第32話
ぼくらが新島署に戻ってきたのは太陽が沈んで暗くなった一八〇七時だった。帰路の車内で蔵本さんは話さずしゃべらず黙って窓の外をながめていた。ぼくは話すこともできなかった。
小山善との一件は思った以上に大きなダメージを残している。体に傷がなくても心にできた傷は深い。いや、もともと深い傷があったのに再び傷がひらいてしまった感じなのかもしれない。ぼくにとって踏み込んでいいものなのか否か判断がつかずに二の足を踏んだ。
「われわれは小山を捕まえられるのでしょうか?」
ぼくが蔵本さんに訊いたのは夜もふけてから会議室で世界の絵画評論文をみながら絵図の分析をしていたときだった。集中していた蔵本さんから、わからない、というあいまいな言葉が返ってくる。
「けれども犯罪は未然に防がなければならない。さいわい期限の時間は決まっているのだし小山も自由に変更できないのだから有利なのは、わたしたちの方。いまは被疑者逮捕よりも犯行予防を考える時間」
その蔵本さんの意見は地に足ついた冷静なもので、もっともだった。もしかしたら浮足立っているのは、ぼくの方なのかもしれない。だから頭をふって絵画の分析を再開させるほかなかったのだ。
「それにしても、あなたは、あんなことがあったのにゲンキね。とんでもない鈍感体質」
だが、そこで不意に思いついたみたいに蔵本さんがいってくる。ぼくは頭をかいた。
「そんなことないです。ぼくだってこわかったです。さっきも車内で寝ようとしたらフラッシュバックして眠れませんでしたから」
ぼくがいえば、みえなかった、と蔵本さんは驚愕の表情になった。
「なんだか意外。あなたも正しく悩むことができるのね」といってくるものだから、「ぼくをなんだと思ってらっしゃるのですか?」と頭を抱えて蔵本さんに抗議するほかなかった。
「すこし立ち入ったことをきいてもいい?」
蔵本さんは、ぼくの反応をみて質問してきた。ぼくは上官の質問に少し考えて首肯した。
「ああやって撃たれた直後なのに、あなたは、どうして、そんなに普通でいられるの?」
そうやって蔵本さんは真剣に訊いてくる。ぼくは蔵本さんの内心を読みながら答えた。
「ちょっと恥ずかしいですが、みなさんがいらっしゃるからです。自分が守らなければいけない仲間や自分が守られる仲間がいるからです。いざとなったらセンパイや課長や緒方係長や、ほかの方々に守ってもらえるって考えたら、あんなことがあっても多少は安心できます」
そういえば蔵本さんは少し目を伏せた。自分の心や浮かんでくる感情と対話しているみたいにみえる。そして刹那、わたしでは耐えられないといった目になって視線を上げた。
「あなたは大丈夫なの?」
ぼくは首肯する。なぜなら、そうする以外に蔵本さんに答える方法がなかったからだ。
「一種の脅迫ね。自分を守ってくれなきゃ信用しないっていっているのと同じ気がする」
蔵本さんはいった。ぼくは、「そうするほかないですから」となかばあきらめた内心を吐露するほかなかった。誰しもが虚構の信用で生きているのだから。
「そうでもしなきゃ自分の背中は預けられません。センパイだって同じことだと思います」
ぼくの言葉に、「わたしは違う」と蔵本さんは否定する。その否定は悲しい否定だった。
「わたしは守られるばかりで、あなたみたいに他人や、あなたを守ることができないかもしれない」
ぼくは無意識下で蔵本さんの内心を探るべく目をみたが蔵本さんは目線を合わせない。
「あなたには知る権利がある。だから話す。わたしがココにきたのは事件が少なくて死なずにすむからって思ったから。安全な場所で仕事ができると思ったから。現状は違っていたけれども、そんな不純な動機でやってきた」
しずかに蔵本さんは告白していた。まるで聖者に懺悔し許しを請うみたいに。まるで自分が抱えた罪を罰してほしいみたいに。まるで、ぼくに自分自身を許してもらうみたいに。
たぶん蔵本さんは自分で自分をだましきれなくなったのだと思った。自分がかかえるものや自分の進む道の重圧に耐えきれなくなったのだ、と。だから蔵本さんは言葉をつないだ。
「わたしは、あなたみたいに、あなたを守ることができないかもしれない。あなたが、なにかの窮地におちいったときに守れずに、わたしは一人で逃げてしまうかもしれない。だから、わたしが事件捜査につくのは、あなたにとって、いいことが、なにひとつもない」
蔵本さんの自覚は自虐にマイれていて自分の存在自体が罪であると確信した罪人みたいだった。だから、「センパイは逃げません」と反論せざるを得なかった。
「センパイは自分の弱さを自覚して認めてらっしゃいます。そういうひとは逃げません」
そうやって、ぼくはいった。くだらない世辞でも、どうしようもなく実のない場を収める言葉でもなく、ぼくが思った本心からの言葉をいった。なぜなら蔵本さんには、いやおうなく内心が知られてしまっているからだ。
「どうして、そういえるの?」蔵本さんがみせる怪訝な表情は必然だった。
「自分の弱さを知らない人間は自分が弱いことを認めません。ましてや自分で口に出しません。そうやって他人に告白できる方は自分の弱さと立ち向かっていらっしゃるつよい方です」
ぼくはいった。だけれども蔵本さんは裏腹に根拠が薄いって表情をしてくる。そんな表情の奥に太田係長の顔が浮かんできて、ぼくは、なかなかに強情なお嬢さんだと思わずにいられない。だから、なにか景気のいいことをいった方がいいのかと内心で息を吐いたのだけれども、そうすれば蔵本さんにバレるから、ぼくは困ってしまい再び思っていることを口にするほかなかった。
「センパイは根っからの警察官です。困っているひとがいれば助けずにいられないくらいに。ぼくは端緒のサイエンス部室でセンパイみたいな刑事になりたいって思っていましたよ。ですから蔵本センパイは逃げません」
もしかしたら蔵本さんには図星だったのかもしれない。自分の口では、あぶないことをしたくないといっておきながら、いまだに警察官をやっていることや、あの事件初日でみせた自信満々の表情を思い出せば蔵本さんは自分の意思で警察官をやっているのだと思わずにいられない。蔵本さんだって自分でわかっているのだ。
「そんなセンパイだからこそ、ぼくは背中を預けられるのです。ほかのひとじゃ無理です」
だから、ぼくは蔵本さんを許した。蔵本さんの抱えた罪を罰することなく、蔵本さん自身を許すこともなく、ぼくは蔵本さんの罪をなかったものにした。そして視線が上がった。
「あなたは良くひとの心を読むのね」
「センパイだって同じだと思います」ぼくの答えに蔵本さんは満足したみたいにみえた。
そして蔵本さんは、なにかいいたげに口をひらくのだけれども、ぼくをみてから途中でやめて閉じてしまった。たぶん口をひらいたときに、ぼくが蔵本さんのいいたいことをわかってしまったからこそ蔵本さんは口を閉じたのだ。
「大丈夫です。現場がこわくても、いざとなったら、ぼくがいます。もう一回くらいはセンパイのことも助けられます。センパイには意外に思われるかもしれませんが、ぼく、刑事なんスよ」
だから、そうして口にすれば、むっとした表情が返ってきた。ナマイキな、と蔵本さんのにくたらしい顔色が眼前に浮かぶものだから、「その意気です」と答えるほかなかった。
「だいたいからして、あなたは少しセンパイをなめているきらいがある。うやまいなさい」
そんな風に蔵本さんはいっていた。ただ、ぼくには、その言葉が真意でないことなどわかってしまう。「了解です」だから、ぼくは答えてうやうやしく業務に戻るほかなかった。
「蔵本くん、坂上くん。ちょっといいかい?」
そしてドアがひらかれて課長があらわれたのは、そんなときだった。どうやら緒方係長もいるものだから東京地裁から戻ってきたところらしい。ぼくらは首肯し会議室から出た。
「小山善の逮捕状、もらってきた。捜査もやりやすくなったはずだから期限までに逮捕しなさい」
課長の訓示と一緒に逮捕状が交付された。薄いペラペラの紙であるのに重たく感じられるのは、きっと公権力の重みが加味されているからに間違いない。蔵本さんが受領した。
「明後日の二三〇〇ですか?」そんな問いに課長から、「明後日の二三〇〇」と返ってくる。
「わたしたちに残された時間は少ないぞ」
そんな課長の言葉によって時間感覚が戻ってくれば内心の緊張が高まって思えてくるものだから不思議なものだった。蔵本さんも緊張の面持ちでいるものだから同じなのだ。
「それから署長と協議して全署員を動員できることになった。ぞくにいう署長指揮の特捜本部ってやつだ」
ぼくと蔵本さんは顔を見合わせた。
「シティ東京の出入口は発砲事件後から封鎖中である。沿岸にはドローンを設置、海上ならびに海中は海上保安庁が無人巡視機を派遣している。わたしも最善は尽くしているんだ」
「全署員でローラーをやるってことですか?」
そんな蔵本さんの問いに、「シティ東京内くらいならやれるでしょ?」と返ってくる。
「たのもしいです。なら、わたしたちも早めに出ます。捜査の割振りを教えてください」
だが、ぼくたちに対する課長の答えは刑事課の誰もが予測もしていないものだった。
「きみたちは現場の捜査に出さない」と課長がいってきたからだ。なぜですか? と蔵本さんが質問した。課長は答えた。
「管轄内に潜伏する被疑者を発見するくらい警察官なら誰でも可能だ。きみたちには刑事課にしかできない仕事をしてもらいたい。いわゆる小山善の動向予測と潜伏場所の特定だ」
そう下命されて蔵本さんは少し残念そうにみえた。そして緒方係長には別の命令が待っていた。
「緒方係長。東京シティスカイの図面を持って総務課へいってくれ。すでに手配しているから通信と建築の技官と連携し電波塔の構造を解析、逮捕が間に合わない場合、電波放送中止を強制執行すべく計画をたのむ」
では課長に責任が、と係長が進言をすれば、「わたしのクビくらい安いものだろ? とばしたくなければ早く被疑者を逮捕してくれ」と返ってくる。ぼくと蔵本さんへの言葉だ。
緒方係長の抗議は、わざとだったのだ。いわなくてもわかることをわざわざ口にするのは、ぼくたちに責任の所在を確認させる意味合いがあった。
「以上。捜査にかかれ」そんな下命で各自がバラバラの部署へ向かっていたが刑事課は団結することになった。ぼくらの肩にかかる重責は、とんでもなく重たいものなのだと感じさせられた。
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