彼のいた風景

神原

第1話

 雨が降っていた。灰色の空から覗くのは暗い雫。少女の心を染めるかの様にその粒が体を打ちつける。髪を伝い、頬を濡らし、体温を奪っていく。


「やめて」


 ――まるで私が泣いているみたいじゃない。会いに来たんだ。彼に。これから幸せに――


 続く言葉は声にならなかった。


 流れ続けるのは雨水だろうか、それとも瞳から溢れた涙だろうか。少女はただ立ち尽くしていた。






 二人が出会ったのは夏が薫る風の中だった。蝉が鳴いている。暑さが少女の額に汗を浮かばせる。帽子の下に流れた汗を拭う腕が白く煌き、ショートの髪が涼やかに揺れる。


 隣に座る少年の面差しがちらっと少女へと向けられた。色白で少し細めの少年だった。


 無人駅を降りた場所でバスが来るのを待っていた。そこに二人。本来会話をする必要性はこれっぽっちも無い。そんな二人だ。それはどちらが先だったのだろう?


 少女も少年も相手の事が気になっていた。人が滅多に訪れない、そんな場所で出会ったからだろう。


『あの』


 思わず声がハモった。蝉の声がうるさい中、静かに二人の声が響く。


 そして二人して笑った。なんとなく可笑しくて、なんとなく嬉しくて。


 その時はバスを降りるまで話し合ったくらいだった。ラインを交換して。




 携帯でのやり取りがその日から始まった。ラインに美しい写真がUPされる。少年から送られる写真はそれは綺麗な風景ばかりだった。少女がその日あった事を告げるとお返しとばかりに少年が今日行った場所をと映して来てくれる。


 海岸、真っ赤な太陽が沈む海。名も知らない花々。透明な水の中を泳ぐ魚達。都会では見られない星々の写真。


 そして一度だけUPされた後に「ごめん間違い」とコメントされた古い洋館が。


 この時はまったく気にしなかった。色々撮った写真を間違えたんだと思っていただけだった。


 ひと月が立ち、ふた月、み月があっという間に過ぎた。山々の葉が色づく季節。


 少女に変化が起こったのはこの頃かもしれない。


「会いたい」


 そう度々コメントする様になった。




 少年はそれに、


「後半年まって」


 とその都度返信する様になっていった。




 何かがおかしいと思い始めたのはどれくらい経った頃の事だろう。頻度が落ちていた風景の写真を送ってくれなくなった。そして残すところ半月になった時。連絡が急に途絶えたのだ。ラインは全て未読。少女にはもう連絡する術がなかった。


 友達に相談するも、一度会っただけと聞くと笑われて答えてもくれなかった。思い悩んで別の友達に打ち明けたが騙されたんだよ、と言われて終わり。もう誰にも相談できなかった。


「なんで連絡くれないの」


 と呟く。九か月も時間を共有していたのに。あんまりだった。


 それでも約束の日までは待つことにした。言ったのだ。後半年って。


 毎日携帯をチェックして既読を待つ日が続く。そして、ようやくその時がきた。




 ふつふつと今迄の未読が既読に変わっていく。そして一言、


「好きな人が出来た」


 とだけ少年から発信が送られる。




 少女は、


「大っ嫌いっ!」


 と返信して、瞬間、後悔が駆け巡った。


「ごめん、嘘っ」


 と、本心を吐露するも、その時には既に少年にブロックされていた。


「うそだよおお」


 涙があふれる。たった一言で全てが終わってしまった。今迄っていったいなんだったんだろうと虚脱感に包まれる。


 次の日は学校を休んで携帯の写真を眺めていた。そして初めて気づいた。少年の置かれた環境に。


 綺麗な夜空。それは空気が綺麗だという事。真っ赤な太陽が沈む海。それは海の近くだという事。名も知らない花々。それは都会には咲いていない花だと言う事。透明な水の中を泳ぐ魚。川すら美しい清水である事。


 これらが指すのはどこかの療養所ではないのだろうか? と。


 ただ、どこなのかが分からない。この辺ではない。バスの先でもない。あのバスの先に海は無かった。


「思い出せ。思い出せ私」と念じながらも都合よく思いつく事など一つもなかった。




 無常にも日は過ぎていき。写真の事を忘れかけた、そんなある日。少女は一つだけ思い出したのだった。古い洋館。急いで自室へ駆け込むと携帯の画像をパソコンで拡大する。


 隅から隅まで見通す。もう一度。もう一度、と何度目か洋館を見ていると見つけにくい場所に表札が出ていた。パソコンで海岸の写真を検索する。ヒットした。一枚だけ特徴のある崖の写真が。


 急いで貯金を部屋からもって少女は飛び出した。親が仕事の今しかなかった。


 車両を間違いそうになったりもした。乗り継ぐ度に人が少なくなっていく。電車自体も古くなり。夕やけの海岸が見え始めた。


 ようやくたどり着いた村で少女が立ち止まる。


「どうやって探そう」


 心細げな声で呟く。少女が知っているのは洋館の持ち主の名前と、この駅までだ。


「どしたん」


「あっ」


 渡りに船。見回りだろうか。駐在さんの様な恰好をしたおじさんが声を掛けてくれたのだ。辺りは薄暗く日も落ち掛かっている。少女に声がかかったのも無理もない話だろう。


「どこから来たか知らんが、今日はもう遅い、帰りなせ」


「私、人を探しに」


「とにかく、今日はもう遅いから、宿をとりなせ」


 親にでも連絡されるよりは、と少女は思いなおすと、駐在さんの後を付いて宿へと向かう。そして道すがら、


「この洋館知らないですか?」


 と思い切って写真を見せてみた。


「ん? ああ、そこは〇〇さんの御宅だね。明日なら連れてってあげるよ」


 駐在なら場所くらい知っているだろうと尋ねたのが当たった。今からでも行きたい処だが、がまん、がまんと少女は自分に言い聞かせる。


 海辺の古い宿。ほの明るく明かりが灯った玄関で、駐在さんが「じゃな」と言って去っていった。女将さんが駐在さんの場所までの地図を明日までに用意してくれると言って、部屋まで案内してくれる。


 宿の布団に入ると堪らなく心細くなっていった。何で来た? と言われる事や帰れと言われる事、いや顔さえ出してくれないのではないだろうか、など。明日分かるとしても怖いどきどきで満たされてまんじりともできない。あれから一年経った。そうだ、今日は。


 思い出が明るく変わる。少年と話している頃の事が段々と鮮明に思い出せる。


 しかし、夜明けが近づくと共に少女は再び沈んでいった。大っ嫌いっ! この言葉が少年の最後に見た言葉だから。


 鳥の鳴き声がかしましく響き始める。布団から起き上がるとぼんやり窓から海を眺めた。少年はこの景色をいつも眺めていたんだろうな、と。やがて朝焼けになり雲が真っ赤にそまっていく。


 宿を出て駐在さんの場所までいくのに一つ道を間違えた。地図を見直してなんとかたどり着くも昼を廻った頃だろうか。


「おう嬢ちゃん」


 相手も待っていてくれたらしく、手をあげて迎えてくれた。


「じゃ、いくべ」


「はい」


 もっと長い道のりを考えていたが、あっさりとその洋館へとたどり着いた。なるほど、これなら駐在さんも知っている訳だ。と納得した。


「何か困った事ばあったらまた来なせ」


 帰っていく駐在さんの前では扉は叩けなかった。怖いのと恥ずかしいと言う感情もあったから。


「ありがとうございます」


 と言って去って行くのを見送る。少女は扉の前までいき。ノックをする形で固まった。手が震える。怖くて叩けない。深呼吸するもやっぱり扉の直前で手がとまってしまう。


 どれくらいそうしていただろう。いきなり扉が向こうから開いた。


「きゃっ」


「あら」


 年のころ四十位の女性が立っていた。


「どこのお嬢さんかしら?」


 少女が応える前に、女性が気づいた。


「あなた、そうあなただわ、あなたなのね」


 驚きの言葉の意味が分からなくて混乱する少女を女性は応接間へと通してくれた。そして、待たされた後、一冊の本を持って来てくれたのだ。


「息子の〇〇と文通? してくれていた子よね」


「はい」


 その言葉だけで嬉しくなって少女が頷く。


「これを読んでくれない?」


 と本を渡された。女性が席を外す。一人になって少女はゆっくりと日記を開いたのだった。




                  ***

 〇月〇日。

 綺麗な人と出会った。話すと面白くてとても可愛い子だ。ラインを交換した。嬉しい。


 〇月〇日

 彼女の話は楽しい。元気になったら彼女の様な生活ができるだろうか?


 〇月〇日

 会いたい? 僕も会いたい。とても会いたい。でも、


 〇月〇日。

 後半月で手術が出来る。嬉しい。治ったら会いにいきたい。


 〇月〇日。

 体が動かなくなってきた、写真を送らないと、でも、もう少ししたら手術が出来る。そうしたら。


 〇月〇日。

 失敗。もう助からないのだろうか。会いたいな。彼女に。


 〇月〇日。

 彼女にさよならして来た。ごめん、ごめん。ごめんなさい。


 〇月〇日。

 (言葉にならない線がその日の日記には引かれていた。大粒の黒いシミと共に)


 〇月〇日。

 最後くらい笑いたい。携帯の彼女の写真を。


***


 読み終わった少女の目が暗く沈む。


「ごめんなさいね、あなたには辛い日記だったわね。でもどうしても息子の気持ちを伝えたくて」


 時間を置いて現れた女性に、「ありがとうございます」と告げて、家を出たのだった。




 庭を廻る。もう一度玄関へ。そして、あの携帯にUPされた写真の位置で少女は空を見上げた。ぽつりぽつりと空から雨が滴っていく。




 灰色の空から覗くのは暗い雫。少女の心を染めるかの様にその粒が体を打ちつける。髪を伝い、頬を濡らし、体温を奪っていく。


「やめて」


 ――まるで私が泣いているみたいじゃない。会いに来たんだ。彼に。これから幸せに――


 続く言葉は声にならなかった。


 頬を流れ続けるのは雨水だろうか、それとも。


 少女はただ立ち尽くしていた。暗い洋館の前で。


 そして、ようやく少女は現実を受け入れたのだった。灰色の空の下で泣き崩れながら。彼が病気で死んだと言う事を。ずっと思ってくれていたと言う事を。






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彼のいた風景 神原 @kannbara

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