女神身罷りし世界にて
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1 黄薔薇の天秤
序章 拳と癒やし
ここは最低の場所だ。
汗や血、酒に黴などの匂いが染みついていて息が詰まりそうになる。
「いい加減に決めろ」
「そこで押し込めよ!」
「やる気がないなら止めちまえ!」
「殺せ! 殺さなきゃ殺すぞ!」
それにも関わらずこの地下の一室には多くの人間が詰めていた。その誰もが漂う悪臭に意識を向けていない。彼らにとってそんなことは些事も同然。もっと集中すべきものがある。
粗野な掛け声の中心にいたのは二人の男だった。
腰ほどの高さの板で四角く仕切られた範囲で男たちは睨み合う。
十代半ば、舞台役者のように整った顔立ちの少年と少年期を過ぎて久しい無精髭の青年。二人はともに上半身をさらけて拳を構えていた。
「達人を気取ってんじゃねぇよ」
「さっさと殴り合えよ。馬鹿がよ」
歯のない中年や、殴り合いなどできそうもない痩せぎすの男までもが威勢よく二人を焚きつけ罵倒する。
ここにいる大勢は囲まれた二人を、少年と青年の行く末を見物しにきていた。
「そんな生っちょろい小僧なんてさっさと叩き潰せ」
「負けんなよ小僧! お前に有り金全部を突っ込んだんだ」
口汚い野次や無責任な怒声が至る所から二人に投げつけられては地下を反響する。
これがただの喧嘩だったなら野次馬がここまで熱狂することもなかっただろう。
だが、これは賭け試合。
認可されていない違法な商売、拳闘賭博だ。
今まさに仕切りの内で向かい合う両雄のような男たちが殴り合いを行う場。
夜毎行われる拳闘士たちの試合結果を予想し、誰かは金を手にし、また誰かは金を失う場だ。
背徳感と金、そして暴力。この掛け合わせが野次馬──博徒たちの血を燃えさせていた。
熱源の一人が拳を振るうと周囲からは声が挙がり、もう一人が躱すとこれまた同じように声が挙がった。
「やれ! やっちまえ!」
ここ『拳闘倶楽部』において対戦の組み合わせに年齢や身長、体重差などは考慮されない。
加えて保護具の一切を付けない殴り合いは怪我はもちろん時として死人を出す。
商売として認可されていないだけではない。競技とは呼べない危険性の高さはまさに違法の遊び場。腕試しなどといった動機で踏み入るには死が近すぎる舞台だった。
そんな裏の世界で齢十五程の少年が堂々たる姿で大人を翻弄していた。
対戦相手の青年は一般的な成人男性よりも背が高く筋肉量も多い。
少年と比較するなら頭一つ分は背丈が違う。体格面では圧倒的に劣っていた。
しかし、試合が始まってから苦い顔をしているのは青年。
理由は明白。
己の拳は躱され、一方的に打ち込まれているから。
少年の足は跳ねるように軽く、踵が地面を弾くかのように俊敏に青年の間合いの内へ入り込んだかと思えば気が付くと間合いの外へと消えている。
青年が慌てるように腕を振り回したところで獣のような早さと敏感さで危険地帯からは離脱。有効打は入らない。そんな青年の打ち損じた拳の隙間を縫っては自分の拳を叩きつけている。
当初は体重差と搭載された筋肉の量から青年にはあまり効いている様子もなかったが、自分の攻撃が躱される度に細かく打たれる。すると呼吸が乱されるのだろう。自分の調子で試合を運べないことに苛立っているようで青年の動きは徐々に大雑把になっていた。
その姿を憐れむように少年は笑う。
「こんなもんかよ」
彼我の絶対的な差からの余裕。
挑発のように誰かへぶつけるではなく、感情がひたすらに漏れ出ただけの笑み。
「身体が大きいだけじゃ勝てないんだよ」
これで終わりだ。
少年は続けると笑みを仕舞い、強く踵を踏み込んで加速した。
「あ!」
誰かが叫び、被さるようにして地下が博徒どもの悲喜こもごもの咆哮で揺れる。
突貫してくる少年に青年が意地の一撃を放つもその拳が何かを打つことはなかった。
「く、そ……」
消え入りそうな声音。
敗者の証が青年の口から溢れた。
やがて、ゆっくりと蝋が垂れ堕ちるように青年は膝を付く。
大振りな一撃をいなして、少年が顎を打ち抜いた結果だった。
青年は受け身をとることもなく地面へと沈み、少年は拳を掲げてる。
誰が勝敗を叫ぶでもなかったが決着は明らかだった。
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