第25話




 あれから三時間と少し。ぼくはカエサルからデータが戻ってくるまでの間、デスクに座していることしかできなかった。なにもすることがないのである。ぼくたちから被疑者につながる情報もヒントも消え去ってしまった。

 いや科研によるコード一二三一分析が終了すれば捜査状況も大幅な進展がみられるはずだ。けれども国家機関なみのセキュリティーが掛けられているから、といって淡島が相当に苦労しているのをみたら望み薄なのは間違いなかった。だからこそ、ぼくにとって蜘蛛の糸、たったひとつの希望である川島の会計帳簿暗号に一縷の望みを託すのも無理ないことだった。

 ところでノアは、といえば国税局に連れていかれた川島の取り調べライブ映像をみている。あれからずっとである。あくなき探求心といったところではなくノアもすることがないのだ。ちなみに課長は署長と打ち合わせをしていて今も緒方係長は書類に埋もれている。

「まだいたの?」

 それから、ようやく蔵本さんが休憩室から出てきた。かすかに青い絵の具が指先についているところをみたら、趣味の絵を描いていたのか、と驚きながら思わずにはいられない。

「川島の会計帳簿がカエサルから戻ってくるの待ちです。それに寮に帰っても、することないので署にいます」

 ぼくがいえば、「やることがないね」そうやって蔵本さんは一個のデータをわたしてきた。

「刑事警察の基本は身辺調査よ。やることならたくさんある。川島の身辺に、あやしい人物がいた」

 そして、そんなことをいってくるのだ。あやしい人物? と怪訝にならずにいられない。「川島の周辺は調べましたが、そんな人間はいませんでした。どんな人物なんです?」

 ぼくは蔵本さんからもらったデータをひらく。それは川島と男が写った静止画だった。

「コイツが、あやしい人物?」

「ひとことでいえばジョン・ドゥ。たしかな記録がない。誰なのか、まったくわからない」

 なんですって? ぼくの言葉にノアが視線を上げた。両刑事、どうしました? といった様子である。

「戸籍はあるんですよね? IRシステムに無戸籍の人間があらわれたら警報がなります」

「戸籍はある。けれども戸籍があるのみ」いって蔵本さんはホログラに戸籍謄本を表示させた。

「笹川文彦。三十一歳。男性。住所は北海道釧路市柏木町五番六号。ところでココからが問題なのだけれども、現在、釧路市は人口が一人もいない完全にゴーストタウンになっている」

 本当ですか? ぼくがいえば、「本当」と返ってきた。

「それで笹川文彦のデータを調べてみた。幼稚園から小学校、高校、大学、すべての教育機関、病院のカルテ、個人番号、個人特定にいたる全てのデータに該当なし。銀行口座も」

「どこかの山奥で狩猟採集をやっているのかも。被疑者かもしれないっていう証拠は、ほかにもあるのですか?」ぼくが訊けば蔵本さんは、わずかに首肯した。

「笹川文彦の痕跡を追ってみた。川島には三回会っている。最初は二一〇三年の五月十三日。次は同六月一日。最後に翌年十一月三日。ただ笹川文彦の足跡は以上三日の前後四十八時間以内で消えていたことがわかった。しかも、それ以外に笹川文彦がシステムにかかった記録がない」

 へえ。ぼくは犯人がやってくれたトリックに目をひかれたのだけれども、その前に気になったことが、もう一つあった。どうやって蔵本さんが笹川を発見したかってポイントだ。

「センパイは、どうやって笹川を?」

「どうやってって普段、警察官は犯罪歴の多さに焦点を当てるけれども、わたしたちは今まで被疑者のトリックに全部ハマっていた。だから、逆に川島に会った人間で犯罪をやってない順番で人間を調べてみた。そうすれば生まれてから一回も犯罪歴がない人間がいたって訳。ただの視点の転換」

「AI捜査の弱点ってことっスか? いまどき、そういう大量のデータの処理はAI任せですから問題がなければ上がってこないって寸法ですね。ぼくら人間じゃなきゃ発見できない情報操作っスね」

 だから、ぼくは、そうやって口にするほかなかった。ほかにも気になることはあるが、

「システムにかからないのはカメラを避けているとか?」ぼくの質問に、「ナノマシンの痕跡すら残ってないからわからない」と返ってきた。ぼくは内心をくすぶられる感覚がした。

「ネットに接続できない環境にいるか、初めから笹川が存在しないのか……。どこかにIRシステムの抜け道があるんじゃないですかね?」

「世界最高の国民監視システムに侵入するのは不可能」と蔵本さんは肩をすくめていた。

「それもそうっスね……」と沈黙するほかない。しかし、そんな沈黙を破ったのは意外にもノアだった。

「カエサルからデータの返答がありました。かなりの量になりますが、ご覧になりますか?」

 そんなことをいってくるのだ。ぼくは「当然」と返してデータをホログラに出した。そこに記されていたのは裏帳簿に関する詳細な指示内容と証拠隠滅の方法だった。たぶん日本技研が川島に与えた指示書といったところらしい。

「あらあらあら。わたしたちじゃ手に余る品物が出てきたじゃない。本社からの指示と確定日付、etc. etc. 全てが同じ内容なら脱税に深く関与しているってことで日本技研も大ダメージね」

 いいながら蔵本さんは唸っていた。それを川島が削除せず本社にもわからないように保存していたといことは、おそらく川島も川島でシステムの歯車に対抗してみあせた、という内情だったのかもしれない。いわゆる犯罪教唆、日本技研も日本技研で川島に責任を被せて知らん顔ができる状況では、なくなってしまったらしい。

「老いてなお気骨あるものは賞すべきかな。あのオジサンもやられっぱなしじゃなかったってことね。大企業の大きな歯車を狂わせるくらいには大きな小石だったってことみたい」

 蔵本さんは善戦した小兵を褒める口調だった。そしてノアが重要なことに気がついたのは、そんなタイミングだった。いって自分で集めた日本技研の捜査資料を精査している。

「もしかして同じものが日本技研のデータベースかコンピュータに保存されているんじゃないですか?」

 どういうことだ? ぼくは訊いた。

「日本技研本社からバレた場合のバックアップが必要なはずです。それこそ本社にいながら本社の管理から逃れられる場所にあるみたいな環境下で監視も用意におこなえる状況の」

 そんなノアの発言を聞きながら、たぶん、ぼくと蔵本さんの頭のなかには一つの同じ概念が浮かんでいたに違いない。

「ビックMプロジェクト」だから同じタイミング同じ口調で口にすることのなったのだ。

 たしかに日本技研本社からみつからずにデータを隠すには、あそこしかなく、日本技研がブレインジャパンなみのセキュリティー体制なら、もっとも安全な場所に間違いない。

 だからこそ蔵本さんも、ぼくと同じことを思ったのだ。いわゆる刑事のカンってやつなのだ。

「もし仮に笹川が被疑者もしくは被疑者と深い関係にあるなら川島との接触を通じて意図的にマルウェアを仕込めばBM計画へ川島名義でバックドアを作ることができるはずです」

 やっと点と点が線で繋がったと思った。

「国税局にいきましょう。川島と話すんです。もしかしたら、なにかわかるかもしれない」

「国税局に連絡をいれて。あっちにはひとつ貸しがあるから断られない」と蔵本さんの下知がとんだ。「了解しました」とノアが即座に回線をひらき蔵本さんがコートを取った。

「みんな刑事は失敗から学ぶ。わたしも、たぶんあなたも。今回のことは覚えておいて」

 そして、そんなことをいってくるのだ。ぼくは、わかりました、と蔵本さんについていくほかなかった。


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