第30話




 ぼくが緊急走行中の車内で調べた結果、どうやら小山善は類まれなるエリートなのらしいことがわかってきた。二十九歳、男性。港区南麻布の出身で両親は東京大学の教授と弁護士で、自身は東京工業大学を卒業後にMIT留学、博士号を取得して現在、システムエンジニアとして日本技研で勤務しているといった具合で調べれば調べるほど普通と隔絶された存在であることが浮かび上がってきた。病歴はなし。しかし十年前のテロに巻き込まれ全身義体になった。テロの被害者がテロリストになるのは良くある。

 だから移動中に蔵本さんと小山のプロフィールを暗記している間、いやなタイプ、と表情を暗転させるのに時間はかからなかったし、ぼくらが追いつけない訳だと直感することになったのだ。インテリ系で行動力もある。教養もあって創造力がある。そんな犯人像をながめながらサイレンであてられる車内で冷静を保っていたのは、たぶんノアくらいのものだ。

 それから蒲田課長から緒方係長と甘木巡査を応援で出したと無線指示が飛んだのは、ぼくらが小山のマンションに到着したくらいだった。三十分差、だいぶ到着まで時間は掛かるが、それでも年末対応で大騒動の新島署地域課から三十分ほどで応援要員をかき集められたのなら十分に御の字だった。だから、ぼくは緒方係長らを待たずノアを小山の部屋がみえる位置に配置し部屋へ向かった。

 小山善のマンションはシティ東京の南端、その海辺につくられた地上五十二階、部屋数七百二十五部屋の巨大なものだった。円筒状の外壁から中心部は空洞でショッピングモールや映画館、その他用品店が併設されたひとつの街といった様子だった。外周は公園で囲まれ緑と青のコントラストが整っているように思える。

 六階、六〇三号室。ぼくらはエントランスで管理AIと交渉し捜査活動中の身として特例を許されなかに入ることができた。階段を昇って六階に到着する。IRシステムはマンション内に設置されていない。最後に小山善の姿が確認されたのは七十五時間前、近隣道路の監視カメラだった。

『任同取れなかったらヤバいっス。令状とって身柄拘束した方がいいんじゃないっすか?』

 ぼくは六階のフロアに至る前、階段で蔵本さんに提案したことを思い出した。しかし、

『一回、失敗した捜査に裁判所が早急に令状出すとは思えない。最低でも二日は必要になる。そうしたら三十一日になって間に合わない』

 そう蔵本さんが答えるものだから、ぼくは反論する材料なく後に続くほかなかったのだ。

『なにを話すんです? テロリストですかってマジで訊くんですか? どうするんです?』

 そんな風にいっても蔵本さんは自信満々で部屋まで歩いていくものだから、ぼくは半分あきらめていた。

 そして到着する。六〇三号室。昼のマンションは静かで人もいない。ただ、ぼくらの会話がこだまするのみで、なんだか不気味というかヘンな気持ちになってくるようだった。

 ノック。反応なし。ナノマシンによる生体認証によってドアの向こう側に情報が開示されているはずでノアから連絡が入れば無理にでも押し入る覚悟だった。

「小山さん。いらっしゃいますか?」蔵本さんが再度、扉を叩いた。反応なし。もしかしたら本当に不在なのかもしれない。ぼくは扉の隣に立って蹴破る準備をはじめる。腰の警棒を確認し手首を回し足首を回し、いつでも突入できる体制だった。だがノアからの連絡はなかった。

「どうします?」と蔵本さんに訊いた。「緒方係長がくるまで待機。出入口で立ち番して」

 ぼくの質問に、そんな答えが返ってきたタイミングで、ぼくはエレベーターからあらわれたきた一人の人影に気がついた。ぼくらの方向に歩いてくる男である。コートにハットといった具合だ。

 だが、蔵本センパイ、と口から言葉が出たのは、その男があやしかったからではない。

 コートとハットの間からのぞく顔が、どこから、どうみても、ぼくらが車内で暗記に暗記を重ねていた小山善にしかみえなかったからだ。時間が止まった気がした。だから、ぼくは野生動物が出合い頭、その呼吸で飛びかかるか、飛びかからないかを決めるっていうのは、本当のことなんだ、と思った。

 蔵本さんが視線を動かさずに、そちらをみている。ぼくは、いつでもダッシュできる体制を整えていた。だが足が前に出ず逆に蔵本さんを引っぱって死角に隠れたのは、その男が背中に手を回し再び引き抜いた手を向けてきたのがみえたからだ。

 撃たれた、と自覚したのは反射的に隠れた後、低く大きな破裂音が五回続いて周囲の外壁が飛び散ったのをながめていたときだった。銃撃が止む。無自覚にドローした拳銃を握って蔵本さんの安否を確認した。大丈夫ですか! ケガは? 大丈夫! そんな会話だったと思う。

 そして伏せていた体制から立ち上がって銃声がした場所をポイントしながら廊下をみれば小山の姿はなかった。ぼくは蔵本さんの制止を聞かずに後を追った。いわゆる訓練ってのは、すごいなと思ったのは階段をクリアリングしながら下っているときだった。無自覚に体が動く。条件反射みたいに染み付いた動きが実行できる。警察学校や捜査講習で朝夜やらされていた訓練が実際に有効なのだと気がついた。

 五階の踊り場でパイスライス、肩口にのぞいた銃口がみえて首を引っ込めれば、そこにあった壁が吹き飛んだ。銃声が止んでからバタバタという足音が聞こえた。ぼくは銃があった場所にポイントしながら慎重に階段を下った。それから慎重に壁から廊下へ照星をのぞかせれば、ぼくに数発の弾丸を放った主は消えていなくなっていた。耳小骨には蔵本さんが発報した至急報がうるさくひびいている。

 ホログラに映ったマップをみれば蔵本さんは六階にいた。ノアは、もっとも近いエントランスへ走っているのがわかった。想定外が重なって被疑者を取り逃がしたら課長に怒られる! といった現実からくるプレッシャーとアドレナリンが過剰分泌からくる、どうとでもなればいい! という自信過剰によって感情が混濁しているのがわかった。ぼくに感覚が研ぎ澄まされ過ぎて足先の感覚だって正確につかめた。

 ぼ四階に下る。ぼくを撃った犯人の姿はない。悲鳴が聞こえた。右側からだ。円筒状の建物は中心が空洞だからコートをたなびかせ走る姿が良くみえた。止まれ! と警告した。

 逆に銃弾が返ってきた。

 ぼくが追いかける相手は明確な殺意を持って、ぼくを殺しにかかっている。ケモノとケモノの戦いだ。人間と人間ではなく。だから、ぼくだって覚悟を決めなきゃいけないのだ。

「四階です!」と無線に報告をいれて、ぼくは追った。そして、やつは、ちょうどいいタイミングでひらいたドアを蹴って部屋のなかに入っていった。

 銃撃戦のないシティ東京で破裂音になれていない日本人は、なにかの災害かと思って様子をみるため部屋を出てしまう。本来なら事態が収まるまで部屋に隠れていることが最善なのに、なれていないせいで逆の行動を取ってしまう。いまが、それだ! 民間人に被害を出す訳にはいかない。

 ぼくは犯人が消えた部屋まで走った。犯人から押しのけられ頭を打った家人を射線の通らない場所まで引っぱって、ぼくは部屋に入った。ガラスの割れる音が聞えた。マップをみれば、そこからは併設されたショッピングモールにつながる通路がある。ぼくはクリアリングを急いで犯人を追った。コートの端がみえた。

 安全装置を解除しながら部屋に踏み入れば犯人の姿はなかった。かわりに割れた窓ガラスにカーテンがなびいているのがみえた。そこから下に飛び降りたのだ。だがしかし、そこで、ぼくが失敗したのは、逃げられた! と思い焦って窓から視線を出してしまったことだった。頭を出した瞬間に銃声がした。犯人が連絡通路で待ち構えていて、そこから撃たれたのだ。

 ――ぼくはアドレナリンで戦闘状態に入っていたから、いまのは近かったな、とのみ理解していたのだけれども、あとからわかったのは一発が、ぼくの耳に着弾していたのとコンマ〇三秒ズレていたら頭蓋骨に被弾していたってことだった――銃声がやんで五秒ほどして、ぼくは勇気をもって窓から銃を構えた。犯人が逃げているのがみえた。だが発砲できない。連絡通路内部に民間人がみえたからだ。

 ぼくも連絡通路に飛び込んだ。接地した瞬間に瞬時に伏せて射線が通るのを予防したけれども撃たれることはなかった。前方にポイントしながら視線を上げれば犯人の姿はなかったからだ。再び悲鳴が聞こえた。下からだ。だから、ぼくは走った。そして犯人がひらいた下部へアクセスできるハシゴ窓を発見した。パイスライス。たぶん、いないと思ったけれども、わざわざ基本的なルームエントリーの手順を踏んだのは、ぼくたちの仕事が万が一に備える仕事だからだ。

 ショッピングモールのなかに入った。ぼくがいるのは屋上とフロア天井の間にある中空だ。通風のためのダクトや基礎のための柱が縦横無尽に走っていて視界が三メートルもない場所だ。だから、ぼくは慎重に進んだ。犯人が待ち構えていれば不利なのは、ぼくの方だからだ。

 神経を研ぎ澄まし痕跡を探す。異様なまでにあふれ出るアドレナリンが視覚、聴覚を花瓶にしているせいで床から一般人の声が聞こえた気がした。ぼくは、さらに神経を集中させる。そして、かすかに本当にかすかにだがダクトにぶつかった音が聞えてきた。後方からだ。犯人かもしれない! ぼくは、その方向へ走った。

 近づけば確信へと変わった。たしかに足音が聞えてくる。たしかに人の気配がする。ぼくは急ぎながら慎重にという相反する性質をもった駆け引きのなかで確実に犯人へと迫っていたのだ。だが犯人も犯人で優秀だった。ぼくが追いついたと思えば、ふたたび天井につながる通風孔から脱出し建物の外に出てしまっていたからだった。

 ぼくは罠だと直感した。頭をのぞかせれば撃たれると確信した。だから、ぼくは一旦ひき返し、そして正規のルートから屋上に上がった。クリアリング。四方にポイントし犯人がいないのを確認して屋上に出た。

 ロックのかかったドアを蹴破る間、ぼくは完璧だと思った。どうして完璧だったかといえば、ぼくは完全に犯人の思考を読めていたからだ。あそこを曲がる。ここをいく、そんな風に。だから、ぼくが正規のルートで屋上に上がったのは間違いなく正解だったし完璧な答えだったのだけれども、想定外のインシデントがひとつあった。あそれは足もとにカモメがいたことだ。大量に。だからクリアリングの瞬間にカモメが舞った。だから、ひるんでしまい視界がズレてしまった。その上、犯人に隙をつかれて位置がバレてしまった。

 ふたたび銃声がした。

 ぼくの周辺で銃弾が跳びはねた。たぶん、いまの銃撃は牽制で、ぼくを狙ったものではなかったと思う。それでも、ぼくの戦意を削ぐには十分すぎるほどの効果があった。だから一瞬戸惑って、しかしぼくは銃声が止んでから自分を鼓舞して最大限の勇気をもって頭を出すほかなかったのだ。

 照星のさきに犯人の背中がみえた。にげている。だが、ぼくが拳銃を構えても狙えきれない。なぜなら遠すぎたからだ。だいたいの目測で七十メートルほどあったからだ。照星で上半身が消えるほど離れたら撃つな、と警察学校で教えられているのだから、当然、ぼくは拳銃をおろして追跡を続行した。

 ひろいショッピングモールの屋上で少し余裕ができた。ぼくがホログラのマップをみれば蔵本さんが先行しているのがみえた。ノアは捜査車両で追ってきている。よくできた同僚だ、と思い、そして同時に数十秒後の未来においてみえる光景が浮かんできて、ぼくはぞっとしてしまった。

 蔵本さんがいる通路と犯人が逃げる屋上は、ちょうど死角になっていて出会い頭でぶつかることになるのがわかったからだ。だから、ぼくは無線で警告を飛ばした。屋上に出るな、と怒鳴ったと思う。でも遅かった。その瞬間には、ぼくの視界に蔵本さんが飛び出してきて犯人とかち合ったのがみえてしまったからだ。ほとんどスローモーションである。

 あとからおこなった実況見分でわかったのだが、さいわい、蔵本さんは初手で犯人の拳銃を叩き落としていたらしい。だが男女の体格差には勝てなかった。

 訓練された警察官でも一瞬の隙に足をすくわれることがある。蔵本さんだって例外ではなかった。ぼくがみえたのは警棒を構えた蔵本さんの懐に、すでに犯人が潜った後の光景で、完全に足が地面から離れ投げ飛ばされた後の光景だった。そして、ぼくにはフェンスを越えてショッピングモールのいく嬢から蔵本さんが落ちていくのがみえた。数十メートル先の悲劇である。

 犯人と目があった。ぼくは構えた拳銃の引き金を引けなかった。そして犯人が階下に逃げていくのがみえた。だが犯罪者確保といった次元の話ではなくなってしまった。蔵本さんの救出が最優先だったからだ。それで、ぼくは無線を飛ばすのも忘れて走ったし蔵本さんが落ちた場所をみて自分が飛び込むのも臆することはなかった。

 運よく――いや、運悪く蔵本さんが落ちた場所はショッピングモールから飛び出したデッキの一部だったのだ。隣接する海の上部に建設されているものだからデッキから落ちれば海上に着水することになる。ぼくが駆けつければ蔵本さんが作った白い波紋がみえていたし蔵本さんが浮き上がってこないのもみえていた。

 だからジャケットを脱いで、ぼくも蔵本さんが落っこちた隣十メートルの地点に飛び込んだのである。ほどほどの恐怖心はあった。だが、戦場で戦友を見捨てる兵士がいないのと同じく警察官だって仲間の警察官を見捨てることはできない。着水したときには腹をくくったし水中で蔵本さんを探しているときに覚悟はできていた。

 そして潜水。みつかった。ぼくの下方三メートル、左方五メートル。蔵本さんが気を失って漂っているのがみえた。ぼくは意を決して沈み、そのまま蔵本さんの下に潜って背中から抱きかかえた。頭部を固定し水を蹴って上昇し水面に出た。息ができる。酸欠でくらくらして気持ちが良くなってきていた感覚がなくなって、肺が酸素を求め強引に呼吸を再開させる。

 どうやら蔵本さんもコホコホとせき込んでいるから気がついたらしい。ぼくは蔵本さんを抱えたままフロートの脚まで泳ぎ、そして背中に抱え直した。山岳救助の訓練で要救助者を背中に抱えて下山するシチュエーションがあったことを思い出す。やたらめったら厳しい山岳路を人一人抱えて下るアレだ。ぼくは警察学校時代、あれ以上に厳しい訓練はないと思っていたし教官も確信していたのだけれども、いま目の前にある現実は確実に、あの訓練とは比較できないほど厳しいものだった。だから今は、たぶん機動隊に入らなければ使わないはずの根性が試されようとしているのだと思った。

 そして、ぼくは脚につくられた打ち込み式アンカーに手をかけた。片一方の手は蔵本さんを支えているから右手のみだ。その腕ひとつで水にぬれた成人二人を引き上げるのだから、もう涙が出るかと思った。だがやらなければならない。水辺にいたら犯人から撃ちおろされる危険があったからだ。ぼくは力を込める。上半身が浮かんだ。だが一瞬で力つきて一回で沈むことになった。

 もう一回だ。ぼくは再び腕に力を入れて上半身を水から浮かび上がらせた。もはや根性である。そして二段目のアンカーにアゴをのせ体重を分散させ足を水面から出すことに成功した。あとはマシだった。脚力は腕力に比べて何倍もあるし切れかかっているがアドレナリンといったブーストもあったからだ。

 一個一個、麻痺する苦痛に耐えて悲鳴にならない悲鳴を上げながらのぼった。そして終点がみえてくる。ぼくはアンカー上部のフタを頭で殴って飛ばして地上に出た。ココを突破すればノアが助けてくれる、と信じて。だが、ぼくらが地上に出てもみなれた風景はやってこなかった。むしろ逆、まったくみなれない無機質な質感と無人の空間に出ることになったのだ。なぜなら、そこはショッピングモールの基礎とメガフロートの基礎の間にある排水施設だったからでコンクリートの天井と柱で構成されている空間だったからだ。すなわち、ぼくたちは海に落ちて、ずぶ濡れで、それから救援もない空間に到着したのである。

 ぼくは蔵本さんを背中からおろして、その柱の一つに座らせた。ほとんど意識が戻ってきていて後半は自分の足で体重を支えていたから蔵本さんの自由意志にまかせても良かったのだが、あの高さから落ちたのだ。だから体内、それも骨や神経系が損傷していたら外部からみえないから慎重にならざるを得なかった。

 だが会話はない。蔵本さんは被疑者に不覚を取ったことを悔いていた。ぼくだって仲間を危険にさらしたことを後悔していた。だから、お互い、なにもいえずいわずに視線のみで会話をして、ぼくは蔵本さんのそばから離れたのだった。

 それから、ぼくは、だだっ広い空間から抜け出る方法を探してみる。みた感じ全面がコンクリートで覆われていて光源といえば、ぼくらがやってきたメガフロートの足もとしかなかった。非常口もないのかもしれない。だから、どこかに出る場所が、とあわい希望をはじめは抱いていたものの暗闇のせいで十メートルも視界が通らないのだから探してもしかたがない、と確信することになって、ぼくはあきらめて楽観的にならざるを得なかったのだ。

 ただ安全が担保されたことを体も理解しはじめたのか交換神経から自律神経にスイッチしはじめた。アドレナリンが切れて寒さを覚えた。当然だ。十二月の海に飛び込んで全身ずぶ濡れのままでいるのだから寒くないはずがない。次第に時間が経つごとにガタガタと歯の根が合わない感覚がしていたが、たぶん蔵本さんも同じだったらしい。だから蔵本さんは一人で、ぼくから離れたところにいって、なにもいわずに上着やシャツをぬいでギュッとしぼって水分を飛ばしていた。ぼくも自分の服をぬいでみたが、それでも温まらなくてカチカチと全身がふるえることになったのだった。気温はゼロ度近い。だからナノマシンが警告をわんわん奏でているおかげでノアが数分後にやってくるはずだから心配はしていなかったが寒さはいかんともし難かった。

 ただ蔵本さんは、ぼくにあれこれみられて恥ずかしくないのかと思わずにいられない。

 いや、お互いに死線を超えた身だからお互いが半裸であってもなにも感じない段階まできてしまっているのかもしれないけれども――たぶん自分の命を預けた相手に恥ずかしさがないのと同じく――でも、だからといって、なにも気にならない訳ではなかった。無意識を意識すれば逆に意識が助長されるみたいに、ぼくの興味もおさえれば、おさえるほどに加速されていく。だから、ぼくはお互いに無言で、しかし、だからこそ相手の内心を推察してしまうみたいに神経が研ぎ澄まされるものだから必死に鈍感を装うほかなかったのだ。

 たとえば蔵本さんの筋肉質な肩や二の腕、肩甲骨、それにともなったふくらみなどである。しかし、もっとも気になる要素は、もっと別の場所にあった。それは蔵本さんのスポーツブラから腰にわたってみえるいくつかの傷跡だった。四つある、ぼくにとっては、みなれた傷跡で銃創だ。しかも正中線にそった銃創である。頭のなかで太田係長の言葉がよぎって、あれはこれをいっていたのかと直感することになった。

「………」

 蔵本さんは無言でいる。ぼくの視線には気がついているみたいにみえているが、なにもいわない。どうやらお互いに、なにを考えているのか、といったことを読んでいる気がする。お互い腹の読み合いだった。といっても、ぼくとしてはジロジロみていた自覚はなかったが、だんだんと背中ごしに『みすぎ』って怒られている気がしてきて、ぼくは視線をそらすことになったのだ。

「自分のペアに隠しごとはできないね」そう蔵本さんがいったのは、そんなときだった。

「なにがです?」ぼくは無関心を装ってみたけれども、どうやら、その発想は見抜かれていたらしい。

「わたしの背中が気になるんじゃないの?」といってくるものだから、ぼくは降参した。

「捜査中のケガですか?」ぼくが訊ねれば、「そう」とひと言蔵本さんは言葉を発した。

「連続強盗殺人事件の被疑者を追っていた。わたしが内偵していて証拠をつかんだところだった。でもバレた。回収場所にはいけなくて一人で逃げた。そして、けっきょくみつかって撃たれた」

 そんな風に淡々と蔵本さんは語っていた。まるで、ひどく自分のことじゃないみたいに。

「合計四発。いまのわたしの体は右肺三分の一、左肺四分の一、肝臓周辺、腎臓、ろっこつ三本、右心房、右心室、背骨三つが人工臓器。お医者さんからは手術中に三回心臓が止まっていたっていわれた。同じく内偵をしていた子は助からなかった」

「被疑者は?」と訊いたのは失敗だった。

 なぜなら表情が固まってしまったのがみえたからで目線を伏せたのがわかったからだ。

「死んだ。とどめをさされる前に護身用――二十二口径を全部、頭へ叩き込んでやった」

 そんな蔵本さんの告白を聞きながら、ぼくは想像することもできなかった。当時の様子も苦悩も、ましてや、ぼくが事件捜査のために死んでもいいといったことに反論したときの感情も。

「センパイは、だから、あれほどに――」と蔵本さんを怒らせてしまったときのことを思い出して無意識に口にしていたら、「誰であれ自分が死ぬのはこわいもの。わたしは他人でもこわくなってしまった」そうやって返ってくるのだ。

 苦労知らずのエリート刑事ではなく死線をかいくぐった警察官。おのれの才能のみならず信念をもった女性。そんな風に、だんだん、ぼくのなかで蔵本さんの印象が変化しつつあったのは良い兆候だった。

「十二月二十四日は同僚の命日だった。一年ぶりに会いにいったらあの事件を思い出した」

 そう蔵本さんはいった。わき上がる痛みに耐えるべく自分の肩を抱いて、しずかにいった。ぼくは蔵本さんの内心が手に取るようにわかった。

「しかし、そんなことがあったのに刑事を続けているのは凄いです。素直に尊敬します」

 ぼくがいえば、「過大評価」と蔵本さんはぬれたシャツを着ながら首を横にふっていた。

「わたしが刑事をやっているのは絶望を中和させるため。自分を守れなかった恐怖をマヒさせるため。自分は犯罪者に負けていないと毎日いい聞かせるため。わたしは自分のために刑事をやっている」

 すこしの沈黙を経て蔵本さんは「あなたは答えが出た?」と訊いてきた。どうして警察官になったのか? の答えだ。

「ぼくは、どうして自分が警察官をやっているのか、まだわかりません。警察官になったのは、どうしてか警察官になりたくなったからで市民を守るとか犯罪をなくすとか、そういった大義はありませんでしたから。ぼくは警察官になるものだと思っていましたし警察官になれば、なにか変わるのかもしれないって一心でした」

「あなたは、あなたの絶望があって警察官という人生を選んだ。わたしは警察官という人生を選んで絶望が生まれた。自分の答えをみつけることで自分のすることがみえてくる」

 蔵本さんはいっていた。自覚したことのない意見だったから、絶望? と内心で訝しむほかなかった。

「わからないことだらけです。蔵本さんがなにを考えていらっしゃるのかも、ぼくがなにを考えているのかも。ぼくの答えなんて、いつになったら出せるのかすらわかりません」

 ぼくがいえば、「人生はそんなもん」とシリアスな話題とは裏腹に蔵本さんの楽観的な言葉が返ってくるものだからわらいそうになった。

「人生ってのは自分で答えを出すのではなく自分にある答えをみつけるものだから。はじめから答えは決まっていて、その答えに合う理由をみつけるのが人生ってものでしょ?」

 だから、そんな感じで蔵本さんの楽観には深い思索があるみたいにみえたから藪をつかなかった幸運に感謝するはめになった。

「蔵本さんは自分のすべきことをみつけられましたか?」

 ぼくは訊いた。蔵本さんは考えていた。そして、「たぶん」と首肯してふり返ってきた。

「いつかあなたもみつかるはずだから素直に自分の人生と正面で向き合って生きなさい」

 そう蔵本さんがいっていた。それから数秒して、たんたんたん、という足音が聞えてきた。ノアの足音だ。ぼくは聞きながら蔵本さんの言葉を反芻しかみ砕いて意味について考えを巡らせていた。


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