達のジーノやその父親ともそうやって知り合ったのだ。


 村よりももっと遠い場所にある、市場が立つ町へ魔女に連れられて行ったこともあった。そこでは少年がこれまで見たこともないような大勢の人たちが行き交い、見たこともないような様々な物品がやり取りされていた。

 ところが少年を驚嘆させたその光景でさえ、本物の都市と比べると片田舎のちょっとした賑わいに過ぎないのだと魔女は説明した。

 なるほど世界は途方もなく広く、そこには少年には想像もつかないほど様々な国があり、大勢の人が暮らしているのだ。


 だが、好奇心をくすぐられる世界の真実の一端に触れた後も、馬の背に揺られて街道を抜け、途中から南に下って広々とした草地を通り、最後に越えた丘のてっぺんからなだらかな斜面の終着点、黒々とした森が始まる手前にぽつんと建っている古ぼけた小屋が視界に入ってくると、少年はまだ見ぬ世界のことなど忘れ、すべてが満たされた気分になるのだった。


 このように少年は魔女との生活に満足しており、一点の不満も不安も抱いてはいなかった。

 今はまだ魔女に守られる子どもだが、いずれ大人に成長すれば逆に自分が魔女を守ることができるようになるに違いない。

 そして、いつまでも二人で穏やかな満ち足りた暮らしを続けるのだ。

 いっそ無邪気なほどに、少年はそれを信じて疑わなかった。

 



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