第20話
はなはだ信じられないかもしれないが、ぼくにとって正義とは自分のなかにあるものではなく自分のそとにあるものだった。それは社会のなかで醸成されたひとつの概念の限界点、いわゆる公平な点における社会正義のことで、ぼくらが今現在みたく社会の全てをAIが決めてしまうみたいな社会でなかったころの話のことだ。
――それこそ戦争から立ち直った発展途上の日本で、ぼくが子どもで小学生だったころのことである――
まだ社会には正義といったものが、たくさんの形で存在し、みなが自分の思っているものを信じていた時期があった。そこには自分が思う正義や社会が思う正義や、そういったものの狭間で、どちらが正しいかといったことを繰り返す正義、そんなものが社会の隅々にまであった記憶がする。でも、いまはない。
ぼくが大人になるにつれ日本社会も回復の兆しをみせてきたことで、ある一定の社会正義が浸透するようになってきたからだ。それはAIによる支配と効率の良い社会の実現というものだった。それはAIから今日は、あんなことをしてはいけません、とか、ああいうことをしたらいいですね、とかいわれる社会のことだ。ありえない、とはじめは思った。
しかしながら人間は自分のことを外側の存在に決めてほしくなる生物だったらしく、そんな試みは成功した。
はじめにAIは自分と他人の行動をリンクさせてきた。あのひとは、あんな行動をしやすいから、そんな行動を取れば楽に過ごせますよってやつだ。それからAIは自分の行動も推奨しはじめた。あなたの性格は、こんな感じだから、こうやって動けば楽に過ごせますよって感じだ。そしてAIは社会に対して浸透しはじめた。AIの推奨する行動を取らない人間は悪だ、AIに従う人間が正義だ、そんな意見が出はじめて、みながAIによって自分といったものを規定するようになった。
たしかにAIは人間にとって自分に対する理解も他人に対する理解も、かすかな苦労もなく最適な生活環境と思われるものを獲得させた。そして人間は社会に対する不満も持たず暮らしている。
AIによる支配は社会としても人間としても成功した。それが戦後日本の生き残る道であったのだから良いことだったのかもしれない。だが良薬も量が過ぎれば、すぐに毒に変わる。
いまの日本社会はAIによる支配に依存しAIによる支配から抜け出せなくなっていた。さながらフロムの規定した社会のごとく、いま日本社会は自ら獲得した自由を放棄して誰かになにかの役割をもらって服従する道を選んだ近代のナチス的な大衆社会にまで落ち込んでしまっている。ぼくらの社会は人間の自主性というものが消えてなくなっていた。
そもそも人間の自主性とは自由とは、なんだったのか?
それは固定化した社会から独自の個として独立を果たす行為で、ぼくらが自ら自由や自主性を求める過程であった。ぼくたちの歴史をひもとけば、そのくらいのことはみえてくる。しかしながら自由とは社会からの逃亡であるといったことに、そこから気がつく人間は少ない。
人間の社会活動とは人間個人を固定化し自由を奪うことだ。自由とは固定化された人間個人を開放し自主性をあたえることだ。すなわち選択する権利や可能性をもって行動することだ。そういったことを耳にすることや、目にすることが最近になって、まったくなくなってしまった。だからこそ、ぼくが大学生になったころにリベラルアーツの教授が嘆いていた、きみたちは自由を大切にするべきだ、っていう言葉が記憶に強く残って思い出すことになる。
ぼくにとって今の社会は死んだ社会も同然だ。たしかにいろいろな場所や空間に多様性がある風に思えるが、そこにあるのは効率の良い社会といった言葉で区別されたぬるま湯の世界なのであって自分の理解も他人の理解もないまま実現してしまったニセモノのユートピアであるからなのだ。
そもそも多様性のある社会とは誰もが不快になる社会なのであって、その不快を許す寛容さが美徳とされていたのに、いつからか、ぼくらの社会は、みなが盲目になることで完璧な寛容といった社会を実現させてしまっていた。それは寛容さではなく不理解であるにもかかわらずにもだ。そして、そのことに気がついたときには遅かった。なぜなら、ぼくらの社会に回ったAIの支配という薬害は、いつの間にか全身をむしばみ、そこから回復する体力すら奪ってしまっていたからだ。
もう社会は転がってしまった。AIによる支配といった正義がなければ社会正義が実現しないところまできてしまっていた。だから、ぼくは社会に正義をもとめることをあきらめた。もともと社会にあった正義を自分のなかにしまって、その正義をたしかにもつことに決めた。ぼくの持っている小さな正義が誰にもおかされず壊されないように守ると決めたのだ。
だから、ぼくは社会と正反対の立場に立った。AIによる行動予報もプライバシーの開示も限りなく抑えることにした。なぜなら自分の正義を守るために社会との接続を絶つ必要があると思ったからだ。
――おそらく、ぼくが警察官になったのも、それの延長だったと思っている。警察官という職業は、どうしても秘匿性の高い職業で犯罪者に近く社会に順応しながら社会から離れた特性を持っていなければならなかったからだ――
そうしておけば、ぼくのなかにある正義は形を保つし、ぼくが社会正義といった薬におかされることもない。だから、ぼくのなかにある小さな正義が守れるかもっていう涙ぐましい努力の結果が、いまの現状だったのだ。
もし蔵本さんに聞かれたら、はなでわらわれるな。ノアだったら、たぶん困った表情でたしなめてくるかもしれない。いや、もしそうなったらなったで案外予想外の方向に転がるのではと思わずにいられないのは、たぶん誠実に説得したらノアの辺りはシンパになってくれそうだと思えてしまったからだ。だんだん面白くなってきた。
だから運転席に座っていたノアや後部座席にいる蔵本さんのことを眺めてしまっていたのだけれども、ノアが、ぼくのかすかに緩んだ表情に気がついたのか、どうなされたのですか? と訊ねてくる。ぼくの思考の旅に出ていた意識が、いや、なんでもない、と回答することで現実に戻ってくるのがわかった。
「ちゃんと予習をしなさい」そして蔵本さんが後ろから目を光らせているのもわかった。
ぼくが首をすくめてホログラをながめるほかないのは、いま太田係長から紹介された井田正武氏という人物の周辺調査をおこなっているからで、捜査を効率的に進める上での重要な作業だったからだ。
太田係長から紹介された人間が信用できない、というわけではない。なぜなら、ぼくらが井田正武という人間を調べるのは本件の重要証拠に関係する企業の社員である上に、そこの幹部クラスともなれば、そこから、なにかの結束点が露見する可能性があるかもしれなかったからである。
「IRシステムによる人物照合の結果、井田正武氏には合計百三人との親しい交流を発見しました。そのなかでも社内に絞れば三十五人。いずれもがブレインジャパンの幹部クラスです。そこで通信記録ならびに行動記録を調べましたが、どこにも不審な点は発見できず、現在、その社内三十五人に限定し背後関係を調査している状況です。なにか発見し次第、ご報告します」
「その三十五人の名簿、わたしたちに転送して。あと六十八人のなかでサイバー企業に勤務する人間をリストアップして調査してほしい。円環状の繋がりがみえるかもしれない」
いった瞬間に蔵本さんのホログラにポップアップがあらわれた。すぐに蔵本さんもファイルをひらいてノアのプレゼントの中身をみている。
ぼくもならってノアから同時に送られてきたファイルを開封すれば空中にリストアップされた三十五人の名簿が浮かんできて、ぼくは指でつかみ目につく位置に移動させた。
――ぼくがつかんでいるとはいっても網膜に表示された立体映像なので実際に掴んでいるのではないけれども――
ぼくらはナノマシン経由で体のモーションをトレースすることができる。そうやってトレースしたモーションをホログラフィックモデルと同期させることにより操作が可能になってシンプルな操作なら体の関節や指で触れる箇所にショートカットキーを設定し体を動かず操作できるのだ。
「あやしいひといました?」ぼくが訊けば、「残念。いないみたい」と当然ながら返ってくる。あなたは、どう? そんな蔵本さんの問いには、ぼくも同じです、と肩をすくめた。
ぼくの座席から蔵本さんは少し目線を下げればみえる。ちらっと視線を寄越せば軽く咳払いしてマジメな表情になった。
「太田さんの推薦だから当たり前といえば当たり前だけれども、でも、ひとつだけ忠告しておく。もし次に同じ状況になったとして今回みたいな手段が使えるなんて思わないで」
それから、そんなことをいってくるのである。
「今回は太田さんの紹介だからいくの。わたしが次、今回みたいな状況になったなら、ぜったいに会わない。なぜなら被疑者を刺激し過ぎるし警察が捜査してるとバレて証拠を全部消される可能性がある。警察官たるもの百パーセントの確信がなければ犯罪捜査で決定的な行動を取ってはいけない。わたしたちの基本中の基本だから、ぜったいに忘れないで」
そしてホログラを閉じた蔵本さんは嘆息して、つかれた目を閉じシートに深く背中を沈みこませた。
「ぼくは被疑者を焦らせてもいいんじゃないかと思います。用意周到に犯行を計画している被疑者は自分の犯行に自信を持っているはずで、われわれが、なにかの証拠をつかんだとわかれば、どこか計画にほころびが生じミスも生まれるのではないかと思ったのです」
甘い、と蔵本さんは明言した。
「それほどまで自分のやっている犯罪に対して自信があるならば自らの問題点を検証し発見し修正する腕も知己もあるってことでしょ? わたしだったら、そうやって対処する」
たしかに、そうだった。ぼくだって仮に犯人と同じ立場なら同じことをやったはずだ。
「ぼくの考えは浅はかでした」
そうやっていえば、「でも次に同じような事件があればだけれどもね」と蔵本さんはわらっていた。そして、そのままずるずるシートを下って蔵本さんは両手で頭を抱えながら後部座席で横になる。
「わたしたちが主にやっていることは裁判のために証拠を集めて公訴事由を立証することです。すべての捜査において根本は同じですから坂上刑事が学んだことは次の事件で活かせます」
そんなノアの言葉に前向きなやつだなぁと心の声がもれそうになってしまったのだけれども、たしかに警察業務とは本来そういうもので司法という国家機関の歯車を回転させるための一役者でしかない。社会正義とか治安維持とかの名目的理由は、あとから加えられた理由にほかならないことを自覚しなければならなかった。
「わたしたちの仕事は基本的に地味。わたしたちの仕事は犯罪者を追い詰めるハンティングじゃない。そうやっていってもわからないやつだっている。だから、わたしたちは自分自身に正義感っていう麻酔をかけて仕事をしなきゃいけない。国のためではなく社会のためっていう自覚を養うためにね」
ひとつ質問いいですか? ぼくが訊けば、わたしが答えられるものなら、と返ってくる。
「蔵本センパイにとっての正義って、なんです?」ぼくの質問にノアが一瞬、隣で動揺したみたいに思えた。
「わたしは正しいものとか正しさっていうのが良くわからないから、わたしにとっての正義とは弱いひとを守って不正義と対決する存在だと思ってる。シンプルでいいでしょ?」
いいながら蔵本さんは自虐するような薄いわらいを浮かべていた。
「今回の事件、あなたにとって良い教材になる、と課長に吹き込んだのは間違いだったかもしれない。あなたには、もっと基本的な手順が学べる事件担当になってもらいたかった」
そして蔵本さんは目もとに物憂げな影を出して到着するまで話しかけるな、といった空気で目を閉じたのだった。
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