第35話




 応援できた緒方係長以下数名の地域課に現場をまかせて、ぼくたちは一旦、新島署に戻ることになった。課長への報告もあるし捜査の方向を修正する意味合いもあるし監視カメラの精査もあるしでやることは山積みだった。

 女子独身寮へよってから、ふたたび戻ってきます。一時間ほどですからお早く。そういい残していったノアの公用車を見送って、ぼくは自分の寮へ戻ってきた。警察官になって、めずらしいことではないが実に二日ぶりの帰宅である。部屋には事件解決の糸口を発見した当時の様子が残っていて懐かしいと思った。

 だが片づける時間的余裕もなく、ぼくは湯をわかしてバスルームに入るほかない。最近の超過稼動を思い返せば、われながら良くやったと自分で褒めるのもわるくない。なぜなら、ぼくらは誰からほめられることもなく誰知らず密かに犯罪と戦っているのだから自分でほめるくらいはしないとやっていられないからである。そうしなければ精神衛生上悪いからだ。

 疲労に満ちたカラダで熱い湯をあびれば体内の血圧が急激に上昇したことが自分でもわかった。だいぶ疲労が溜まっている。しかし休んでもいられない。なぜなら小山善が設定した期限は明日に迫っているし小山の身柄は確保できずにいるせいで捜査ができるのは今日一杯と思って差し支えなかったからだ。

 犯罪捜査には考えることが数多くある。犯罪の証明や適切な法令の適用、執行手順、送致期限などの形式的な要素から小山善の動向や逃走経路、潜伏場所といった実質的な要素についてだ。しかも後者はマニアックで、いわゆるテキストデータの人物性や衝動性、計画性などの基本的な要素から、いわゆる事件の動機や目的といった応用的な要素も含まれるのである。

 整理してみれば、ずいぶん頭が痛くなってきた。法治国家において国民の権利を害する警察権の発動にかかる手順は厳格に定められているのだから当然といえば当然だが……しかし、できれば目の前にある犯罪に集中させてほしいものである。ただ現場の警察官が共通して考えていることもあった。

 ――どうして小山は事件を起こしたのか――

 たぶん今回の事件に係わる捜査員ならば、みんなが思っているはずである。緻密な計画に精巧な犯罪、警察をよせつけない逃走経路。今回の事件ほど入念に準備された犯罪に直面した結果、いったいなにを具現化したいのかといった要素を考えない警察関係者はいないはずだ。

 ただ、ぼくが小山善のプロフィールを読んで、だんだんわかってきたことがある。それは、ぼくと同じく小山善も犯罪者のなかで犯罪者の思考を巡らせながら日常を生きているのではないかといったことである。正常な世界の思考ではなく犯罪者の世界でものを考えて正常な世界で生きているのではないかといったことだ。

 たぶん、ぼくと小山善の間に明瞭な差はない。おそらく些細な差で、ぼくと小山善の立っている位置が異なっているのだ。ぼくに手段があれば小山善の位置に立っていたはずだし小山善だって手段がなければ、ぼくの位置に立っていたはずだ。

 ぼくと小山善を別けた差はなにか? 同じ事件に立ち会って同じ事件で人生の歯車が壊れた人間に差があるとすれば、なにが明確な区別になっているのか? ぼくは考えずにいられない。あるとするなら、たぶん、ぼくがなにかをやる意思を持っていなかったことだと思う。

 小山善は自己の意思をもって犯罪を計画し実行した。立ちふさがる妨害を排除しなお計画を続行している。ぼくには小山善ほど自分の意思を通せる強い意志がない。一番の違いは、そこだと思う。ほかは、それほど変わらない。

 ぼくにだって、なにもかも壊してしまいたいって思う瞬間があるし歴史を揺るがす大犯罪を心のなかで計画したこともある。しかし、ぼくは実行できなかった。それをやりきることができなかった。死ねないから生きている、そんな人生を甘受したのが、ぼくで小山善は打破しにかかったのだ。

 小山は、死ねないから生きている、そういった具合が耐えられなくなったのだと思う。

 小山にとって人生とは自分の意思で進めたり止めたりするもので、けっして誰かにコントロールされるものではなかったのだ。いや、ぼくだって同じ心意気で生きてきたが、上手に折り合いをつけて自分を騙しながら暮らしているってのが本当のところなのだ。けれども小山は自分の足で人生を進める決断をした。

 なぜ? と問いてみる。小山善にとってのきっかけがあったはずだと思ってみる。ぼくは小山善のプロフィールを思い出し不審な点がなかったか考えてみる。あるとすれば十年前のテロに巻き込まれサイボーグになったときだと思った。

 当時のカルテがある。当時高校生だった小山が社会見学で訪れた国会議事堂においてテロに巻き込まれた。五百キロ爆弾の有効範囲ギリギリで被害にあった小山は全身裂傷を負い右腕は根本から飛ばされ目はつぶれ血液もほとんど失っていた。かれが生還したのは当時、実験中だったサイボーグの検体に選ばれ両親も治療に同意したからだった。そして小山は治療の甲斐あって奇跡的に生還する。

 ――それまでの小山は暗い学生だったと記録に残っている――

 だが、そこから小山の人生が変わった。人間関係に消極的とあった高校での記録から打って変わってカルテでは担当医とわらい泣き苦しみを共有するまで回復したと書かれるほどに積極的な人間になっていた。小山善が病院に通った数か月間、そして自分の体が自分のものではなくなったときから、どんな絶望があって、どんな自分を育てたのか? 小山善は入学が決まっていた東京工業大学から突如として半年間、MITへ留学する。MITで小山は例にもれず模範的な大学生だったらしい。MIT時代の小山は交友関係に恵まれた記録が残っている。

 常に周囲がひとであふれ友好的な表情を浮かべ誰でも分け隔てなく接する。小山善に対して担当教授の書いたレポートには、そんな記録があった。紛れもなく小山が東工大を離れ引き続きMITで研究をする決定打になった文章である。

 おそらく世間一般が持つ大犯罪者のイメージといえば冷血で感情がなく不気味といったものになると思うのだけれども、ぼくら捜査人が持つ大犯罪者のイメージは友好的で交流が広い人間が多い。なぜなら大犯罪を実行できる人間は自らの利益のために自らを演じることができるからだ。

 その特徴を小山も保有していたのかもしれない。

 それから小山善は飛び級で東工大を卒業しMITの大学院へ進学、そこで博士号を取得し帰国、日本技研へ入社する。社内で成績は良く大きなプロジェクトを完成させ表彰もされている。若手ながら確固たる立場を確立した小山はビックMプロジェクトに参加することになってAIの自殺がはじまった。

 小山善の転換点となったのは十年前のテロであって、そこから人生の歯車が壊れたといって差し支えないはずだ。自分で自分の人生をコントロールできなかった絶望からか、それとも死ねなかったことなのか。けれども、そんな小山の事情を考えるたび、ぼくは自分に対しても敏感にならざるを得ない。

 ――ぼくにとっての人生の転機は、どんな風に作用したのか――

 だから、ぼくは、そんなことを考えてしまう。小山が絶望を育てたのなら、たぶん、ぼくは逆に、なにも育てなかったのだ。なにも考えず、なにも育てず過ごしてきたのだ。ぼくと小山善との違いは、そこにある。ぼくが今まで小山の思考を読めなかったことや、現在に至るまで小山の内心を把握できなかったのは、ぼくが、ぼくに無自覚になることで絶望から逃げていたことで、ぼくと同じ世界にいる小山の絶望からも逃げていたからなのだと確信することになった。

 いまの段階で小山善の絶望の種類はわからなかった。だが、ぼくにとっての絶望の種類は今自覚した。孤独である。ぼくは、ぼくにとって死に至る病である孤独から自分を守るために孤独から逃避するほかなかったのだ。

 なぜ自分の絶望――孤独から逃げなければならなかったのかといえば、ぼくにとって自分の絶望に立ち向かう手段がなかったからだ。たぶん小山善のごとく手段があれば、ぼくだって小山善と同じことを実行していたのかもしれない。

 しかし、あのころは、まだまだ未熟で自分のことにかんして手段を確立することができなかった。だから、ぼくは自己保存の手段手法として自らの絶望から目をそむけ絶望の種を無意識下に追いやることのほか自分をコントロールし正しい道を歩むことができなかったのだ。

 ぼくと小山の差は小さく、そして深かった。ぼくにとって決してマネできない手段で小山善は自らの絶望を解消してみせている。ぼくは追随することもできない。ぼくは小山にかすることもできなかった。

 たった手段があったくらいの差なのに、どうして、そんなに違ってしまったのか、ぼくは自覚することもできなかった――そして、ぼくは次第に思考の限界に近づいていることを認識する。時間をみれば、もう三十分近くバスルームにいたことになるくらいの時間だった。だからなのか、どっと疲れた気がして息を吐かずにいられない。

 お湯を止めれば一瞬、くらついた。頭をふって体をふいた。小山善の絶望――ぼくが読み解かなければいけない課題が増えた。暗鬱たつ現実を認識し、ぼくは息を吐きながら暗いリビングに戻ってくる。

 違和感を察知したのは、そんなときだ。なにかおかしいと思った。なにがおかしいのかはわからないけれども、なにかおかしかったのだ。そう灯だ。ぼくがバスルームに入る前は電灯を点灯させていたはずだ。しかし今は消えている。なぜだ? ぼくは考え水を取った。そしてわかった。

「朝早くに失礼する。坂上正義のお宅で間違いないか?」

 ぼくの視線の先にいたのは紛れもなく小山善だったからで、どうやら小山が、ぼくの家に直接やってきた、ということだったらしい。暗く表情はみえないが、たしかに小山だった。かれはソファーに悠然と座って、ぼくの銃を握って話しかけてくる。もしかしたら担当刑事宅に直接のり込んできて捜査中止要請と捜査陣がやったことの仕返しということなのかもしれない。いやはや刑事は恨まれることが多いが、恨みはかいたくないものである。

「ぼくの家で間違いない」

 そういったのはミスだったかもしれなかった。隣の部屋です、とでもいえば、それは失礼しました、と素直に引き下がってくれたかもしれない理性をもっているみたいにみえたからだ。

 ぼくのことは知っているね、そう小山がいった。「当然だ」ぼくは水を置きながら答えた。

「えらく長い間、出てこなかったから、どうしたものかと思っていたのだけれども気がついてもらって良かった。もしも、きみが過労で倒れでもしていたら、ぼくは第一発見者になってしまうからね」

 軽いジョーク、とでも取ればよかったのか。ぼくは小山をにらみつけるほかない。そして、ぼくの銃で、ぼくの隣を示してくる。そこにはテーブルとセットのイスがあった。どうやら座れ、ということらしい。ぼくは拒否した。

「きみたちのせいで、ぼくも寝不足さ。順調に進んでいた計画に穴がひらけば修正する負担も大きくなる。きみたちにとって、ぼくが目の上のたんこぶであるのと同じく、ぼくにとって、きみたちもおじゃま虫であることを伝えたくてね。だから、せっかく、そんな相手と話ができるんだ。立ち話では味気ない。イスはあいている。すわったら、どうだい?」

 ぼくに銃が向いた。だから渋々、ぼくは座るほかなかった。

「銃は有益だ。向ければたいていの相手はおとなしく従ってくれる。本当の意味で使いものになるのかは銃に弾が入っていればの話だが、向けられている方からすれば、そんな議論は問題外になる。ただ警察の銃は控えめだね。ぼくのは少し大きいから握りやすくて良い銃だと思う」

「なにをしにきた? ぼくを殺すのか?」

 だから、ぼくは訊くほかなかった。小山は心外だといった表情をして首を横にふった。

「計画にとって無益な殺生はしないと決めている。ぼくにとってもきみにとってもね。だから、きみがおとなしくしていてくれたら、ぼくは引き金を引かずにすむ。そう願いたい」

 いってから銃に落ちていた小山の視線が、ぼくの目に向いた。

「さて、きみは今、どうして、ぼくがココにきたのかと不思議になっているね。ぼくになにをするのか? お前の目的は、なんだ? そんな考えの顔だ。その答えを発見するには二つの方法がある。ひとつめの方法は、ぼくが自発的に目的を話す。ふたつめの方法は論理と証拠をもって証明する。以上の方法をつかわなければ、ぼくがココにあらわれた理由は永遠に謎であるし永久に解明できない。世界には、そんな事象が多すぎると思わないかい?」

「なにがいいたい」

「たとえば銃。きみからすれば弾が入っているのか否か引き金が引けるのか否かは、ぼくが撃たなければわからない、現実のものとして発現するまでは観測者から観測することができない、まるで量子力学的とは思わないか、ということさ」

 ぼくの問いに小山は大学教授が自身の学生に知識を披露するみたいな様子で答えてきた。

「いいや。ぼくはパノプティコンを思い浮かべるね。ぼくの方からは結果がみえないけれども、お前の方からはみえる。それと同じだ。現実の答えは初めから決まっているものだから」

 ぼくがいったのを聞いて小山は新しい発見だといった。

「たしかに別の視点から現実を考えることには面白い発見がある。ぼくは、ぼく自身の視点を軽視していたみたいだ。なら視点を変えてみよう。たぶん、きみは、ぼくが持っている銃に生体認証のロックが掛かって撃てないことを予測しているね。だが世界最高レベルのサイバーセキュリティを突破して、いや、はるかにコモノながら、きみの家の玄関の生体認証を突破できた人間にとって銃のロック機構を遠隔で解除できることくらい造作もない、と考えている。当たっているね?」

 ぼくは小山の問いに答えなかった。ひきかえに小山は自分の考えをペラペラしゃべった。

「だが、ぼくからは、きみの考えがわからない。だから、そのようなことは全て思考のうちにあって現実のものではない。それで量子力学として表現した。なにせ思考を現実のものとみるには思考を証明するほかないからね。ぼくみたいな素人からすれば、ほとんど不可能だ」

 小山は肩をすくめた。ぼくは小山の様子をみながら少々ムカついて反論する気になる。

「ぼくなら、お前を捕まえて尋問する」ぼくの言葉に小山はわらいながら、エンジニア気質だね、と返ってきた。ぼくは不愉快だった。

「たしかにたしかに。できるなら、そうした方がいい。しかしながらエレガントさがないし野蛮だし確実性がない。量子力学と同様、現実世界での関係を考慮にいれなければ適切な結果はみえてこない。いまだって、きみらが、ぼくを捕まえられる可能性は限りなくゼロに近い」

 ただ、そういわれたら黙らずにいられない。なんだか悔しいが、ぼくと小山の差は、たぶん法律家と科学者の差なのだ。ぼくたちは仮説を立て証明し全てが証明されなければ立証できなかったことになる。しかし科学者は仮説を立て証明し完璧に確証できずとも可能性が高ければ立証できることもある。

 ぼくらみたいな推定無罪を魂レベルで叩きこまれない環境にいれば、ぼくみたいに四角四面にならなくてすむのかもしれなかった。ぼくの沈黙をみて逆に小山は次第に口をひらいた。

「さて第一の答え。今回、ぼくがココにきたのは、きみを脅して自分の計画を有利に進めるためではない。ぼくが、きみと話したかったからである。ひざを突き合わせて面と向かって言葉を合わせて話して、ぼくの計画を察知し、あまつさえ、ぼくの存在を特定し追ってきた人間の考えていることを知りたくなったからだ」

 迷惑な話、と思った。もしも明日までに小山を捕まえれば取調官として一か月、話す機会があるのだから、そんなに話したい訳じゃない。むしろ話したくない。いやな会話だ。

「お前は学者気質だな」

 だから、ぼくが返せば、「じゃなきゃ犯罪なんてしない」と小山は不敵な表情で答えた。

「たしかに、ぼくは学者気質で、あたらしいものごとを発見したいと思っているし、発見すれば知ってほしい、と高らかに宣言したい性格をもっている。現に今だって立て板に水で話しているのは、そのあらわれだ」

 しかし小山は黙ることなく、むしろ嬉々として論調が増すのだから手におえなかった。

「ぼくにとって全てが変わったのは、あのテロからだった。すでに調べがついているはずだから、きみも知っていると思う」

 ぼくの沈黙を肯定だと思ったのか小山が話しはじめる。「誰でも知っている」と返せば、

「いや、ぼくの定義する知っているとは事実として知っているのではなく体系と理解し自分のなかで、ある種の答えを持っていることだ。普通の人間とは一線を画す犯罪への知覚といったところかな」

「たしかに、ぼくが一般人に比べて事件捜査に精通しているといった点で、当然にテロ捜査に関する知識は、ある程度の質量をもって理解している。しかし、ぼくは刑事部の警察官で大量破壊を目的にする犯罪捜査の本流は警備部にあるのだから訊く相手を間違ってる」

 ぼくが教科書通りの答えを口にすれば小山は、退屈させるな、といった表情になって正対した。

「きみのことを調べたよ。だから、ぼくも、きみが、どう生き、どんな選択をしてきたのかわかる。きみが、ぼくのことを理解すべく思案を巡らせているみたいに、ぼくだってきみのことを理解すべく思案を巡らせているんだ。なにをしてきたのか、なにを目標にしているのかって具合にね。わかるだろ?」

 ぼくは小山の目をみた。たぶん今の話は本当なのだ。だから自信満々に話せるのだ。ぼくが小山の資料を集めるのと同じくらい小山も、ぼくの資料を集めるのはたやすいのだ。

「お前の絵をみた」

 ぼくの言葉に、「どう思った?」と小山は口にする。まるで実験前の学生みたいな表情だ。

「ぼくが感じたのは、お前の警察に対する挑戦的な意識――コード一二三一のヒントだ」

 ただ、ぼくの答えに小山は怪訝になる。眉をひそめ、まるで予想していない的外れな答えが返ってきた、という内心がもれ出ていた。

「所属する組織が異なれば人間が感じる刺激も異なる。面白い解答だったと思う。どうして、そんな結論にいたったのかきかせてほしいね。ココで機密保持の必要はないだろ?」

 小山はいった。ぼくは逡巡しながら小山の目をみたが、ぼくらの捜査方針を聞き出しているのではなく純粋な疑問から生じた問いなのだと確信した。

「光だ。光から答えを出した。コード一二三一は一.二三一ギガヘルツの波長を知覚しトリガーが発動する仕組みになっていたからだ。そしてお前の絵は下部方向から当てる光によって本質が浮かび上がる仕組みになっていた。だから絵にヒントが隠されていたと思った」

 ぼくがいえば小山は、「順番が変われば目的も変わるか」とつぶやいて、ぼくをみてきた。

「ぼくが予測していた結果とは違ったものになった。しかし、それは、ぼくの予測していた計画が変わってしまったからだ。ぼくは機械相手なら慣れているのだけれども、どうやら人間相手の商売は、きみたちの方が一歩先をいっているらしい。いやはや、まいったね」

 どういうことだ? ぼくは小山に訊いた。

「ぼくは坂上正義を過大評価していたのと同時に過小評価していたのだと思ったということさ。ぼくの期待する答えは返ってこなかったけれども、あたらしい発見があった。歓迎できる偶然。人間、誰もが専門の分野を持っているのだと実感させられたってところだね」

 ぼくの問いに対して煙に巻かれた感が否めなかったが、ぼくは言葉の意図を反芻するべく記憶する。

「ならば話を変えよう。正直なところ、ぼくはきみに対して興味がある。きみといった存在や、きみの生き方にね。たとえば、きみが朝食にパンを食べるか食べまいか迷っているとする。そして選択を下す。パンを食べるってね。どうして、その選択なのか、その選択を下した結果の下にあるものとはなにか、ぼくは、そういった選択をする段階において思考や概念を形作る原因を知りたいんだ」

「ぼくの考えを知って、どうする?」ぼくが問えば小山は肩をすくめながらみてきていた。

「きみも同じだ。どうして、なぜか? そんな疑問を持っているじゃないか。われわれ人間は誰しも目の前にあるわからないものに対して、いやでも解明したくなるものだからね」

 ぼくの訝しく内心に小山は諭すみたいな声で口にする。

「ぼくら人間が太古の昔から生存のためにおこなってきた普通の欲望だよ。どうして上から下に水は流れるのか? どうしてリンゴが落ちるのか? そんなモノさ。なぜなら、ぼくら人間は、そういった疑問を解明して生存することができたのだからね。コンピュータの発明や、はなはだ原始的だが炎の取り扱い方だって、そんな疑問を解決してきた結果なのだから。だから、ぼくだって本能に忠実に生きているし、コンピュータサイエンスを専門しているのと同時に人間行動学も研究しているものだから余計に気になるんだ。まあ仕事と趣味を兼ねた質問だね」

 そういった小山とは対照的に、ぼくは一瞬、われに返っておかしくなってしまった。なぜなら目の前にいるのは国家転覆を計画する大犯罪者なのであって理系の研究室で夜な夜な機材と会話する研究員なのではなく、むしろ相対する相手なのだが、ぼくにとっては淡島と同類、いや同じ人間だと思わずにいられなかったからだ。

「なら交換条件だ。あの絵に隠されたモノは、ほかにもあるといった様子だったが、なにが隠されているのか話せば、ぼくだって話してもいい。できなければ話はココで、お終いだ。ぜったい口は割らない」

 ぼくがいえば小山は困った表情になる。いや真に困っている訳ではないのだろうけれども、どうして、どうして、ぼくを丸め込んでくるとは面白いものだ、という内心でいるらしかった。そして小山は素直にしゃべった。

「あの絵には、ぼくの動機が隠されている。どうして犯罪をするのか、どうしてAIを殺すのか、そういったことが隠されている。本来ならば、あの絵がみつかるのは、ぼくが犯罪を実行してからだったから多少の計画倒れだが今口にしても変わらない。あの絵をみれば、ぼくの動機がわかる仕組みになっている。どんな動機かっていうのは、きみたちが調べる仕事だからいわないけれどね」

 だからこそ、ぼくは自分が完全に手のひらの上で踊らされていることを自覚してキリキリ胃が痛むのだ。たぶん、ぼくがした苦渋の表情をみて小山は稚拙な理論で大学生に挑戦した小学生のおいっ子をみる様子になっていた。

「なにが、知りたい?」

 そうやって追い込まれながら、ぼくがいえば小山は意外な表情になる。まるで本当に答えてくれるのか、と政治家に質問して期待以上の返答が戻っていた新聞記者の表情だった。

「きみが、そこまで筋を通す人間だとは思わなかった。騎士道的、いや武士道的といったところか――。すこし冗談が過ぎたみたいだ。ぼくみたいな孤独な人間は誰かに話しを聞いてもらえるだけで満足して余計なことまで話してしまうんだ」

 ぼくの前で小山は考えていた。たぶん、どうしたら、ぼくの考えを理解できるのかといったものではなく、どうすれば極限の環境下でなお理性的な相手に対し失礼に当たらないか考えているという感じだった。

「きみに対してするいくつかの質問を考えていたのだけれども、いくつかの質問は削る必要が出てきたらしい。だから最後にひとつ、きみに対して、もっとも聞いてみたかったことを質問しようと思う。きみが守るべき、きみにとっての正義とは、いったいなんなんだい?」

 その小山からの質問に拍子抜けた感じがした。もっと別のことをきかれると思っていたからだ。しかしながら小山が選択したのはつきなみで平凡な質問だった。だからバカにされているのかと思ったけれども、どうやら小山は本気で訊ねていることが伝わってくる。

「ぼくにとっての正義とは自分の属する社会を守ることだ」

 ぼくの回答に小山は少し眉を上げた。そして、「きみは別の答えを持っていると思っていたのだが」と返してくる。予測に反して――といったところらしい。だから小山はしずかに目を閉じた。

「そろそろ、ぼくもお暇しなければいけないときになってきたみたいだし、だから、ひとつきみにいっておかなければならない。トウェインから引用すれば人生にとって大事な日は二度あるということだ」

 それから小山は目をひらいていってくる。

「ぼくら人間にとって重要なことは知ることだと思う。生物的にそなわっている本能ではなくて人間として人間とつながる上で重要になる文化的な側面での知識のことだ。社会とは、どんな形をしていて、ぼくらは、どんな風にいきていけばいいのか、といった話だ」

 だから、ぼくが興味ないといった風に睨めば、少しは聞くもんだ、という苦笑いが返ってくる。

「社会に対して疑問が生じるには自分を知る必要がある。社会と自分を比較することで疑問が生まれるのだからだ。だから自分を知ることは社会を知ることにつながるはずだ。しかし現状、どうやら、きみは自分を知っていないと思われる。なぜなら、おそらく、きみは社会から求められる自分を演じているから。きみは自分という存在を無自覚に否定し自分を社会に適合する形に変化させ生きてきたのだと思う。だから自分に走る矛盾にも無自覚でいたし気がつかなかった」

「どうして、そういえる――」ぼくは小山の言葉を否定したが小山はわらっているのみだ。

「わからないかい。きみは自分の属する社会といっていたが、いまのきみが守っている社会が、どうして自分の属する社会だといい切れるのかな?」

 ぼくは小山のいいたいことの意味がわからなかった。いや、なにをいっているのかすらわからなかったのだ。それこそ自分のなかに小山の言葉を理解するエディターがないみたいな感覚で、その小山の言葉が、まるで日本語ではない別の言語に思えるみたいな感じだった。

 ぼくの疑問の表情に小山は言葉を返さない。自分の自覚には自分で対処するほかないといった目をしている。そして小山はいいたいことは、すべていったといった感じで立ち上がって隣まできた。そして最後の言葉を口にした。

「計画が変更になったと伝えたくてね。明日の二十三時、電波塔で会おう。きみと蔵本刑事のみで。きみが到着できればワクチンソフトを提供する。だが期限までに電波放送を中止すればウイルスを起動させる。あらわれなくてもウイルスを起動させる。選択の余地はないだろう。だから余計なことはしないでほしい。できるならば電波塔で、きみと会いたいからね」

 いった小山は、ぼくに銃を向けてきた。だから最後の抵抗だと思って、ぼくは手もとにあった水のペットボトルを払って抵抗の足しにし小山を組み伏すべく飛びかかったのだけれども、どうやら小山の方が二枚ほど上手で簡単にかわされ、関節を取られた挙句、ぼくが逆に床へねじ伏せられてしまった。

 なんだか情けなくて背中を踏まれながら、ぼくはジタバタするほかなかった。だが、ぼくが最後の抵抗をみせ小山の体ごと起き上がるべく力をいれた瞬間、どん! という音と共に、ぼくの部屋の玄関がひらいて、「小山! 銃をすてろ!」と蔵本さんが飛び込んできたのだ。

 ギョッとして完全に反撃のタイミングをうしなったかたわらで蔵本さんは準備万端、拳銃を構えているものだから、どうやら、だいぶ前からココに飛び込むタイミングを見計らっていたらしい。蔵本さんの緊迫が物語っている。

 ぼくは予測もしない事態だ、と内心で重わずにいられなかったけれども、ぼくは銃を向けられ動きを封じられているし蔵本さんは小山とにらみ合っている。ひどいことに三つ巴にもならない。そして小山はわらい、ぼくをみてきて、「いわゆる第二の答え」と迷わず引き金を引いた。ぼくは覚悟した。

 だが、「カチ」と生体認証の不適合によって撃針がブロックされた音が聞えてきて銃口からは、なにも出てこなかったのだ。だから、ぼくは助かったことを理解し同じく弾が出ないことをわかって小山は引き金を引いたことも理解した。数コンマ秒遅れて蔵本さんが発砲した。

『タン、タタン!』と三発の弾丸が小山のボディに着弾した。たぶん内部の補助コンピュータに命中したのだろう。機能を停止させて、ぼくの目をみながら小山が倒れてくる。ぼくは全てが通常に戻ったのを理解した。

 だから落下した拳銃の暴発に怯えること以外は安堵してしまい放心状態だったものだから蔵本さんが近づいてくるまで動けずに、けっきょく肩を叩かれることになったのだ。

「大丈夫?」蔵本さんが確認してくる。「大丈夫です」と返せばノアが室内に入ってきた。

「小山の義体はリモート義体です。機能を停止しています。したがって安全だと判断します。ですから坂上刑事も服を着てください」

 そして、そんなことをいわれるのだ。ぼくの家に入ったことのあるノアならわかっていたらしくクローゼットをひらいて服を出してくる。ぼくはあきれて首をふるほかなかった。

「ひとの家の引きだしを令状なしにひらくのは法律違反だ。相当の理由を開示してほしいね」

 ぼくがいえば、「バカいってないで早く服を着なさい」と蔵本さんからも怒られた。すみません、とふてくされながら受け取れば、ついでにノアは落ちた銃を拾ってわたしてくる。

「銃器対策課と太田係長、蒲田課長が向かっています。現場保存のために外に出てほしいのですが、よろしいですか?」

 そしてノアは訊いてくる。ぼくは従うほかないことを知っていた。だから、ぼくは、あきらめて首肯するほかなく蔵本さんが外部と連絡を取っているのを横耳で察知し内容を推察するほかなかったのだ。どうやら本当に課長がきている。

 ただ、だいたいから、どうやって蔵本さんらが、ぼくの部屋までのり込んできたのか気になったのだけれども、そんなことをきく余裕はない。だから、ぼくが服を着れば軽食くらいしか部屋から持ち出せるものもなくノアたちに背中を押されながら外に出て応援の到着を待ったのだった。


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