序章 拳と癒やし2
「自分より弱っちいガキにいいように殴られるってのはどんな気分なんだ?」
酒場の裏手。誰かの吐瀉物が香る路地裏にて頬のこけた男から今日の取り分を受け取る。
「まともな自尊心がある俺には耐えらんねえな」
使い走りであろう男がへらへらと笑った。いつも通りのことだが無視して渡された袋の中身を確認する。
「金貨四枚?」
「ああ、そうさ」
死にかけた吸血鬼のような頼りない顔で間髪入れずに返答されるが、引き下がることなどできない。
「ふざけてんのか、金貨は五枚だったはずだろ」
「中身のことは知らねえよ。俺は渡せと言われたものを渡しただけだ」
薄ら笑いを浮かべる男に詰め寄る。
「胴元の指示通りあの小僧に勝たせてやったんだ。くだらねえ真似をするな。払うものは払え」
「お前、まさか俺が中抜きしたって言いてえのか?」
「俺が胴元に直談判へ行けば、はっきりするがどうするよ。お前の前任者は同じことをして片手を切り落とされたぞ」
青年の低い声に男は笑みを引っ込め、隠し持っていた金貨を一枚渡した。
最初から素直に渡せよ、と出かかったが今後もこの男が報酬の受け渡しをするなら不必要に波風を立てない方がいいだろう。金貨五枚を懐にしまってさっさと帰路についた。
夜も更け頼りない月の輝きの下を一人で歩く。目抜き通りには火の魔術師が灯した魔灯が一定間隔で並び、石畳を照らしてくれている。
ここ王都のような栄えた街ならではだろう。夜にも関わらずこうして安心して歩けるのは非常に助かる。殴り合いになれた男とは言え宵闇に包まれた路地裏などは意味もなく歩きたい場所ではない。
立ち並ぶ建物は酒場の類が多く、すれ違う人種は雑多だが誰もが酒の匂いを撒いている。
目につくのは何処かで引っかけてきたのであろう商人。客にすげなくされて大声で罵倒する娼婦。逆に大勢の女に囲まれたいかにも魔術師然とした服装の男。連れだって道の真ん中を我が物顔で歩く裏稼業と思しき集団。
彼らの誰に絡まれても面倒なので道の端をゆっくりと歩く。
拳闘試合の夜は一直線に自宅へ帰るようにしている。
懐が温かいと不必要な出費をしそうになるので自制していた。
そんなククナ・ウルバッハを友人は、つまらない生き方だと評したが、拳闘賭博、それも胴元と繋がっている八百長拳闘士などいつ稼げなくなるともわからない。金を持っている時にこそ使わないようにするべきだろう。
晩春に似つかわしくない生ぬるい風に背中を押されて足を速める。
ふと道の脇に転がる黒い影が目についた。興味本位で近寄ると影は身体を拡げて威嚇した。
「カラス……?」
こんな夜中に町でカラスを見かけるとは珍しい。
ククナの不躾な目線が気に食わないのかカラスは一鳴き。だが逃げようとはしなかった。いや、できないようだった。
左翼が歪んでいる。畳まれたはずの翼は垂れ下がり、歩くたびに地面を擦っている。仲間にやられたか、鷹かそれとも人間の悪意の的にでもされたのか。
同情の匂いを嗅ぎつけたのかカラスはまいったと言わんばかりに小さく鳴いて、短い脚で数歩詰めてくる。何とかしてくれないかと頼まれているようで妙に人間臭い。どうにも苦笑してしまう。
溜息を吐いて、子供と目線を合わせるかのように屈む。
どうせもう帰って眠るだけだ。金も入って気分はいい。動物は特別好きでもないが、今日は気まぐれの優しさを振舞うだけの余裕がある。
「わかった、こいよ」
カラスはまるでククナの言葉を完全に理解したかのように足元へすり寄った。
ゆっくりと息を吸い、右手を黒い翼へと添える。カラスはこれから何が起きるかを知っているかのように大人しい。
ゆっくりと息を吐き、集中する。
肌を舐める温い夜気。鼻をくすぐる酒精。誰かの下卑た笑い声を意識から切り離し、目を閉じる。瞼の中で翼に触れた手を描き、そこに向けて心臓から光の糸を伸ばす。糸は早くも遅くもない速度で胸を通り肩へ。そして肘を通過して手の平へと到達した。発光する血管の様子を闇に映しきり、ククナは目を開ける。
ククナの右の手の平には瞼の中でそうしたように淡い光が握られていた。北の果てにある寒空を包む発光現象のようにどこか怪しげで美しい光。
カラスは突如の光に驚いたのか頭を振ったが、無害だと察したのかすぐに落ち着いた様子で光を受け入れた。
しかし、その美しい光も長くはもたなかった。時間にして五秒もなかっただろう発光は終わり、ククナは立ち上がろうとしてその場でまた膝をついた。
全力疾走したかのように息が上がる。
額に汗が滲んで伝うのが分かった。おまけに強い酒を一晩中飲み明かしたかのように視界が歪む。天地が返って吐いてしまいそうだ。
先ほどまでの善意を後悔しそうなまでの体調不良。理解していたはずだが久々に使用することもあってか、この力の反動の大きさを改めて思い知る。
だが、ククナの体調悪化に反して元気を取り戻したものもいた。
ばさばさ、と足元から音がする。地に伏せた眼前にはカラスが翼を拡げていた。折れていたはずの左翼は最初から何事もなかったかのように右翼と対象を描いている。
カラスはもう一度、ばさばさと調子を確認するように翼をはためかせると、もはや用なしとばかりに闇の中へと飛び去った。
「礼もなしかよ……」
息切れが治まり、激しい眩暈も波が引くように消えたので愚痴と一緒に立ち上がる。
善意に見返りを求めること自体ずれているのかもしれないが、相手は動物だ仕方がないだろうと納得する。少なくとも良心を慰めることはできた。
もうさっさと帰ろう。頭を掻くと手に嫌な感触がぶつかった。まさかな、と見るよりも先に察したが、もはや諦めの境地で検める。
白く濡れた糞が手にこびりついていた。
「どういたしましてだ。糞野郎」
どこかでカラスが鳴いている。
今夜は夢見が悪そうだ。
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