第2話
翌日、ぼくの出勤が待っていた。当たり前だけれども場所は新島署だ。昨日までいた東京本土の副都心から海を挟んだ旧江戸川沖人工島に建つ警察署で独身寮からは二十分ほどのところにある。
神域たるシティ東京を守るべく邪悪な本土との間で盾としてそびえる城壁といえば聞えはいいけれども万里の長城や中世の古城とは違い一つの島の上に立つ建造物といった様相から完全に脱却できず、いわゆる海上に浮かぶ警察署として認識されているに過ぎなかった。
その日、ぼくは愛車のSSにのっていった。明るい朝日に照らされる湾岸線が二つみえたのを覚えている。ひとつは本土側。もうひとつはシティ東京側である。本土とコッチでは百メートルも離れていない。だから半分水に沈んだビルや、だいぶ傾いたアパートが目立つ湾岸エリアが良くみえる。ぼくは昨日まで、あの街にいたのだ。
そこで、ぼくは視覚上、数時間前までいた世界が目の前にあったせいで別世界にきた認知不協和を覚えることになったし完全に気分が切り替わらないイヤな感覚を覚えてしまっていたのである。
そして新島署に到着して、ぼくは辻警察署長に転属の申告を済ませ警務課から新しい中型オートの拳銃とホルスターをもらってから刑事課に向かった。新島署は新築の匂いでみちて、いたるところがピカピカしている。どうやら、ぼくが聞いた話では新島署は三日前に完成したところらしい。かしこも自分が新品のツラをして立っているものだから前にいたボロボロ庁舎では考えられない光景に、ぼくは言葉を失っていた。
「坂上刑事。どうされました?」
ぼくの前に人影があらわれたのは、そんなときである。
ぎょっとしてみれば警察署で使われているアンドロイドだった。日本の警察署には珍しい髪の長い女性型のアンドロイドで日本製ではなく海外製のモデルだった。日本製にはない外国人の外見や署内を私服で歩いていたこともあって一瞬、どこぞのモデルが歩いているのかとみとれてしまったのだけれども、ぼくにとって重要なことは別の問題だったのだ。
「刑事課を探しているんだが……」そうぼくがいえば、
「刑事課は二階です。ご案内しましょうか?」
とアンドロイドは口にする。ぼくが首肯すれば先に立って誘導しはじめた。彼女の結んだ後ろ髪が揺れている。青い髪飾りと銀色のネックレスが目をひいた。外見に警察の仕様にはない髪留めやネックレス等のアクセサリーが加えられているのは古くからある警察全体の伝統だ。そうやって規格品から外れた仕様にすることで警察組織の仲間としてみているのだ。ネームには、『NOAH』と表示されていた。
「わたしは刑事課所属のAA、ノアと申します。坂上刑事も突然の配属で驚いていらっしゃると思いますが、なにぶん新島署は平和な立地もあって警察官の配置優先度が低く充足率が足りませんので人材がいるなら、なるべくかき集める、という方針のもとでやっています。ですから、このように急な人事になったのだと考えられます」
「どこの警察署だって同じだな。充足率が百パーセントの警察署は都内にひとつもない」
ぼくはいって、「なにか注意事項はあるか?」と聞いた。
「本署の注意事項として特記すべき点はありませんが、坂上刑事の生体ナノマシンの更新期限が迫っています。現在のパフォーマンス維持のため年内までに更新されることを推奨します。更新は新島署医務室で実施可能です。また期限に間に合わない場合は近隣の病院を受診することになります」
そんなことも話している。ナノマシンは、ぼくの体のなかに入っている合成たんぱく質で構成された機械たちだ。ぼくの網膜や耳小骨に作用してAR画像の表示や音声アシスタントの音源になる重要な機械でLANシステムに接続するアンテナとしての機能を持つ機械でもある。そのせいで行動をミリ単位で記録されるのだが――
「ほかには?」ぼくが訊けば、「今朝、お越しになった自動二輪について。駐車なされた場所は駐禁ですから交通課の業務がはじまる前に移動された方がいいでしょう。巡回開始時刻は〇八三〇です。お早く」と返ってくるのだ。親切なことである。
「わかった」と返答すればノアは、「そのほかに特記事項はありません」そう加えてきた。
なんだかなあ、とぼくは心のうちで独白した。いつでも、ぼくらの生活は、こんな感じだからだ。ぼくらは社会に活かされているし社会はぼくらに生かされている。いつから人間は機械なしで機械は人間なしで生きられない社会になってしまったか。
ぼくらの世界ではコンピュータが行動や傾向のデータを参考にして行動パターンを分析し最適な行動を計算している。その計算によってはじき出された結果は、『行動予報』として社会全体の行動パターンに合算され効率の良い行動の選択を推奨されているのである。
ぼくらは効率の良い行動を取ることを期待されている。
社会全体で効率の良い行動を取ることで社会全体の幸福が完成される。そして社会全体の幸福が達成されることで個人の幸福も最大化される。それに従うことが美徳とされて善き市民としてあつかわれ従わないことは堕落とみなされる。
『善き市民。悪い市民』
ぼくらの祖先も同じように生きてきたし、ぼくたちも同じことをやっているのだろう。
だが、その明白な違いは自らで自らの方向性を決めているのか、外部に自らの行動の選択を委託しているかだ。両者の差異は、とてつもなく大きい。天界と地下ほどの差がある。
自分の住む世界が狂気であることを理解して、その狂気の世界で暮らしながら常軌を保っているのは奇跡に近い。
もしも、ぼくが、まともであったなら、きっと早い段階でおかしくなっていたはずだ。
だから、ぼくが普通の人間と変わらない生活を送ることができているのは、きっと、ぼくがまともでないからに違いない。そう深く自覚する。
「刑事課のオフィスです」そしてノアが目の前で立ち止まったのは、そんなときだった。
ぼくの新しい職場が、そこにあった。できたてほやほや警察署のできたてほやほやオフィスだった。みればデスクがピカピカひかっている。前にいた警察署とは比べものにならないくらいに蛍光灯やコンピュータの類が充実していた。
「では、わたしはこれで。それから、あとで正面に届いた坂上刑事の私物をお持ちします」
そうしてノアは去った。ぼくはオフィスに一人のこされることになる。ガラッとしたオフィスだ。彼女は人手不足といっていたが、ほとんどのデスクにモノがのっていない。だから、ぼくはオフィスの中央でキーボードやぬいぐるみが置いてある座席が刑事課員の座席なのだと確信することができた。
「なにか事件でも?」ぼくに、そんな声が掛かったのは、それから数十秒後のことだった。
ふり返れば湯気が出るカップラーメン片手に、ぼくに対して不審者をみる眼差しで立ったロングヘアーの女性がいた。彼女の胸にある警察IDには「蔵本翔」と表示されている。
「申告。本日付けで刑事課に配属になった坂上です」ぼくは姿勢を正していった。
「ああ、あなたが今日くるっていう新人くんね。IDがないものだから外の人かと思った」
そうやって彼女はいって席に落ち着いた。それからデスクにカップラーメンをおいて時間を計測しながら完成を待ちはじめた。再生プラスチック容器をみる目は釘付けで、ぼくは手持ち無沙汰で気まずく立ちつくすほかなかった。
どこか座ったら? そして、そんなことをいわれるのだ。
「たくさん机は余っているんだから、どこに座っても文句はいわない。あ、でも課長の近くはだめ。あのひと声が大きいから三か月後には難聴になっている。いやなら遠くに」
そしてくすくすわらっていた。
ぼくは、そうっスか、と手近な席に座った。昨日まで個人用のデスクはもっていなかったから、なんだかヘンな気分がして落ち着かなかった。だから、ぼくは余計なことを口走ってしまうのだ。
「ここのひとたちって、どんな方なんですか?」
「どんなひとたち? よくいえばユニーク、わるくいえば個性的ね。課長は破れ太鼓。係長は胃薬。あ、わたしは十二分に普通の人間だけれども、あなたは……普通じゃないわね?」
それからいいながらシリアスな眼差しで問い詰めてくるのだ。ぼくは返答に困っていた。
「冗談よ。わたしは蔵本翔。よろしく」
そして満足したのか、くすっと表情をほころばせて、そんなことをいってくるのである。
ぼくは、「よろしくお願いします」と頭を下げながら、たぶん普通のひとではないなと確信した。
「ところで、ほかの方は会議かなにかですか?」ぼくの問いに、「きてないわ。でも、そろそろ出勤してくるんじゃないかな?」と蔵本さんは答えてカップラーメンをひらいていた。
その二分後に係長がきて五分後に課長がきた。
「えー、注目! こちらは本日付けで刑事課強行犯係に配属になった坂上正義巡査長。それから、こっちは強行犯係。緒方係長、蔵本巡査部長、で、いまはいないがロボットのノアくんがいる。わたしは蒲田。よろしく」
ぼくの紹介はシンプルを極めていた。それもそのはず新島署刑事課強行犯係のオフィスには、ぼくを含め四人しかいなかったからで、それ以上の説明は不要だったからである。
「うちに四人しかいないのは全国的な警察官不足が原因なんだよね。わたしら天下の警視庁も人材不足には逆らえないのだから、ここの職場が合わないっていってやめないでね」
そういって、どんよりとした表情でいるのは強行犯係長の緒方である。課長から一番近いデスクに落ち着いて座っている。
緒方係長は四十前後の中間管理職でデスクワークが得意な様相をしている。どこからどうみても、おおよその外見は臆病な気の弱いサラリーマンであって、まったく警察官にはみえないというのが第一印象だった。蔵本さん曰く大量の整腸剤や痛み止めがカバンのなかにはいっているらしい。どうやら有名な話みたいだ。
「ところで、きみら同じ高校だったんだろ? 前に会ったことがあるんじゃないのか?」
それからデスクに戻ったら課長が思い出したみたいな口調でいった。それも親戚付き合いみたいに、そういえばって口調なものだから、ぼくと蔵本さんは完全に目が点になった。
「誰と誰がです?」蔵本さんが訊いていた。
「蔵本くんと坂上くん。たしか二つ違いだったはずだが――」
そんな風に当たり前みたいな表情で課長は、ぼくらのことを見比べている。ぼくは隣にいる蔵本さんをみた。
ぼくの記憶のなかに蔵本サンの面相はなかったし、蔵本サンの記憶にも自分の顔の覚えはないらしい。わたしたち会ったことがあったかしら? と目線で蔵本さんが訊ねてきているのがわかったから、ぼくは首を横にふって答えるしかなかった。
「わたしたちの世代じゃ学校行事なんてありませんでしたから学年が違えば別の建物で暮らしているみたいなものです。交流することも、ほとんどなかったように覚えています」
蔵本さんは肩をすくめていた。最近の学校生活は、さみしいものなのね、と課長も自分らの学校生活を思い出し記憶に浸っているらしかった。
「なら蔵本センパイってことです?」
ぼくの問いに、「そうなるわね」と蔵本さんは答えた。
それをみた課長は、いいことを思いついたと手を叩いて、ぼくらを指差すのである。
「じゃあ、そういうわけで蔵本くんが教育係になってみたら? いい? なら、よろしく」
そして課長は朝の定例幹部会議に出席しにいったのだった。
面白い職場である。たしかにユニークな職場だと思った。だが、ぼくが前にいたところだったら一時間もしないうちに黒社会や台湾マフィアによってとってかわられるんじゃないかと心配になるくらい平和な警察署だった。
「蔵本センパイ。それで、ぼくはなにをしたら?」だから、ぼくは手持ち無沙汰で訊ねるしかなかったのである。なにって、たしかに、そうね――と蔵本さんは周囲を見回した。
「とりあえず地図でもひらいて地理を覚えたら?」ぼくは新島署での生活が思いのほか厳しいものになると思ったのである。
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