1章 魔に踏み入る2

 酔えないというのはある種の欠陥だと思う。


 人間が酔ってしまうのは現実から受ける厳しさや苦しさを鈍らせて自分を守る為のものだ。少なくともククナはそう思う。将来や仕事、人間関係に金。頭の中から心を蝕もうとする宿痾全てを消してくれる妙薬。そうでもなければ大して美味くもない安酒のために誰もが酒場に集いはしないはずだ。


 ククナにも当然、目を背けたい現実があり酒の力を頼るが周囲の人間ほどに酒は力を貸してくれない。体質なのだろうが、こういうときは酔って机に突っ伏している輩が羨ましい。


「どしたのククナ君?」


 軽い調子で女に尋ねられ、ぼんやりしていた意識が引き戻される。


「珍しく酔ってる?」


「まさか」


 首を振ってジョッキを呷る。給仕に進められるままに頼んだ酒だが酸味がきつくて口に合わない。西方から仕入れたと言っていたが痛んでいるだけかもしれない。


「これ酷いな」


「じゃあ、私にちょうだい。飲むから」


 ジョッキを渡し、伸びをすると背骨が小さくなった。


 女──ダフネは渡された酒を一息に飲み干すと「きくー」と大声を上げた。時刻は太陽が沈んで久しい暮れ。だが、それを咎めるような人間はこの場にはいなかった。


 ここは灰山羊の蹄。王都に軒を連ねる酒場の一軒。それなりの酒、それなりの料理を安く楽しめる店だ。昔から王都にあるが流行ることもなく廃れることもない、土地と一緒にあり続けただけが特徴といえる店。回りに居るのは酔客ばかりだ。


「酒ならなんでも良いんだな」


「好きな人と飲むんだから泥水も美酒と同じだよ」


「あっそ」


 気安く言われるが酒の席での女の言葉を本気にしてはいけないことぐらい弁えている。


 簡単に流されたことが面白くないのか肩を殴られた。悪戯好きの猫のような目が細まって愛嬌が強まる顔に喉から小さい笑いが漏れる。


 ダフネはククナとは違い魔術連盟に加盟する正式な魔術師だ。だが、魔術師としていかほどのものかと問われれば悲しいかな三流らしく、魔術師としてではなく連盟の事務や雑務を主な業務としているらしい。


 仲が良くなったのもそれが原因だ。三年前、灰山羊の蹄に酒を飲みに来たとき隣席がダフネだった。ダフネは相当に酔っ払っていたのか初対面にもかかわらずククナへと絡みつき、仕事の愚痴を吐き続け、最終的には吐瀉物までも吐きかけた。


出会いとしては最低の部類だが、今ではこうして定期的に顔を合わせているのだから良い友人を得た代償を前払いしたと無理矢理自分を納得させている。


「でも、ダフネさんの言うとおりですよ。なんか心ここにあらずというか……」


 同じテーブルに着く少年ナーロもククナを心配げに見つめた。もうすぐ二十歳だというのにまだ幼さが抜けきらない顔は人懐っこい犬のようだ。そんな見た目をしておきながら、ダフネと同様に魔術連盟の魔術師だというのだから驚く。しかも年下でありながらダフネの指導役などもこなし、腕は一流だというのだから尚更だろう。


 ダフネを通じて知り合ったが、優秀な魔術師でありながらも驕らない素朴な性格は一緒にいて心地が良く、今では三人で酒を飲む機会が多い。王都にあって迷いなく友人と呼べるのはこの二人だろう。


「あの時ああしていればって思い悩むことあるか?」


「ないかな」


「僕はありますね」


 一人はけろりとした表情でもう一人は半笑いだ。


「私はいつだって前を向いて進むだけだからね。過去を振り返って選ばなかった道を羨んだり、自己憐憫に浸るなんてしない。大抵は時間も心も削られるだけでもったいないからね」


「まるっきり強い人の理屈ですね。魔術は下手なのに……」


「にゃんだとこのやろう。ナーロの教え方がへたくそなんだぞー」


 気のない怒声をあげてナーロの几帳面に整えられた髪をくしゃくしゃにかき乱すダフネに笑う。


 確かにダフネの言うとおりだが、だからといって忘れることが出来ないのが人間だ。かといって、いつまでも手に入らなかった金のことなど引き摺るのは建設的じゃない。もっと酒の力を借りて頭を鈍らせようと給仕を捕まえて注文を追加する。


「やっぱり何かあったんですね」


 その間にダフネを引き剥がし、乱れた髪を撫でつけながらナーロが口を開いた。


「俺ってそんなにわかりやすいか?」


「だって、ククナ君って酒を飲むときに真面目な話するの嫌いでしょ? いつだったか言ってたじゃない。酒で現実逃避してるのに酔いを醒ますな、って」


「ちなみに前回一緒に飲んだときは、もし猫が人類を支配したらどう生活するかで朝まで話してました」


「それかお金の話」


「聞く限りだと俺はろくでなしだな」


「そ、殴り合いで稼いで現実と向き合うのを嫌がってる守銭奴が真面目な顔して訊いてくるからこっちは引っかかってんの」


 笑って酒を呷る二人に溜息をつく。おおよそ当たっている身としては苦笑するしかない。


 ただ、多少毒を吐かれたところで苦笑程度で気兼ねなく付き合える二人だ。今日あった来客のことも馬鹿話として語って終わらせるのもひとつの区切りになるかもしれない。


「今朝のことなんだけどよ」


 続く形で魔術師が押し入ってきたこと。女神の魔術のこと。大量の金貨を手に入れ損ねたことを話した。すぐにダフネが茶々を入れてくると思ったが、意外なことに二人とも黙ってこちらを見つめていた。そして話し終わると同時に神妙な顔つきへ変わった。


 笑えなくとも、もう少し反応があるものだろうと構えていたが肩透かしを食らった気分だ。


「何個か確認していいですか?」


 数秒か数十秒か、店の中で唯一沈黙するテーブルとなっていたがナーロが律儀にも手を挙げて発言した。


「その魔術師はガノと名乗ったんですよね?」


「ああ」


「どのような容姿を?」


「かなり目立つ子供だったな、歳はお前よりも五歳くらい若いんじゃないか。真っ白な髪に紫の瞳。なぜかは知らないが黒の夜会服を  なんだよ?」


 言っている途中に二人へ向き直るとナーロとダフネは顔を見合わせ目を丸くしていた。


「ガノですよ!」


「本物かな?」


「おそらく」


「魔術師ども、俺を置いていくな」


こちらのことなど忘れたように捲し立てる二人をせき止める。


「すいません。ちょっと興奮しちゃって……」


 ナーロは頬を上気させ笑顔の数歩手前といった顔だが、ククナにはどうも興奮する原因が分からなかった。


「ガノは魔術師界隈では超有名なんだよ」


 ナーロよりは幾分冷静なダフネはそう語るが、魔術師界隈といわれてもそこに属さない人間からすれば曖昧に頷くしか出来ない。


「いえ、超有名なんてものじゃありませんよ。世界でも指折り、伝説的な魔術師の一人ですよ」


「なんとなく雰囲気のある子供だったけど、そう言われてもしっくりこないな……」


 唾を飛ばして顔を寄せるナーロを押しのける。


「逸話はたくさんあるよ。星を落としたとか、竜の軍勢を従えているとか、指を振るだけで城を吹き飛ばしたとか。流石にほとんどは噂話の域をでないけどね」


「そんなぶっとんだ逸話があるなら耳に入っていても良さそうなもんだけどな」


 嘘だろうと分かっていてもそれだけ派手な逸話を生み出すような魔術師ならば、一般人の間でも酒の肴として語られそうなものだ。


「まあ、正直に言うと魔術師ガノっていうのは私たちより前の世代で流行った都市伝説の類いだったんだよ。今では廃れて、魔術連盟が所属してる下っ端とかに対する訓示や意識高揚に使われる程度の寓話的な存在になってるんだ」


「でも、その存在が二年前に認知されたんです!」


 ナーロが机を叩きジョッキの中の酒が揺れた。酔いが回っただけではない熱量を感じる。


「二年前って……」


 何か記憶に引っかかるものがないかを探るが駄目だ。


「ダモ大森林の火事ですよ!」


 あまり響いていないと思ったか、ククナの口から答えが出ないことに痺れを切らしたようにナーロが叫ぶ。


 ダモ大森林は王都の南東に拡がる森の名だ。木樵が十人がかりでもなければ切り倒せないような巨木が多く生え、その広さは大陸随一の面積を持つ王都の三倍はあるといわれている。


 言われてみれば数年前にどこかの森で大きな火事があったと誰かが騒いでいた記憶がある。


「ああ、森の三分の一近くが灰になったってあれか」


 当時は森が火災になったところであまり関係がないと無関心だったが、後に被害規模を聞いたときには流石に驚いたものだ。


「火の勢いや規模が尋常じゃなくて軍と魔術連盟が共同で消火に当たったらしいな。死者もかなり出たとか」


「そう。でも実際は火事なんかじゃなかった」


 ぐい、と話に勢いをつけるように酒を呷ってナーロは続ける。


「一人の魔術師が政治的思想から起こした大規模破壊だったんです」


「火事じゃなかったのか?」


「魔術を利用した犯罪自体は前々からありますけど、この一件に関しては被害規模が大きすぎましたからね。国力の中核を担う魔術師へ対しての市民感情がどう傾くかを懸念して偽の情報を流して箝口令がしかれたんです」


「じゃあ、俺に話したら駄目だろ」


「相手は選んでますよ。それに人の口に戸は立てられませんから」


 大仰に肩を竦められる。幼い顔立ちが相まって芝居がかって見えた。


「それで彼を止めるため、いえ殺すために軍と連盟の総勢三百人以上が立ち上がりました」


「魔術師一人を殺す為に三百人……」


「そう。それほどまでの力をもった魔術師だったんです。壊すという行為に特化した魔術の使い手だったのも大きいですけどね」


 一人のために三百人とは、普段一対一の殴り合いをしているククナからすると規模感が違いすぎてまるでぴんとこない。魔術師が一般人と比べてどれほど危険な存在であるかは心に留めていたが、流石に一個人がそこまでの力をもつことなどできるのだろうか。


「彼は灰の魔術師と呼ばれて文字通り何もかもを灰へと変える魔術の使い手でした。木も岩も草も人も、火や風といった変えようのないものさえも灰へと変えてしまう」


「死の化身だな」


「本当にその通りです。剣を振るおうと、矢をつがえようと肌に触れることもなく灰に化す。魔術の火だろうと氷だろうと関係なし。今でも最強の魔術師は誰かという議論の際には必ず名前があがる存在ですよ」


「つまり、その最悪な魔術師との戦いを勝利に導いたのがあの子供ってことか……」


 ナーロが熱を帯びていきこのままでは延々と語り始めそうなので、結論へと切り込む。


だが、ナーロはしてやったりと言わんばかりに笑って首を横に振った。


「少し違います。彼女は一緒に戦ってなんていません。彼女は三百人が死屍累々。もはや惨敗の戦場へと、どこからかふらりと現れて灰の魔術師の前でこう──」


「──こう一言呟いた。『うるさい』その瞬間に辺り一帯が光に包まれてかき消えたと思ったら彼女は姿を消し、後には灰の魔術師は瀕死の状態で倒れていた」


 横からダフネが割って入る。その口調はナーロほどではないにしろ熱量がある。やはり同業の魔術師としては力あるものに対しての畏敬のようなものがあるのだろう。芝居がかった口調でダフネは続けた。


「三百人を打ち負かした魔術師をほんの一瞬で行動不能の状態にした謎の少女。その時の目撃証言が白の巻き毛に紫瞳。そして夜会服ってわけ」


「伝説の魔術師現るってことか」


「そ。その後は勲章や表彰の話が出てたらしいけど、当の本人が見つからないから立ち消えになったって」


「実際は監理されていない強力な魔術師を国が取り込むための口実だったらしいですけどね」


 話の肝を横取りされたのが面白くないのか、つまみの燻し豆をいじりながらナーロが付け加えた。


 いつのまにかジョッキは空になっていた。たしかに酒のあてには丁度良い話だ。軍と魔術師の混成部隊を壊滅させる怪物を一蹴する詳細不明の化物が友人の前へ顔を出したのだ。この二人の興奮も理解できる。


「ガノには驚いたけど、それにしてもククナ君が女神の魔術を使えるとはねー」


 ダフネが間延びした口調のあとにごぶごぶと酒を飲み干し、ククナの分も併せて女給に酒の追加を頼んだ。


「女神の魔術って使える人間がすっごく少ないんだよ」


「本当ですよ。そんな希少な魔術の使い手なら普通言いませんか?」


「別にいいだろ。そもそも本当にただ少し使えるって程度で使い手なんて言えたもんじゃないんだよ」


 披露するほどの特技ではないし必要もなかっただけだ。あえて隠していたわけでもない。


「おまえらがどんな魔術を使うかなんて訊いたことあったか?」


 言い分に納得していないのかダフネはわざとらしく頬を膨らませて不服顔。


「ククナ君って少し冷たいよね。私は心を開いてるのに自分のことはあんまり話さないし」


 膨らんだ頬を指先で潰すと、酒臭い空気がかかって顔を顰める。


 ワンドンで最も親しい友人はこの二人だ。気安い関係。遠慮のいらない間柄。それでも二人はククナにとって友人でしかなかった。仮にもっと深い関係を求めるならククナ・ウルバッハという個人の内側を晒すべきかもしれないが、そこまでは求めていない。


 ダフネとナーロは酒を酌み交わす程度の友人。お互いの深い部分には触れないが故に馬鹿な話をしていられる相手。この気楽な付き合いが心地良いし丁度良い。そのままでいたい。


 一度、出身地方の話から二人が身の上話を始めたことがあった。二人は盛り上がり、勢いのままこちらへと水を向けたが適当な嘘で言い繕った。我ながら咄嗟によく口が回ったものだと感心したがダフネは猟犬のように匂いを嗅ぎつけたらしい。それ以来、根掘り葉掘り聞いてくることがある。あまり触れられたくない部分だとわからない程に彼女は鈍くない。それでも容赦なく詰めてくるのは深い関係を望んでいるのか、それとも好奇心か別の理由か。


「今だって話してるだろ」


「違うよ。今日あったことなんかじゃなくて、もっとククナ君自身を知りたいの」


「俺はククナ・ウルバッハ。好きなものは金と強い酒。よろしくな──これでいいか?」


「金と酒って、ひどい自己紹介ですね……」


 呆れた物言いのナーロの髪をめちゃくちゃにかき乱してやり、立ち上がる。


「そろそろ帰るわ」


「怒ったの? まだ早いよ。一緒に飲もうよー」


 テーブルに突っ伏しながらも袖を掴む手を引き剥がす。


 ダフネに付き合っていては明け方まで飲まされる。分の悪い会話を続けたくもないし、そろそろいい時間だろう。


「怒ってねえよ。今日は朝から色々あって疲れた。あんまり遅くまで飲むとうなされそうだ」


「嘘ばっかり。いっつも日中は暇してるくせに……」


「怒った。今日はお前の奢りだ」


 出しかけた財布をしまって指さすと「えーんもぅ」と吐息とも言葉とも取れる音を出してダフネはテーブルへと沈んだ。


「それじゃな」


 笑いながら髪を整えるナーロの肩を叩いて店を出る。


 日常にあった小さな棘はいつのまにか抜けていたようで、気が軽い。ククナは足取りも軽く家路を急いだ。

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