第30話 (悠月)
彼女のファンでいることは楽しかった。
わたしが、彼女の好きでいることが周囲から見ても自然なことのように思えた。彼女をアイドルとして、ただファンであるわたしが推しているだけだ。
ファンと推しの関係性。そこにはどんな不自然さも感じられない。
なにより、ファンとはただアイドルを全力で応援するものだ。その見返りは、イベントやライブで彼女達の可愛らしい姿を見て、心の活力をもらうことだけで、それ以上のものは求めない。
わたしがただ一方的に彼女を好きでいるのに、これ以上にふさわしい形もなかった。
だからこそ、アイドルという立場で、彼女の身近にいる自分が辛かった。ファンとしてのめり込んでいく内に、どんどんアイドルとしての自分が嫌になってくる。
同じ控え室を使って、同じステージに立つ。SNSでやり取りして、プライベートの写真も撮って、オフに遊ぶこともある。
そんな関係だったら、身近で対等な距離感だとしたら、もしかしたら彼女もわたしを好きになるかもって思ってしまう。
わたしは彼女に好かれるって思いたくなかった。叶いもしない夢を追いかけるのが辛くて、逃げた。それでアイドル活動を休止したのだ。
それなのに。
彼女は活動休止しているわたしへ会いに来た。プロデューサーのちーさんから頼まれたと言っていた。それだけなら直ぐにあきらめると思ったけれど、彼女はあきらめなかった。彼女はわたしを度々呼んで、会いに来た。それから彼女の悩みを聞いて、つい力になれるとわたしからも近づいてしまった。
離れないといけないと、自分を勘違いさせてはいけないとずっと言い聞かせていたけれど、彼女の一挙手一投足がわたしを喜ばせて、どきどきさせて、ときには悲しくさせる。
彼女をわたしの心から遠ざけることなんてできない。だからせめて物理的にも距離を取るしかないのに。
彼女はわたしから離れてくれない。だからわたしの彼女への気持ちも、どんどん強くなってしまって。
「継ちゃん。……わたし、継ちゃんとキスしたいっ」
もう抑えられなかった。わたしはただのファンだからと抑えていた気持ちを、これ以上そのままにはできない。
もしかしたら、彼女がわたし好きになってくれるかもしれないと思ってしまう。
夢のようなことを、あきらめられずに願ってしまった。
「いいの、悠月? 本当に?」
遠ざかろうとしていた彼女を、わたしは呼び止めてしまった。
今度こそ、彼女からもわたしから離れようとしていたのに。今度は、わたしが彼女に近づいてしまう。
「うん。わたしもキスしたい。キスしたいよ、継ちゃん」
わたしがそう言うと、彼女は頬を赤らめて笑った。
「じゃあ、失礼します」
「し、失礼って。それを言うならわたしのほうが無礼者だよ……っ」
ファン主席としては切腹物の掟破りだ。アイドルにキスしてもらうなんて。
どうしよう、明日から養成所のみんなに会わせる顔がない。
それでも、それでもわたしは彼女とのキスを選んだ。
このキスに、もしかしたらそんなロマンチックな意味はないのかもしれない。彼女の思いつきで、やっぱりなんの感情もないかもしれない。だって彼女が言ったのは、あくまで『好きなのかもって思って』じゃないか。キスして、わたしの唇が思っていたのと違うってなったら「やっぱ勘違いだった、ごめんね。悠月さん」って彼女は苦笑いするかもしれない。
そしたらもう終わりだ。わたしの唇は大丈夫なんだろうか。キスなんてしたことがない。こんなことなら、体なんて洗っている場合じゃなかった。唇のケアの一つでもしていればよかったのに。
けれど後悔してももう遅い、彼女の顔がわたしに近づいてくる。わたしは意を決して、まぶたを閉じる。暗闇の世界で、心臓の高鳴りがうるさいぐらいだ。彼女の顔をもっと見ていたかった。でもわたしが目をかっぴらいていたら、雰囲気が台無しだし、「悠月さん、キスするときその顔はマナー違反でしょ? 目くらい閉じてくれないとできないって。あーもう冷めちゃったな」ってなるかもしれない。
数秒が、ほんとうに長く感じられた。
彼女の唇が、わたしの頬に触れる。
ん、頬?
「……継ちゃん?」
「えへへ……キス、しちゃった」
「う、うん……」
「悠月、どうだった? ……その、わたし、初めてしたから上手くいったかどうかわかんないんだけど?」
キスは、どうやら頬へのキスだったようだ。
わたしは少しだけ泣いた。ただこれは、うれし泣きということにしておく。
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