第14話
ぼくたちが本庁と呼ぶ警視庁本部庁舎は千代田区霞が関の一角に鎮座している。警察学校で聞かされた話によれば百年前から変わらない姿であるらしい。ただ十年前のテロ事件によって相当の被害を経験し相当の修復がおこなわれたとも聞いた。現在では事件の面影はなく、まっさらな傷一つない外見を整えている。
だが内部は、『あの事件の戒め』といいたいのか、いまだに当時ころの傷を残したままでいた。爆弾が炸裂した正面玄関の柱や床には食い込んだ破片が当時と同じく保存されている。だから大理石で作られた柱は大きくえぐられていて、天井には衝撃波が拡散した痕跡が生々しく保たれていた。ぼくがくるのは二回めである。
はじめにきたのは警察官になって初日のことだった。いわゆる警察学校に入校した日のことである。ぼくらは、あの爆風でみじん切りにされた立ち番の巡査や破片で穴だらけになった刑事、エレベーターのなかで落下死した副総監、飛んできた盾によって体を二つに切られた機動隊長、などなど、そんな彼の無念を忘れるなと叩き込まれるために警察学校に入校して最初に連れてこられるのである。
「坂上刑事の認証をおこないました。まもなくパスが発行されますので、お待ちください」
ちなみに、そんなことがあったからなのか警視庁内部はガチガチのセキュリティーで守られている。部外者(本庁勤務者以外)にはナノマシンによる生体認証を通してパスが支給され、それに伴って行動しなければならない。ぼくが許可されていない行動を取れば直ちに機動隊の方々が出動なされ確保されるのである。
だからか、ぼくをみるノアの目も余計に厳しいものに感じられた。ぜったいに余計なことをしないでください、と心のなかでいっているようにみえた。はなはだ心外である。ぼくはマジメな方なのだ。余計なことをする方がマレなのだ。
「坂上刑事。資料室は二階です。エレベーターを出て右三十メートルの場所にあります」
ぼくはくそマジメにピシャっといったノアに咳払いしてエレベーターへのり込んだ。
「ぼくはココの空気、だいぶキライなんだよな」
ぼくがいえばノアは、「そうですか?」と眉をひそめて、
「窒素七八パーセント、酸素二〇パーセント、アルゴン〇.九パーセント、二酸化炭素〇.〇三パーセント、ネオン〇.〇〇一パーセントです。新島署と同じ空気成分含量です」
そして、そんな答えが返ってくるのである。もしかしてノアなりのジョークなのか?
「違う。なんだか息苦しくないか? ザ・警察みたいな感じで。なんだかみんな刑事か官僚にみえてくるし」
「庁舎内を私服でいらっしゃるのは、みんな刑事部の捜査員です。それから、さきほどすれ違ったオジサンは警備部長です。官僚の方もたくさんいらっしゃいます。階級的に坂上刑事は一番下っ端なんですから全員に、ちゃんと敬礼してください」
にこやかにほほえんでノアはエゲツナイことを口走るのである。とはいえ、やはり本庁の空気はキライだった。誰もが警察官みたいなツラをして歩いているのが気に食わない。
ぼくらは犯罪者らと同じか近しい存在でもあるのに自覚すらないのがしゃくにさわる。
「坂上刑事」
そしてノアに呼びかけられわれに返った。エレベーターが到着している。ぼくは降りた。
「最近、坂上刑事の体調は悪化の一途をたどっています。血糖値、血中酸素濃度、ホルモンバランスが通常の数値ではありません。数日間の休息を取る必要がある数値状況です」
「寝てなければ誰だって体調は崩れる。不思議なことじゃない」
ぼくはいってノアのあきれた表情を横目に資料室のドアロックに触れた。ぼくのナノマシンから情報が送られ次いでノアが認証する。ピピッと電磁錠が外れた音が聞えてくる。
「警察官として解決しなきゃいけない事件が目の前にある。それは全力で立ち向かわなければ解決することができない事件で道半ば休むことはできない。なぜなら、ぼくらは警察官としての使命をまっとうしなければいけないからだ。そのためには自分の体なんか犠牲にできる」
そして、ぼくらは資料室に入った。フロア一つ分貸し切った巨大な資料室である。ここにはデータ化できなかった証拠品や現物資料などが保存されている。ノアから聞いた話によれば小型スーパーコンピュータが数台保存されているとのことだった。
「日本技研で発生した工場停止事件と東京シティスカイで発生した大量落下死事故の被害者であるアンドロイドのコンピュータが保存されています。当時の捜査資料によれば事件性なしとしてデータの復元がなされなかった模様です。なにか発見できるでしょうか?」
ぼくはノアにつれられて通路を歩くかたわら、そうなった場合のことも考えずにはいられなかった。
「太田係長の仕事が減って、ぼくらの仕事が増える。出てくれなきゃ困るが、そのときはそのときだ。自分たちで探せってことで大人しくいまの証拠品とにらめっこするしかない」
そしてノアは真ん中くらいまでいったところで立ち止まった。こちらです、と右に折れて細い小道みたいに枝分かれした開架に入っていく。
「それなら坂上刑事の体調が不安です。なにも発見できなければ休暇を取ってください」
そしてノアは、「ありました」と一つのダンボールを指さすのである。小さなものだった。
「なかには東京シティスカイ事件で回収された小型スーパーコンピュータの記録媒体ならびに記憶媒体が四個収められているようです」
ぼくが取り出してみたら、たしかに四つのSSD・HDDの姿があるのを眺めることができた。それから室内をややさまよって日本技研工場停止事件のSSDも回収に成功した。
「警視庁に貸出ならびに加工申請。許可が取れたら新島署に持ってかえって太田係長に分析を依頼する。どれくらいかかる?」
ぼくの疑問に、「すでに申請は完了しています。あとは運び出すだけです」と返ってきた。
なんだかんだあったが、気が利いて器量のある有能なバディはたのもしく思えてくる。
「お前さんを蔵本センパイがひいきしたくなる気持ちがいまわかった。ほれちゃいそうだ」
そして、ぼくの言葉に、お褒めをいただき光栄に存じます、とうやうやしくかしづいてみせるのだ。
「署に戻りましょう。太田係長に分析を依頼すれば明日までにできあがっているはずです」
そうだな、と首肯した。ノアはわらっていたが、あと一時間も本庁舎にいれば居心地のわるい空気のせいで、ぼくの肺に穴があくかもしれないと新島署に戻るのは賛成だった。
そして帰路の車内でノアは、こんなことをいってくる。
「警察官として職務を遂行する上で、わたしは、『正義』とは、『正しいこと』とは、とそんなことを考えることがあります。抽象的かつ多視点的な質問ですが、当該問題を坂上刑事は、いかに考えていらっしゃいますか? 可能であれば、お考えをお聞かせください」
『正義ね』と内心では独白したけれども、たしかにノアの疑問はもっともであったし警察官になれば当然、誰もがぶち当たる壁に間違いなかった。
「そういったのはセンパイや太田係長に聞いた方がいいのだけれども、ぼくなりに思うことがあるとすれば、しかし正義とは、それ自体が正しいというものではなく、それ自体によって自らが正しくあるための道具に過ぎないってことだ。ぼくがいう正しいとは社会通念上でいわれる協調の取れたことである。たぶんミルの正義論が一番近いんじゃないかな」
功利主義ということですか? ノアは訊いた。
「いや相対的な中間点。Justice――いわゆる公平な点が正義ってことだ。誰もから同じ距離にあって偏在なく公平に裁判できる規定ってことだ。ぼくは、それが法だと思っている」
ぼくの言葉をていねいにかみ砕いているノアは、ややあって口をひらいた。
「形式上は全国民の意思で決定した国法が正義ということですね。たしかに公平性といった観点からでは論理的な理論であると考えますが、わたしにとって正義というのは、もっと絶対的な、それこそ、どこかに真理と呼ばれるものがあるのではないかと思えてならないのです」
「――真理ね。真理を正義にするには、いくつかの問題がある。はじめに真理とは人類にとっての永遠の命題で、そんなものがわかったときには人類は、みんな神様になっているかもしれない。けれども、とはいえ真理ってものは人類にとって、もっとも関心のあることに違いなく、これまで解明されてこなかったのもたしかな話で、だからこそ真理ってものは、ないからこそ真理なのかもしれないってことだ」
「どういうことですか?」ノアは訊いた。
「われわれ人間は真理がないからこそ真理をもとめて行動する。だから、そうやって考えたら真理は人間の外にあると定義できる。けれども真理ってのがわかってしまったら、ぼくら人類はひとつに収束して人間の内側に真理が形成されてしまう。そうしたら、その瞬間に真理の定義が崩壊し再び真理を求めるようになるってことだ」
むむむ、とノアが混乱しているようにみえた。
「真理が正義であるならば正義に関して重要な論点が欠落していることも問題としてあげられる。それは暴力による支配という問題だ」
ぼくの論調にノアは口をひらいて閉じた。本当に混乱しているのである。
「まず、はじめに正義ってのは、『正しいこと』のみでは成立しないことを明確に定義しなければならない。なぜなら、『正しいこと』とは、ひとつの概念であって形而上の理念に過ぎず、そこに実体として拘束力が伴わないからだ。そして問題なのは『正しいこと』に実体としての拘束力がなければ、その『正しいこと』は形而上世界から現実世界に具現化されず概念として存在をまっとうすることになることだ。だから正義を実現するには、『正しいこと』のほかに拘束力すなわち力による支配、いわゆる暴力をともなった支配が必要になるって訳だ」
ぼくは、そこまでいって一拍おいた。
「要するに正しいを正しくたらしめるのは国法と対になる暴力装置――すなわち警察や自衛隊が暴力を行使できるからだ。だから、ぼくらの正義とは正しいや真理という概念があるだけで成立せず、ぼくらが正義を実現するには概念と対になる暴力が必要になるんだ」
そして、「わかりました。マキャベリの権力基底説ですね」とノアは、ようやく相づちらしい相づちを打ったのである。
「ただ、ほかの人間には強制力を伴った暴力装置が必要でも、しかし自分に対しては理性という暴力装置をもって自己に正義を強制できる。だから、ぼくの正義とは自らが正しくあるためにもちいる道具で、その正しいものというのは国会で定めた法律ということになる訳だ」
ぼくの論調に同調するも否もノアの自由だったが、どうやら別の視点に気づいたらしい。
「坂上刑事は案外思索的な方なのですね」
「いや、ぼくは常識だから価値があるって考えがキライなだけだ。そこに合理的な価値があるならば、ぼくは受け入れるし、ないならキライになる。たったそれだけのことなんだ」
ぼくの答えに再びノアは小学生をみるみたいな眼差しになっていたけれども、しかしながら、ぼくは、ぼくにとって最善の答えを口にすることができたとして口を挟む気にはならなかった。
「わたしにとって正義とは理想です。完璧で不可侵で欠落のない正しさ。それが、わたしにとっての正義です。自分を正すためにあるものではなく導かれ啓蒙される。そんな現実離れした存在が正義だと思うのです。現実離れしているからこそ意味や価値があるのです」
いや正義に価値なんてない。むしろあるのは悪い影響だ。
「正義とは人類にとって容易ならざるもので、それはひらいてはならないパンドラの箱みたいなものだ。まず精神が頑強で、かつ高度な判断能力を有する人間しかあつかえない劇薬だ。天使の皮をかぶった悪魔なんだ。だから、ぼくは正義を名のって、ほかの人間に迷惑をかけてきたやつをたくさんみてきたし正義を信じて遠くにいっちまったやつを知っている」
ぼくの言葉をノアは、しずかに聞いていた。
「正義ってのはコントロールしようとすればのみ込まれるけれども、しかし存在自体は自覚しなければならないもので薬みたいに使う量を間違えれば毒にしかならないシロモノなんだ。だから正義に理想を求めてはいけない。正義ってのは、なんにでも化ける万能薬ではなく細心の注意が必要な毒なんだ」
しぶしぶといった様子でノアは首肯している。ぼくのいいたいことはわかったが、それは自分の意思に反するといった感じだ。誰しも自分の正義をもったときから、それを曲げられないし変えられない。それが正義の怖さに間違いなかった。
「もしそうなら、わたしたちは、どんなものを理想にして生きていけば良いのですか?」
そしてノアは難しい表情で訊いてくるのである。もちろん、ぼくは、その問いに答えられなかった。
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