第31話
その後、ナノマシンの自己診断や病院での検査の結果、軽い打撲はおろか擦り傷すらない優良健康体だと判明した蔵本さんは異様な早さで病院を追い出され早々に公務へ復帰となった。被疑者を取り逃がしてから四十分後のことである。
その病院から帰路、車内でノアは蔵本さんの肉体を合金製だといって怒られていたし緒方係長だって感心していたのだけれども制服警察官に現状維持された事件現場に戻ってみれば課長は青い表情をして出迎えた。
「大丈夫か?」という課長の質問に、「大丈夫です」そうやって平然と答えた蔵本さんの胆力は、とんでもないと思った。蔵本さんは捜査が優先といった形で小山善の部屋に入っていった。
「被疑者を取り逃がしました。つぎは捕まえます」ぼくは課長にいった。「いまは問題じゃない」と課長は肩を叩いて一つ息を吐いたみたいに思えた。部下にはやさしい課長である。
「わたしも被疑者の逃走経路をIRシステムでトレースしていた。だが途中から追えなくなってしまった。刑事課にいる人間はみな同じだ」
課長は、そういってくるから頭をかいてごまかすほかなかった。緒方係長が割って入る。
「蔵本くんは、どこにもケガはないみたいです。外見上は。ただPTSDは検査しきれていませんので保証はできません。なにかあったときのことを考えて現場に出したくないのですが……」
緒方係長は、ぼくに聞こえるみたいにいっていた。いや聞かせていたのかもしれない。
「いま刑事に抜けられたら捜査に穴があく。本件は、われわれのみでやるのだから蔵本くんにも最後までつき合ってもらうさ」
その言葉は、さっきまで犯罪者と戦っていた人間にとって、いやぼくにとって課長や係長からのしずかな叱咤激励だったと思う。ぼくは組織から見捨てられておらず、ぼくは組織も貢献しなければならない、そんなことを暗に示しているのだと思わずにいられなかった。
だが課長からの言葉を聞いていたときに小山の部屋から淡島があらわれたら、ぼくは目をまるくするほかなかった。どうやら小山の部屋のコンピュータの捜査のため課長から連れてこられたらしい。
「たのんでいたのに、きみが、ぼくを置いて出ていったから、ふてくされちゃったもんね」
ただ淡島は、そんな冗談をいってくるものだから無線で、ぼくらの状況は把握していたらしい。そのジョーク、蔵本さんには聞かせるな、といってぼくは肩をすくめるほかなかった。
「なにかみつかったか?」ぼくが訊けば、「いや目ぼしいものはなにも」そう返ってきた。
「なにかみつかるかもって期待していたのだけれども、やっぱ一筋縄じゃだめみたいだね」
それから淡島はホログラに資料を提示してきて、
「あれから、ぼくも少し行程が進んだ。いや場合分けの段階が進んだってことだね。C一二三一は電波媒体だから、ぼくは電波に注目していたのだけれども邪道だったらしく、どうやら電波は関係ないみたいだ。情報野は活動していないからね」
そんなことをいってくるのだ。だから、さっきまで、ぼくは銃撃戦してたんだぞ、といって両肩に手を置くほかなかった。そんなことを考えられる頭脳は、もう残ってないのだ。
「ぼくはコード一二三一のメカニズムを電波の受信によって、あらかじめ情報野にプログラムされたトリガーが発動するものと思っていたのだけれども違っていたみたいってことだね。電波が受信されてもコード一二三一との関連がないんだ」
だけれども淡島は、お構いなしにしゃべってくるものだから、ぼくは小山の部屋に入ることもできず、うんうんと相づちを打ちながら出てくる言葉を追うだけで精一杯だった。
「どう思う?」
どうもこうもない、と淡島の問いに、ぼくは息を吐くしかなかった。そして少し考えて、
「なかみの記録が偽装されているからじゃないのか?」ぼくがいえば、「いや、本当に回路が繋がっていないんだよね。回路ってのはAIのプログラム回路、バーチャル回路のことだね」と返ってくる。ぼくは淡島の意に介さない不思議な表情をみて本当なのだと理解した。
「まったくプログラムがないんだよね。AIのコンピュータで考えるためのプログラムが」
そして、そんなことを口にした。大学生時代に淡島から教えてもらったプログラムの仕組みを思い出してみても話が複雑すぎて、ぼくは、なにをいっているのかちっともわからなかった。
「アンドロイドのセンサーは、たくさんあるからね。それこそアンテナやアイボールセンサーやイヤーピース、成分分析、人工皮革にも圧力センサーと形状記憶センサーが埋め込まれている。その上、ひとつのセンサーが壊れたところで代替できるようになっているからね。耳がアンテナになるみたいに」
ぼくの知らない機能があって、ぼくが思いつかなかった組み合わせがあるのかな、と淡島は嘆いていた。なんだか難しく考え過ぎなんじゃない? ぼくはいって壁に背中をあずけることになった。
「もっと簡単に考えた方がいい気がする。全国七割のAIをぶっ壊すんだから要素はシンプルに、ひとつのトリガーとひとつの機能で発動できる仕組みが理想的だと思う。複雑になるほど、あらゆる環境が予想されるところでは効果を発揮しづらくなる。もっとシンプルな要素に目を向けるのもひとつの手かもしれない」
ぼくの言葉に淡島は、たしかに、と納得していた。もしかしたら、いまのが研究者の見方と犯罪者の見方の違いなのかもしれない。淡島が研究者で、ぼくが犯罪者だ。そして被疑者は両方の視点を持っている。
ただ、「坂上くん!」と課長に呼ばれたのは、そんなときだった。みれば課長と緒方係長がくっついているものだから、たぶん捜査方針絡みなのだと直感した。淡島がいってきなさい、みたいな表情をしている。
「わたしの沙汰が厳しいと思われたかもしれんが、現実はもっと厳しい。現状、一昨日から発生している立てこもり事件のせいで本庁捜査一課や、その周辺所轄署は手すきがないらしい。みてくれが平和な本署が、なにをいっても本土の連中には取り合ってもらえん」
そして、ぼくが駆け足でよれば淡島の目の前で、そういってくるものだから驚いたのだが、
「日本技研に延期を要請しても日時になれば発動するタイマーがプログラムされているものだと予想しておくのが当然であるからシステムの延期はない。本事件は、われわれのみで解決する構えでいてくれ。わたしは裁判所にいってきみへの発砲で逮捕状を取ってくる」
そう口にするものだから、淡島の入れ知恵だ、と確信し、よろしくお願いします、と深く謝辞を述べた。
「緒方係長! 出発!」と課長が下命している。緒方係長は、すでに準備を終えていた。
ぼくは課長の背中を見送って今後について考えていたら、だんだん頭が痛くなってきた。
「捜査方針も決めなきゃいけないし本庁の協力は得られないし肝心かなめのウイルスは破れないし。今回の被疑者、どう思う?」
ぼくが、そうやって訊けば、「すごく頭がいい」と淡島の遠慮知らずな意見が返ってきた。
「けれども、たぶん坂上くんが本当にききたいのは、ぼくが本当に捕まえられるの? でしょ? ぼくじゃ、その答えはわからない。相談するべきひとは、もっと別の場所にいる」
そして淡島は部屋の方を向きウィンクをしていってきた。余計なお世話だ、と思った。
「もっとも、ぼくは今後の日本をみすえて国産AI用のオプションを開発中だからリスクヘッジはできているのだけれどもね」
淡島はわるい顏になって、そんなことを口にするものだから、ぼくは肩をすくめて、「無駄になればいいのに」と返すほかなかったのだ。ぼくは淡島と別れて小山の部屋に入った。
その小山善が借りていた部屋は普通の部屋だった。いわゆる標準的2LDKで一人住まいなら少々広いが高給取りのエンジニアなら当然といった内装だった。
家具は極端に少ない。作業用デスクがひとつとベッドがひとつ。ほかはカーテンくらいなものだった。ほとんど生活感がなく、ほとんど新品だった。冷蔵庫には飲料水、サイボーグ用の栄養食が納められていて、そこで小山が、なにをしていたのか、どんなことを考えていたのかについて内装からは、みえてこなかった。
ただ蔵本さんの気配がしないのだ。先に入ったはずなのに、どこにもいないのである。
だから、ぼくは足を進めるほかない。ぼくは横目に映ったベランダをみる。遠い横須賀の景色がみえた。それをみながら、ぼくにとって解かなければならない課題は山積みであるのを自覚することになった。だが、そこで、
「坂上!」と蔵本さんの声が聞こえてくるものだから、ぼくは、「どこにいますか?」と質問を返すほかなかったのだ。そして、「ココ」といわれてふり返ったら蔵本さんがキッチンの床、いわゆる床下収納から出てきたところがみえた。ぼくは、その様子をみてギョッとした。
「ぬか漬けでもありました?」そういえば、「もっと面白いものがあった」と返ってきた。
ぼくはフラッシュライトを点灯させる。そして暗い床下収納をみれば義体換装用の機材が詰まっているのがみえた。なかみをひらいたら笹川文彦の義体が入っていた訳で、スパイモノっぽいっスね、と独白することになった。だが、
「笹川文彦小山善説が証明されましたね。真の被疑者があらわれました」
ぼくがいえば、「次は、ぜったいに逮捕する」と返ってくるものだから蔵本さんのやる気も十分に思えた。しかしながら、現在のところ、小山善の逃亡先につながる証拠はない。
「奥の部屋はみた?」
そう蔵本さんがいってくる。「いえ」と答えれば、あなたもみた方がいい、と返ってきた。
「たぶん小山が、なにを思っていたか、わたしたちにみせたかったものがなにか、がわかるものだと思う。あれをみて、どう思ったのか、わたしは、まずあなたの意見が聞きたい」
そんなことをいってくる。ぼくは蔵本さんの言葉を聞いて奥の部屋へ足を向けた。そして最後の部屋のドアをひらいてみれば闇が広がっていた。
ただの闇である。普通なら大きなガラス窓から光が入ってくる南向きの部屋が真っ暗だった。だからフラッシュライトで照らしてみた。そして浮かび上がった光景が目に入ってきた瞬間に、まじか、と内心で出た悲鳴が口からもれ出たのは蔵本さんから忠告があっても同じことだったと思う。
そこにあったのは絵だったのだ。しかも一枚の絵。壁一面に描かれた巨大な絵だったのだ。一面といっても一つの壁にではない。ドア以外の四面(後から調べればドアにも描かれていた)に描かれた真っ黒な絵である。もっとも異常だと思ったのは真っ黒なキャンパスに真っ黒な線で真っ黒な絵が書かれていたことだ。
なんなんスか? ぼくはなかに入って蔵本さんに訊ねた。そしてセンサーも絵具に埋もれているものだから、ぼくらが部屋に入っても電灯がつかない。ましてや、ぼくのナノマシンに異常が出はじめるものだから、ぼくはECMの存在も疑わなければならなかった。
「フェライトもつかわれている」
だが、ぼくが二の脚を踏んでいる隣で蔵本さんはズンズンと奥まで進んでいっていた。
「いわゆる電波吸収材のひとつ。ココでわたしたちの通信がおかしくなるのは、そのせい」
ぼくは手近にあった壁に触れた。でこぼこしたぶ厚い絵具の感覚が白手袋の上からでもわかる。何層にも厚く塗られているのだ。
「センパイ。この絵って、だいたい、どれくらいの絵具がつかわれているんですかね?」
「わからない。でも大量……ちょっとまって。ココの箇所、ライトを斜めから当ててみて」
なにか蔵本さんがみつけたらしい。ぼくはいっていわれたようにライトを当ててみた。
「なにがあるんです?」と問えば、「すごい。ココの絵は黒の絵具で塗られているんじゃない。複数の色を合わせて塗られている」と返ってきた。
複数? ぼくもみてみれば、たしかに、かすかな光の加減で赤や紫が浮かんでいるみたいにみえてきた。あとで太田係長に成分の分析を依頼しなければならないかもしれない。
「全部の色を混ぜたってことですか?」
「違う。全色を混ぜたら灰色になる。白以外の原色を全て混ぜた。そしてコレを作った」
ぼくは困惑していた。どうして、そんなことをしたのかと思った。なにが目的かと思わずにはいられない。そしてノアがやってくる。部屋全体を照らせる作業灯をもってやってきた。変な部屋ですね、と床において電源をいれた。
光が灯れば部屋の意味がみえてきた。絵に描かれた線ではなく光が照らす影として、どんな絵が描かれているのかもみえてくる。それにココまで黒々しい絵でも状況と方法によってみせる術があるのだと気がついて、ぼくは逆に感心していた。うつっていたのは人間の絵だった。
「もしかしてコレ、人間? ひとですか?」
ぼくの戸惑い混じりの疑問に蔵本さんが首肯した。ぼくらの目の前にあるのは人間の絵だった。無数の人間の絵だ。ある者は、わらって、ある者は、うたって、ある者は、ないている。そう禍々しく快活で相反する要素を高いレベルで整合させた、そんな絵であった。
「これをココに描いてみせたってことは被疑者が、わたしたちにみせたかったってことになる。なにかのメッセージ?」
蔵本さんはいって考えている。蔵本さんが考えているということは、ぼくにもわかるということだ。どうにもこうにも絵の素養がないのが捜査の足を引っ張るとは思わなかった。
「蔵本刑事、坂上刑事。太田係長が呼んでいますので、エントランスまできてください」
それから、そんな言葉を持って立番をしていた甘木巡査があらわれる。どうやら太田係長も気がついたことがあったらしい。ぼくは、すぐにいく、といって甘木巡査に返答をしてから蔵本さんをみた。
いまだに絵に釘付けになっている蔵本さんをみていれば、ぼくは声をかけるのをためらったのだ。しかし、らちがあかなくて、「センパイ。早くいきましょう。怒られます」といって部屋から出るほかなかったのである。
「ノアにあの部屋の立体モデルを記録させておいて。できれば垂直方面のみじゃなくて水平方向のスキャンも、あとから再現できるように精密に取っておいてっていっておいて」
そして去り際に、そんなことを蔵本さんはいってくるものだから、了解です、と答えるほかなかった。
ぼくらが小山の部屋から太田係長がいるエントランスまで下れば鑑識の撤収がはじまっていたところだった。ぼくが到着するまでに仕事を終えていた鑑識係は先に署に戻って証拠の解析にかかるのだ。
「課長がいなくてな。うえにいたところでわるいが、押収品目録書にサインしてくれや」
ホログラをみせながら太田係長がいってきた。なぜなら、いまのところ現場指揮を取っているのは蔵本さんで、だから太田係長が蔵本さんを呼び出したのは妥当な線ってところなのだが、そういった類のサインは、本来、あとから課長にサインを促せば良いことなので、蔵本さんを呼び出したってのは、蔵本さんの無事をたしかめたかったってのが本音なのだ、と思わずにいられない。
「わたしは大丈夫です。どこも傷がない健康体みたいですから。やられたのは彼の方です」
だから蔵本さんは太田係長の裏腹がわかっていてサインが終わってからジョークをいってわらっているものだから太田係長は苦笑いで頭をかいていた。
「たのむから復帰早々銃撃戦なんてやらかさんでくれ。もう心配する方の身が持たんぞ」
だから太田係長は忠告する口調にならざるを得ないのだ。一瞬、空気が固まったみたいに思えた。太田係長も太田係長で蔵本さんもしめるところはしめるってことなのだ。だから、すみません、と蔵本さんは謝っていた。だがシリアスな口調に反して表情に深刻さがない。
ぼくですらわかる蔵本さんの動揺に、それくらい今回の一件が響いているのだとわかって太田係長でも、なにもいえなくなってしまっていた。誰にも踏み入れさせず誰にも干渉させない。たぶん蔵本さんのわるいくせなのだ。自分でもやめられない、無意識下でやってしまうくせなのだ。
太田係長は、ぼくをみた。現場で守れるのは、お前だからな、という視線だ。ぼくは了解しています、そう内心で返すほかなかった。そして沈黙が訪れる。みんながみんなの内心を読むべく黙っていた。三者三様、お互い内心を読み合っている沈黙だ。だから、ぼくは、ほとんど息がつまる思いでいたのだが、どうやら太田係長は、ぼくの答えに納得したらしく長くつらい沈黙をやぶった。
「あとはたのんだぞ」太田係長は、そんなことをいってくる。そして署へ撤収していった。
ぼくは息を吐く。太田係長がいなくなってから、ようやく自然に呼吸できた気がした。
「捜査の方針を立てなおさなきゃいけないし、わたしたちも署に戻る。課長に連絡しておいて」だから、ぼくは蔵本さんからいわれた命令を実行しながら息を吐くほかなかったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます