第22話




 ぼくらが追う川島正吾の在籍する日本技研工業株式会社、いわゆる日本技研は第二次世界大戦後に創業した歴史あるメーカーである。また有名自動車会社が母体となっていることから由緒正しい日本企業といったイメージが強く日本技研という名前を聞けば、ぼくら警察官とは比べものにならないくらいの高い給料をもらって、ぼくら警察官とは比べものにならないくらいの落ち着いた職場でマジメに勤務しているといったイメージが初めに浮かんでくる。

 だが、その実、その腹のなかに大犯罪者を抱えているとは社内外の誰もが予想しなかったはずだ。

 どんなに正確なクレペリン検査を実行しても、その人間の深層心理を正しく読み解くことはできない。なにを考え、なにを感じ、なにを思うのか? そんなことは、いかに科学技術が発展して、あらゆる分野の秘密が明らかになっても、しかし人間の核心は神秘のベールで覆われていて、それを剥がして理解するのは不可能だ、とあらためて神様が忠告している気分にさせられる。

 ぼくたち人間は神様になりたくて科学技術を発展させてきた。天にも届く塔を建築し言語を統一し世界を一つにさせた。そして、あらゆることをしてあらゆることをしない神として世界を支配し繁栄してきた。だから、いくら死んだとはいえ天界におわす神が、ぼくらの厚かましさをみたら苦笑いするに決まっている。それこそバベルの塔みたいに再び言語を分断し人々を各地に散らしてしまうかもしれない。

 それこそ現状を憂いた神として傍若無人な人間に強烈な鉄槌を落とすように、ぼくらがつくったアダムとイブを抹殺して再び世界を混乱に陥れ高慢な人間を無知の底に叩き落とすべく巨大な犯罪を画策した――

 ただ、そうやって考えれば考えるほど今まで作ってきた犯人像と川島正吾のプロフィールがブレていくのを自覚することになった。どこかおかしい。どこか変だ、なにか間違っている。そんな違和感が胸のなかで、だんだんと大きくなっていた。

 しかし、ぼくらにとって川島正吾という餌には強烈な誘引がある。ぼくらの目の前を獲物が掠めていったような誘引が……。だから、ぼくは蔵本さんの進める捜査の準備に正面から異議を唱えることができなかったし署に戻ってから長く課長のもとへいっていた蔵本さんの打ち合わせた事項を聞く間も、どこか別の場所に本心がある感覚がして上の空だったのだ。

「課長が湾岸署の刑事課へ協力要請をしているから、わたしたちが川島を任意同行で引っぱれることになった。いまから自宅の間取りと周辺の地理を覚えておいて。わかった?」

 だから、ぼくは蔵本さんが話す内容が、まったく頭のなかにはいってこなかったのだ。

「家宅捜索令状って取れました?」それで訊き返せば、「そういったじゃない」と蔵本さんからあきれた声が返ってくるのだ。

「わたしたちが家内を捜索中、あなたは川島の監視をして。課長と係長も同行するから」

 ぼくは、そんな指示に、了解です、と答えるほかなかったのである。ぼくにとって警察官人生初めてのガサ入れであるのに気分が晴れないのは、たぶん柄にもなく緊張しているからだと思った。

「いまからナーバスになっていたら被疑者が出すサインを見逃す。わたしたちの出発は一六〇〇。だから、それまで裏の道を走っていなさい。すこしはマシになるでしょうから」

 そう蔵本さんはポンと肩を叩いていってしまった。その背中をみても、ひと言も言葉にならず口もひらかない。普段は想像もできない課長も係長も忙しく回る課内で、ぼく周辺の時間が止まっているみたいに思えた。

 そして坂上刑事、と呼ぶノアに連れられ、ぼくは刑事課を離れることになったのである。

「坂上刑事が捜査で心配なさることはないと思います。いまの坂上刑事は蔵本刑事についていくことが任務といったところですから捜査で手柄を立てるといったことは、お気になさらないでよろしいのです」

 だから初任科講習よろしくキビキビ旧江戸川人工島の裏道を走っていてもグチをもらさずにはいられないし隣を自転車で付いてくるノアにたしなめられるのもしかたなかった。

「そんなことを心配しているんじゃない。もっと別のことだ。それこそ、ぼくらがやっている捜査の方向――といった話だ」

 ぼくがいえば、それを考えるのは課長の仕事です、とノアは自転車で追い抜いていった。

「われわれ刑事課が全力で捜査する事件ですから蔵本刑事や坂上刑事が考えることではないと思います。それこそ課長や署長、あるいは警視庁本庁の判断を要することもあります」

 ぼくの内心を知らずにノアは、そんなことを口にする。――そんなことではない、そんなことではないんだ――

「川島正吾は、なにを思っていたのかって考えたことあるか?」

 ぼくは、ぼくの前を走るノアに訊ねた。ノアは考えラチェットが回る音が聞えてきた。

「わたしはプロファイラーではなく、実行する権限がないので考えたことはありません」

 たしかにノアには不可能だった。しかし川島正吾について考えれば必ず今回の事件の犯人ではないといった違和感が生まれたはずだから少し残念にも思った。

 はじめに川島正吾のプロフィールは凡庸を極めている。

 川島正吾。男性。四十七歳。二〇五八年鹿児島で生まれる。八歳で静岡県に転居。それからは静岡で生活する。小中高専の成績は上の下。いたって本人はマジメで責任感や倫理感があるが頭でっかち、いわゆるマジメくんである、と調査書で書かれているように川島のようなタイプは自分で軸を持たないタイプで自分の外側にある軸にしがみついて正しいは正しいと妄信する手合いだ。

 ぼくにとって一番嫌いなタイプで、ぼくにとって一番厄介なタイプだった。しかし、だからこそ、ぼくは川島のような人間は決して大犯罪をやらかす人間ではない、と確信していた。なぜなら核心に自分の軸がない人間は今回みたいに入念な計画に基づくある種の思想を体現する犯罪は向いていないからだといえたからだ。

 サザランドが曰く犯罪は法律違反を好ましいとする定義が好ましくないとする定義を凌いだときに生まれるのだ。しかしながら川島正吾は、その相反する定義が自分のなかに存在しない。いや暴動や革命といった社会の秩序定義が崩れた瞬間に流行にのった若者のごとく万引きくらいはやからすかもしれないが日常における法律違反の定義が自分にない人間に今回みたいな自ら率先する犯罪の実行は不可能だ。

 だからこそ川島は今回の事件について犯罪ができない、と思わずにいられなかったのだ。

「坂上刑事は今回の事件の犯人が、どんな目的で犯行を実行したと思っているのですか?」

 そして隣まで下がってきたノアが、そんなことを訊いてくる。

「正直いって想像してもわからなかった。だから今回の事件の動機は被疑者を相当深く理解しなきゃトレースできない、おそろしくオリジナリティーが強いものだと思っている」

 ノアは、ぼくの言葉を反芻しながら自分の直感が当たっているのか、たしかめている風にみえた。

「たしかに、わたしも同じことを感じました。犯人と同じ視点、視座に立たなければみえない世界があるのかもしれない――しかし同じ人間同士です。条件が揃えばみえてきます」

 そんなノアの独白じみた意見について、ぼくは両足のスピードを緩めて両手をあげながら降参するほかなかった。

「種族が同じでも育ってきた環境が違えばみえてくるものもみえてこないさ。むしろ様々な要因をインストールできるお前さんたちの方が平均して良い結果が出そうな気がする」

 ぼくの言葉に、そうでしょうか? とノアは疑問の表情をしていた。ぼくは立ち止まって息を整える。

「いわゆる人間の想像力は、もっと強いものだと思います。なぜなら五千年の時代を生きるには自らの生死にかかわることや他人の生死にかかわることを想像する力が必要だったからです。ですから坂上刑事は、その末裔として十分な想像力を持っていると考えます」

 勘弁してくれ、ぼくは頭を振った。

「軽い冗談ならラディカル過ぎるし議論なら直感的過ぎる。そんな力は持っちゃいない」

 ぼくは血中酸素濃度が九十六パーセントを超えてから再び足を出した。少し先で待っていたノアが困ったような表情をしているのがみえた。

「わたしは思ったことを口にしたのですが……。そう不快に思われたのなら謝罪します」

 それも余計なひと言だ、ぼくはいってノアにならんだ。しかし、そうやって口ではいっても、ぼくは眼前のノアに隠していることがある仮説を自覚しなければならなかったのだ。

 もしかしたら今回の被疑者は自分と完全に同じ環境で育ったのかもしれない、といったことだった。

 ぼくは同じ環境になければ同じものはみえない、とさっきはいった。たぶん、それは真理をついているはず、という確信がある。だが、しかし同時に人間は完璧に同じ視点に立ってしまったら、その者が考える思考を理解することができない、といったジレンマについてワザと言及しなかったのは、ぼくにとって自分といった存在と犯罪者といった存在について無自覚でいたかったからだ。

 ぼくが今まで犯罪者の思考を読み解けたのは平和ボケした日本人ではなく強く生きるといった環境で育った人間だったからだ。ぬるま湯の世界ではなくゼロ度近い冷水の世界にいたこともあるし煮えるような熱湯の世界にいたこともある。そして、それが耐えきれなくなった人間から犯罪といった安易な道に逃げていく。そんな世界で育ったのが、ぼくだったからだ。

 たしかに犯罪者と同じ世界で育ったことで平和ボケした日本人と違った視点でものがみえるのも事実だった。だが犯罪者と同じ世界で育ったことで犯罪者と同じ視点でものがみえるかといったら、まったく別の現実がみえてくる。

 それは、ぼくは犯罪者と同じ視点に立っていない、といったことだ。いいかえれば、ぼくは犯罪者と同じ世界にいながら別の視点でものをみている、ということができて、すなわち平和ボケした日本人には入れない世界に立ってものをみているが犯罪者と同じものはみていない、といったことだった。

 ぼくが犯罪者と同じ世界にいたとしても犯罪者と同じ視点に立ってしまったら犯罪者の思考は読み解けないのだ。なぜなら、ぼくが犯罪者と同じ視点に立ってしまったら犯罪者の顔はおろか表情、仕草、そして思考といった重要な要素を目に入れることができないからだ。

 鏡がなければ自分の顔はみられない。ぼくにとって同じ世界に立つ鏡とは犯罪者そのものであって、そこには必ず自分自身といった存在がうつるといったことがなかったのだ。

 だからこそ、ぼくにとって被疑者の考えが読めない、といったことは、ぼくと同じ世界で同じ視点に立っているということで、ぼくも被疑者と同じ存在であるといったことの証明だったといえた。

 なら別の世界にいるとは考えられないのか? 

 ただ、その疑問は前提で否定されている。なぜなら別の世界にいる人間というのが川島正吾そのものだからで、川島正吾といったミノに隠れる真の被疑者が川島正吾と同じ世界にいるはずがないことは先述の通り証明してみせたからだ。

「いまの話は蔵本センパイにするな。あのセンパイは勘が良すぎるから必ず悪い方向に話が進む」

 だからこそ、ぼくはノアに、そんな指示を出さなきゃいけなかったし、ぼくの指示を聞いて、「了解しました。では会話記録をアーカイブから削除します」とノアは答えていた。

 そしてアラームが耳小骨を揺らす。ホログラにホップアップが表示され一五三〇になったことを理解する。時間がきた。出発の時間だ。ぼくらは準備のために急ぎ部署へ戻ったのだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る